第三十二話
____半年後。
蒸し暑い夏を越え、季節はすっかり秋になった。
空の青は薄くなり、朝晩は随分と冷え込むようになった。
「……寒いな。やはりもう一枚羽織ってくるべきだった。」
「………申し訳ございません、私が気付きさえすれば…」
「さすがに其方も気候の変化までは分からぬだろう。問題ない、動けば暖かくなる」
「……猛龍様。申し上げにくいですが、今から向かうのは講義ですので、あまり体は動かせないかと。」
まさか本当に忘れていたようで、それを聞いた猛龍は体を硬直させた。
「………そもそもだ。なぜこんな肌寒くなっているというのに室内での講義じゃないのだ!」
「………度々申し上げにくいのですが、それは室内で暖かくして講義を行えば猛龍様が眠ってしまうからです。」
「私は眠ったのではない!!目を閉じただけだ…!」
私がお呼びしても起きられなかったじゃないですか、と思ったが、その言葉は心のうちにとどめておくことにした。
半年前と比べて猛龍は座学にも励むようになった。
まだ体が勉学に追い付いていなくて眠ってしまったり筆を投げてしまったりすることはありつつも、最終的にはきちんと座り、眉間にしわを寄せながらではあるが机に向かうようになった。
きっかけは猛龍が寧々への恋心に気付いたあの日で、どこでそんな話を聞いたのかは分からないが、「武術の強いだけの男なら数えきれないほどいる、強くかつ賢い男が女性から慕われるのだ」と似つかわしい言葉を急に言い出しては、すぐに講義へ出席し始めたのだ。
本当に何か病にかかってしまったのではないかと心底心配したが、これで蓮司も王様からの圧に苦しまなくて済むこととなった。
_____寧々と自分が王子様たちの前で無礼を働いたあの日以降、蓮司は、そして猛龍までも寧々の姿を一度も見ていない。
猛龍は「いくら貴族の娘だといっても王宮内を頻繁に歩き回らないだろう」とは言っていたが、蓮司はどうしてもあの日のことがあるため気がかりに思っていた。
「……寧々殿のことですが、さすがに顔を見ない日が続いていますね」
猛龍は腕を組んでうーん、と唸った後、「それもそうだな」とぽつりとつぶやいた。
「私もあの娘のためにこうやって勉学に励んでいるが、目的である彼女とこんなに会えなければやる気も落ちてくる。」
それだけはやめてくれと蓮司は心の中で合掌をして願った。
「そういえば、私はずっと疑問に思っていたのですが、猛龍様はその…”恋煩い”という言葉を誰から聞いたのです?あまり王宮内で流布しているような言葉ではないと思われますが。」
「ああそれか?それなら黒蛇に聞いた。我が弟ながら黒蛇は博識でな。私とは真逆で武術には全く興味がないが、そういう…豆知識?のようなことはよく知っておるのだ。症状を伝えたら一発で言い当てたぞ。」
「黒蛇様に聞いたのですか!?では…黒蛇様は猛龍様が寧々殿に好意を抱いていることをご存じなのですか?」
「まあ、察しの良い黒蛇なら分かっただろうな」
あまりにもあっけらかんと言うため、いくら王子同士でも兄弟とはそんなものなのか!?と蓮司の方が驚きを隠せなかった。
……待てよ?
蓮司が黒蛇と書庫で会った時。その日は原因が分からないという猛龍のために書庫に行ったのだ。
そして、次の日には猛龍は原因が分かったと言っていた。
ということはちょうどその間に猛龍は黒蛇に聞いたのだろう。
その日は猛龍と朝方会っただけでその後は同行していなかったから、猛龍が誰と会い、何を話したかは分からない。
『少し思い悩むことがありまして。』
もしかしたら黒蛇のあの言葉は、猛龍の寧々への好意のことだったのかもしれないと今更ながらに思った。
でも、弟である黒蛇がなぜ兄の恋心を知って思い悩むのだろうか?確かにあの猛龍が恋をするなんて夢にも思わなかったが、だからといってあのような憂いに満ちたどうにも歯切れの悪い表情になるだろうか?
やっぱり黒蛇のことはよく分らない。
そんなことばかり考えていると、隣で町一つ吹き飛ばせそうなくらい大きなくしゃみが鳴り響いた。
「猛龍様ッ…!やはり外套を持ってきますので、先に講義へお向かいください」
「すまない、よろしく頼む。」
猛龍はすっかり鼻声になっており、筋肉で武装された体も子ウサギのようにプルプルと震えていた。
王宮は広く、今いる場所から猛龍殿まで戻るのはかなりの距離があるため、蓮司は他の者にばれないように王宮内を小走りした。常に優美さ漂う王宮でこのように忙しない姿を見せるのは実にけしからぬことだろう。しかし、猛龍をあのままにしておけば、それこそ講義どころではない。
小走りしたおかげで、思っていたよりも猛龍殿へは早く着いた。
戸に手をかけようとしたその時。
「…………蓮司、蓮司!!」
あまりにもか細いその声は、かろうじて蓮司に届いたが、幻聴にも聞こえ蓮司は耳を抑え訝しげな表情をした。
「蓮司…!蓮司ってば」
やはり聞こえる。でも、辺りを見回しても誰もいない。すると、近くにある茂みが不自然にガサガサと鳴った。
蓮司がその茂みに目をやった途端、中から急に人影が現れ、強い力で蓮司の腕を引っ張り建物と建物の間の非常に狭い隙間に連れ込んだ。
その隙間は人一人入るのが精いっぱいで、余程覗かれなければ人がいることなど誰も分からないぐらいだ。
そんな場所に連れ込まれた蓮司は目の前にいる人物がおおよそ誰か予想はついた。ただ、その人物は頭に布をかぶっており、顔を見せてくれなかった。
「………寧々殿。ですよね?」
疑問形では聞いたが、蓮司はもはや確信していた。
すると、目の前の人物は布を上げてやっと顔を見せてくれた。
少女故の成長だろうか、半年前に見た時よりも幾分か顔つきが大人になっていて、かつての丸くて柔そうな頬はだいぶ痩せてしまっている。
自分でも自らの変化が分かっているのだろうか、顔を見せてくれたはいいものの、なかなか目を合わせてくれない。
「寧々殿。………”あの”時からあなたを全く見かけなくなりましたが、どうかされたのですか?」
そう問うと、なんと寧々はその大きな瞳から大粒の涙を流し始めた。以前だって頻繁に関わっていたわけではなかったが、それでも蓮司は寧々に対してこんな風に取り乱して泣くような子だという認識が無かったから、驚きどうしてよいか分からなくなってしまった。
「ちょ…寧々殿!?どうされたのです?やはり何かあって…」
「な…何にもない…何にもないけど…!!」
とても何にもないようには見えないのだが、蓮司も寧々が言わない以上しつこく聞くこともできず、ただただ涙が止まるのを待つしかなかった。
しばらくして、ようやく涙は止まったが、やはり泣いた理由を話してはくれない。
「寧々殿、どうしてこちらまでおいでになったのです?猛龍様なら今こちらにはいませんが…」
「違う!!!」
さっきまで泣いていたのに、蓮司がそういった途端、寧々はまた涙を流しながら、でも今度は蓮司の胸に飛び込んできた。
胸と言っても、身長の低い寧々の頭は蓮司のみぞおちほどにある。
「違う…違うの………」
「ちょ…寧々殿、本当にどうされてしまったのです?さすがにこの体勢は…」
蓮司はちらりと明るい方に目を向けたが、誰かがいる様子もなく、流石に泣く少女を無理やり引き離すのも胸が痛くなり、そのままやさしく寧々の頭を撫でた。
自らの頭を蓮司の大きな手が撫で始めたことに寧々は最初体をビクッとさせたが、暫く撫で続けられると、頬を淡く染め喉を鳴らす子猫のような表情になっていた。
そして更に蓮司に顏を埋めてきた。
蓮司は猛龍の気持ちを知っているため、どうしようと戸惑ったが、寧々も自分自身もやましい感情なんてないのだから、とまたしばらくそのままにさせていた。
「………蓮司。」
しばらくして自分の胸の中から、寧々がポツリと呟いた。
「どうされました?」
「……お願いがあるの」
「…何でしょう。私にできることならおっしゃってください」
自らの胸の中から寧々がむくりと顔を上げた。
「………私に口づけして」
秋風が強く吹き、隙間にいる二人の髪を揺らした。
吹かれた髪が視界を遮ったが、二人はしばらく互いを見つめたままだ。
「な…寧々殿、何を仰っているのです?……ご自分が何を言ったか分かっておられます?」
「当然よ、分かってるにきまってるじゃない………何?蓮司は自分から口づけをせがむような女は嫌い?私のこと嫌になった?」
「そ、そんなことは言っておりませんが……本当にどうされてしまったのですか?」
そんなことを言っている間にも寧々の可愛らしく、でも幾分か艶めかしくなった顔が近づいてくる。蓮司にやましい感情なんてこれっぽちもなかったのに、寧々は違ったというのか!?
「一度でいいの。一度してくれたら、もう二度と貴方の前には現れないと約束する。……だからお願い。」
半年前まであんなに無邪気な少女がどうしたらこんなことを言えるようになるのだろうか。寧々はどんどん蓮司と体まで密着させてきて、蓮司は引こうとするのだが背中はすぐに壁についてしまった。まだ少女なのに、その体は自分よりも柔くて、温かくて、また何がとは言わないが可愛らしいふくらみも感じる。修行僧のような生活をしてきた蓮司は当然こんな経験などしたことなく、目の前の状況に目も当てられなくなって、ついに目を逸らしてぎゅっと瞳を閉じた。
_______猛龍様、お許しください。私には決して二心などありません!!
「………ぷっ…あははははッ!!」
その笑い声に驚いてきつく閉じた瞳を開けると、目の前にはさっきと打って変わって馬鹿笑いしている寧々がいた。
「………え?寧々殿…?」
「面白いッ!!やっぱり蓮司、あなた最高よ!はははッ…」
「え…?」
さっきまで涙を流してみた瞳は、今度は笑い涙を流している。
「初心なんだろうなぁとは思っていたけれど、まさかここまでとはね。本当に可愛い人ね」
「また私を揶揄ったのですか!?」
「なッ!!揶揄っただなんて人聞き悪いこと言わないで!それじゃ私が悪女みたいじゃない」
十分魔性の女みたいでしたよ、と思ったが、倍返しにあいそうで言うのをやめた。
寧々はコホンと咳払いをした。
「私が半年間何をしていたかですって?お父様からお叱りを受けたのよ。『お前は少し幼稚すぎる、もう少し大人になれ』とね、だから半年間お屋敷に引きこもって色々書物を読んだわ。最初はお父様から与えられた頭が痛くなるような本ばかり読んでいたのだけれど、そんなのばかりじゃつまらないじゃない?」
「つまり、さっきのは……」
「ええ!流石、察しは良いのね!色々と知識が豊富になったからあなたで試してみようかと思ったのよ。どう?あなたにはまだ早かったかしら?」
「…私の方があなたよりだいぶ歳上なのですが?」
歳なんて関係ないわよ、と言ってまた寧々は布を被った。
「……目的が済んだのに、まだそれを被る必要が?」
「分かっていないわね、清純な乙女にはこれが必要なのよ。」
そういうことをつらつらと言っている時点で、寧々はやはりまだ子どもなのだなと思い、蓮司は微笑ましく思った。
「でも、たまには顔を見せに来てください。私も……猛龍様も寧々殿を心配しておりました。」
”猛龍”という名を聞いて、寧々は少し苦笑いした。
「……申し訳ないけれど、それは約束できないわ。あと、今日私がこうしてここに来たこと、絶対に誰にも言わないで。これは揶揄じゃなくて、本気のお願い。……いくら王子様でも、絶対よ?」
どうして?と言いかけて辞めた。そう言う寧々は、今までに見たことないぐらい真剣な眼差しで、それでいてどこか切なそうで、今にもまた泣きだしそうな顔をしていたからだ。
「かしこまりました。」蓮司は絶対にお約束しますという意図を含め、深くお辞儀をした。
「………じゃあね」
___そう言って、寧々はまるで一匹の蝶のようにひらりひらりと衣の裾を翻しながら去っていった。蓮司はその後ろ姿を見て、何となくだが、もう寧々には会えないような気がした。
当然だけど、被っている衣のせいで上手く走れない。
こんな幽霊のような身なりをしてまで、いったい自分は何をしているのだろう。自分で自分に思わず笑ってしまった。
揶揄っただなんて嘘。今日したことは全て私の本心で、こんな危険なことをしてでもあなたにどうしても会いたかった。今日はお父様が早朝から夜中まで不在だと聞きつけて、最後の機会だと思って来たの。
あなたがここに一人で現れる保証なんて、考えてみれば全くなかったのだけれど。
_____でもあなたに会えたから、怖かったけど頑張って来て良かった。
書物で読んだ男女のあれやこれ、それを読めば読むほどあなたの顔が浮かんだ。あなたは私に対してそんな気全くなかったのに、自分勝手な子どもでごめんなさい。
自分で自分の頭にポンと手を置いてみた。
「……意外と、大きな手だったな。それに体も…」
自分の頬が急に赤くなるのを感じ、それ以上考えるのを辞めた。
本当は、どんな女の子が好きなのか、何をして遊ぶのが好きなのか、これから色々知っていきたかったけど。
「いい、大丈夫。」
今日、触れてくれたことだけで幸せ。多くは望まない。
私はこれから今日のことだけを淡い恋の記憶にして、ちゃんと大人になるからね。
「ありがとう………さよなら、蓮司」
夜更けの猛龍殿。
あれから蓮司が外套を持ってきてくれたは良いものの、思っていたより時間がかかったせいか、身体が冷えてしまったようだ。
湯浴みをしても猛龍はくしゃみが止まらなかった。
「風邪でも引いたのだろうか。今すぐにでも蓮司を呼んで風邪薬を煎じさせようか?………いや、それはさすがに可哀想だな。明日でいい。」
それにしても寒いと思っていたころに、自室の正面の障子に人影が映った。
「………蓮司ッ!?蓮司なのか?」
言わなくても分かってくれたのかと犬のように喜んだが、どうやら違ったみたいだ。
部屋番の役人が「猛龍様、黒蛇様がいらっしゃいました、如何いたしましょう。」と言いづらそうに伝えてきた。
「また黒蛇か…。いつから奴は時間の分別がつかなくなったのか?よい、通せ」
そう告げると、黒蛇は恭しく入ってきた。相変わらずの黒い衣に、なぜだか猛龍の気分まで下がってしまう。
「兄上、夜分に大変申し訳ございません。」
「ああ、まあ兄である私だからよいものの、決して他の者に対してこのような振る舞いをするでないぞ」
はい、と礼儀正しく返事をした黒蛇はすすっと猛龍の前まで進み、置いてある座布団に美しい動作で座った。
「それで?何の用だ」
「……実は、今日とんでもない場面を見てしまいまして。兄上は、清氏当主の娘である寧々殿に好意を抱いておられますよね?」
「…やはり気付いておったか。ああそうだ。それがどうした?あの娘ならあの騒動以来一度も見ていないが」
「やはりそうですよね。私もあの者をあれ以来見てはおりません。しかしながら………兄上にお届けしたい文書がありまして、日中に私自らこちらに参ったのです。…そうしたら」
「あぁ!!何だ!!言いたいことがあるなら早く言ってくれ」
「あの娘と………医官の蓮司殿が建物の隙間で熱い抱擁を交わしていたのです。あと………非常に申し上げにくいのですが、その…あの娘が蓮司殿にく、口づけまで求めておりまして、二人の姿はまるで…」
「_____黒蛇」
一瞬でその場が凍り付いた。
弟である黒蛇は猛龍のことを誰よりも理解している。理解しているがゆえに、今この瞬間が何よりもまずいことは一瞬で分かった。
「………こんな夜更けにわざわざ訪ねてきて、言いたいことはそれか?」
「あ…兄上。私は決して戯言など申しておりません。全て…私がこの目で見たことでございます。」
「いい加減にしろッ!!!!」
猛龍は文机をその拳で勢いよく叩いた。夕立の雷のような声と腕力で、頑丈に作られているはずの文机がミシミシ…と悲痛な音を立てた。
「どうも最近のお前の行動は目に余るッ!!!こう頻繁に私の元を訪れることもそうだ!!!あの時の騒動だって、そんなに怒るようなことだったか!?あんな大勢の前で清氏の娘と私の医官に土下座させるなど、向こう見ずにも程があるだろう!?」
「兄上ッ!!兄上こそどうしてしまわれたのです!?あのような下賤の者を専属にして、且つ御父上の座を狙っているような重鎮の娘に恋をするなど、私の知っている兄上ではない!!!」
「帰れッ!!!!!」
猛龍はもう一度文机を殴った。今度はもうそれは綺麗にぱっくりと割れてしまった。
「…………帰れ」
もう一度、今度は地を這うような声で告げた。
黒蛇は背筋が凍るのを感じた、震えながら立ち上がり、ふらふらしながら戸まで進んだ。
震える手をもう片方の手で支えながら戸に手をかけた。
「黒蛇」
意識がもはや朦朧としていたが、兄がもう一度自分の名を呼ぶのを聞いて、ぱっと振り返った。
「お前が何をしたいのか私にはさっぱり分らんが、これだけははっきりさせておこう。私は蓮司のことを心の底から信頼している。お前が見たことが例え本当だったとしても、きっとそれは蓮司の本意ではない。だから私はそのことについて、蓮司を問い詰めるつもりは毛頭ない」




