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紫苑に露  作者: 花信風描
第四章 追憶
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第三十一話

あれからどうも猛龍の様子がおかしい。

相変わらず座学を上手く避けて武術に励んで入るものの、矢は反対に持つわ、剣ではバランスを崩し倒れ込むわで全く集中できていないようだった。

「猛龍様、どこか具合が悪いのでは?今日はもうやめにしましょう。」

そう言っても猛龍は首を縦には振らなかった。

「………問題ない、こう動いていないとどうにも落ち着かないのだ。放っておいてくれ。」

「…そうですか。」

こう言われてしまえば蓮司も干渉するわけにはいかず、ただ黙って主を見ていた。


しかし、いつまで経っても猛龍の表情は曇りがかったままで、遂には食事もあまり手をつけなくなってしまった。

「もしや、食欲がないのですか?」

「いや、空腹ではあるが……どうも食べる気になれん。」

やっぱりおかしい。猛龍はいつもよく動く分よく食べるのに、食べる気になれないなど、まさか物怪にでも憑かれてしまったのだろうか。

「おかしなことに武術にも気が入らない。こんなことは二十年生きてきて初めてだ。……だが、私自身もなぜ急にこんな風になってしまったのか分からないのだ。」

「私が覚えている限り、この症状が出始めたのは先日私と寧々殿が猛龍様方に無礼を働いて以降ですが…お間違いありませんか?」

「あぁ、あれからだ。」


____もしや。

"寧々"という名前を出した時、猛龍は俯いていたのにすっと顔を上げた。

もしかしたら、そういうことなのかもしれないと蓮司は思った。

しかし、いくら猛龍が自分を大事にしてくれているとはいえ、この国の王子に対して一介の医官がこのような無神経なことを申し上げて良いのか少し躊躇いが残る。

何とか上手く伝える方法がないかと頭を巡らした挙句、蓮司は書庫で書物を探すことにした。


もう夜もかなり更けたため、蓮司は片手に提灯を持って王宮で一番広い書庫をグルグルと回っていた。

書庫にある蝋に火をつければ良いのだろうが、自分一人のために使うのはもったいなかった。

「思いついたのはいいが、そんな都合の良い本があるものだろうか…。」

書棚を提灯で照らしながら、蓮司はああでもないこうでもないとブツブツと呟いていた。


「………ッ!?」

奥でガタンッと音がしたように思えて、蓮司は思わず振り向いた。

ここは鍵がきちんとかかっていたから、蓮司以外の人間がいるはずはないのに。

___カタン


次は最初より軽い音が聞こえてきた。まるで、書を棚に戻すような音だ。

「…………」

人はいざ恐怖に直面すると、このように何も言葉が出てこなくなるものなのだろうか。

すぐ立ち去れば良いものを、蓮司は声だけでなく足も動かなくなってしまった。

勿体がらずに、蝋に火をつければよかったと心底後悔した。真っ暗が故に恐怖心が倍増されてしまう。


___カタン、トントントン

音がどんどんこちらに近づいてくる。

蓮司はいっそのこと鼠であることを願ったが、どう考えてもこれは"人間"の足音だ。

昔秀と読んだ怪談に出てくるような妖怪の類だろうか?あの怪談の様に自分は呪われてしまうのだろうか?

今すぐに逃げたいのに震えるばかりの足は使い物にならない。

もう音がすぐ近くにきている。

もう3つ数える間に自分の目の前に現れるだろう。


………三………二……一


「成仏してくださいッ!!!!」



その場でまるで弱った猫の様に丸まりながら蓮司は力一杯叫んだ。今までで、果たしてこんな叫んだことがあるだろうか。

しかし、聞こえてきたのは聞き覚えのある声だった。

「あぁ、あなたでしたか。」

目の前にいたのは黒蛇だった。

今日もまた暗い色の衣のため、色白の肌だけが浮いて見えてそれはそれで怖かった。

「こ、黒蛇様ッ!?……こんな時間にどうして、」

「少し思い悩むことがありまして。気晴らしにここで書物を読んでいたらいつのまにか日が暮れて鍵をかけられてしまったのですよ。……あなたこそ、なぜここに?」

「わ……私は医学書を探しに……」

勿論大嘘だ。王子に対して嘘をつくなど不敬だが、猛龍の恋煩いを赤裸々に話すことと天秤にかけたら、こんな嘘ぐらい余裕でつけてしまう。

「勉強熱心なのですね。……さすが兄上が認めた方だ。」

相手を誉めている言葉なのに、そう言う黒蛇の表情はこの暗闇の中に吸い込まれてしまいそうなぐらい憂いに満ちたもので、そしてその声色はどこか皮肉を感じるものだった。先日のあの一件の時も感じたが、黒蛇にとって猛龍は兄という以外に何か特別な存在なのだろうか?普段は独特の余裕や気品があり、猛龍や自分にはない色気さえ感じられる人なのに、一度猛龍のことになると、まるで人が変わってしまったかのように話し方や人を見る目前までも粘着質になり、嫌みたらしい人物に急変してしまうのだ。

蓮司はその変わりぶりに上手く順応できず、また彼にとってなにが引き金になるか分からないため、あれ以降黒蛇とは非常に注意深く接するようになった。

しかし、結局またその引き金を引いてしまったみたいで、蓮司の頭の中はどうしようとグルグル考えを巡らしていた。

「そういえばあなたは三年前に突如王宮にやってきたとか。ここへ来る前は何をしていたのです?」

意外にも黒蛇が沈黙を破ってくれたため、蓮司は内心ホッとした。しかし、自分の出自など、寧々でも知っているぐらいなのに、なぜ今更そんなことを聞くのか疑問に思ったが、このまま黒蛇と無音を過ごすよりよほどマシだった。

「ここへ来る前は六年間医学を勉強していました。……まさか本当に医官になれるとは思っていませんでしたが、鳳雅さんに憧れたんです。」

「……へえ、そんなにも勉学に専念できるなど、やはりあなたは凄い人だ。医学は独学で?まさか忙しい鳳雅殿に教わる時間はないでしょう?」

「まさか…独学ではありません。ちょうど鳳雅さんの知り合いに医学塾を開いている者がおりまして、そこでずっとお世話になっていました。」

心のこもっていない黒蛇の褒め言葉でやはり居心地が悪かったが、久しぶりに昔のことを思い出し、黒蛇はこんな話興味がないだろうと分かりながらも蓮司は嬉しそうに話した。

しかし、黒蛇は意外にも良い反応を示した。

「へえ…外の世にはそんな場所があるのですね。あなたにはそこで親しい友人などいたのですか?」


そう問われ、蓮司は自分を受け入れてくれる優しい瞳を思い出した。彼を思い出すだけで今でも温もりを感じ、こんな暗い夜でも自然と幸せな気持ちになれた。

「………います。離れていても、いつも私の味方でいてくれる、大切な親友です。」

非常に暗いから、黒蛇から蓮司の表情までは到底見えないだろうが、おそらく自分は今とても満たされた顔をしているだろう。

「………あなたにとって、その方はとても大切な、失いたくない存在なのですね。それに……あなたが想っているのと同じくらい、その方もあなたを大切に想っているのでしょうね。」

小窓から溢れる月明かりに照らされた黒蛇の顔はどこか嬉しそうだった。でも、またどこか淋しそうに見えた。黒蛇は今誰を想ってそんな表情をしているのだろう?

「あの………黒蛇様?どうかされました?」


蓮司が自分の顔を見ていたことに気づき、黒蛇はふいっと後ろを向いた。


「___いいえ、何にもありませんよ。」



翌朝、蓮司は猛龍の文机の前で一つの書を手に持って立ち尽くしていた。

あれから黒蛇は蓮司のおかげで無事書庫から出ることができ、書庫を出てからは一言挨拶を交わしすぐに別れた。そもそも王子様だし、おそらくだが自分は黒蛇にあまり好意的に思われてはいないだろうから、特に何とも思わなかった。

最大の目的である書物については無事に見つかったが、こんなもので伝わるのだろうか、蓮司は心底不思議に思った。

『何か伝えづらいことを伝えるには、物語が良いのでは?意外でしょうが、ここにはそのような物語本もあるのですよ』

黒蛇にはそう言われたが、相手はあの猛龍だ。登場人物の心情の流れで、果たして自分の気持ちに気づくだろうか?

「………まあ、モノは試しだな。」

そっと書を机に置いた。


「どうしたんだ蓮司、いつもより早いな。」

この殿の主がやってきて蓮司はビクリとした。別にやましいことなど何もしていないが。いや、少しやましい気持ちがあることは確かだ。

振り返るついでに咄嗟に書を手に取った。やはりこれを読んでもらうには勇気がいる。


「いいえ、何もしておりませんッ!」

「別に私は疑ってないが?」

自分で墓穴を掘ったようで、蓮司の笑顔は固まり、すみません、と静かに謝った。

「蓮司、今日は剣の修行をする。付いてこい。」

「……剣ですか?体調の方は治られたのですか?朝食はきちんと摂られました?」

猛龍はまるで母親のような蓮司の小言にあぁうるさい、といった表情を見せた。

「それについては………もう大丈夫だ、原因が分かったからな。武術に影響のあるようなものではなかった。」

恋煩いでしたか?と申し上げてよいものか迷った。もし蓮司の予想と違えば謝るでは済まされない。

「……医官の私がお力になれず申し訳ありませんでした。……もし差し支えなければ、原因を教えていただけませんか?」

___きっとこれ以上の問い方などないだろう。


猛龍はひとつ溜息をつき、蓮司ならば良いかと小さく呟いた。

「どうやら私のこれは"恋煩い"?などというものらしい。初めて聞いた言葉だが蓮司、其方は聞いたことがあるか?」

「え、ええ…何回かは。」

「まあ、その…誰に対してか、は…。分かっておるだろう。」

「……はい。」

蓮司は努めて当たり障りのない回答をしているが、内心はあの武術にしか興味がなかった猛龍が本当に恋をしたのだと分かって、嬉しくてしょうがなかった。

猛龍の顔を見ると耳までまるで蒸し蛸のように真っ赤にしていて、不敬ではあるが主人に対して可愛いと思ってしまった。

「王子である私がこんなふしだらな感情を持つなど恥ずべきことだ。蓮司、決して口外しないでくれ。」

「かしこまりました。」

王子だって恋情くらい抱くだろうと思ったが、この言葉は心の中に留めておくことにした。




「寧々、猛龍様には無事お会いできたのか?」

___清氏邸。


この美仙国随一の貴族である清氏の邸は他の者とは明らかに一線を画した広大なものだ。王族以外で、清氏より富めるものなど誰もおらず、とりわけ現当主は非常に頭が切れ、その聡明さにおいて右に出るものなどについても誰もいない。

「えぇ、お父様。猛龍様は非常に威厳のあられるお方でございますね。」


寧々は父に茶を淹れながら静かに答えた。

しかし、当主はじっと寧々を鋭い目つきで見続けている。

「……お父様、何か…」

「王子の側近からお前と、あの蓮司とかいう医官が無礼を働いたと聞いたがそれは誠か?」

寧々はその薄い唇を噛んで目線を父から移し俯いた。

隠し通せるとは思ってはいなかったが、まさかこんなにもすぐ話が広まるとは思っていなかったのだ。

「聞いた話によると、お前ははしたなくも御前の前で医官に駆け寄り菓子を渡したとか。」

「お父様ッ……申し訳ございません。これは私一人が招いたことで……!」

「あの医官とはどういう関係なのだ?なぜお前が関わるはずもないあの医官と面識があるのだ」

「そんな…あの者とは最近知り合ったばかりです。猛龍様に菓子を届けるようにとお父様に言われた日、殿に猛龍様がいらっしゃらなかったので、代わりにあの者に預けただけです。」

「………では聞くが、ただ贈り物を預けただけの関係で、なぜ御前でそのような真似をしたのだ?」

「……それは」

「寧々。」

当主は改まって娘の名を呼んだ。

明らかに声色が変わったため、寧々も再び父親に視線を移した。


「私はお前を猛龍様の妃にするつもりだ。」


その瞬間、寧々の頭の中に誰が浮かんだかは彼女にしか分からないが、父親にそう告げられた彼女の表情は、何を言われたのか理解できておらず、ただただ固まったままだ。

「………お父様、今何と…?」

「今のままではいくら権力を持とうともただの重鎮でしかない。残る最後の一手は王家と親族関係になること。決して他言したことはないがこれは我が一族先祖代々からの悲願だ。」

そう言われてもなお、寧々の頭の中は父親の言葉を消化できないでいた。

それなのに、目の前の父親は淡々としている。

「だが、いくら私が所望したところで、できることはお前を妃候補にすることまでだ。そこから先はお前の資質にかかっている。………つまり、言いたいことは分かるな?」


「………つまり、妃としての資質を問われるようなことはするな…と。そういうことでしょうか。」

「そうだ。御前で無礼を働いたことに加え、王子直属の医官と仲睦まじいと噂になるなどとんでもないことだ。しかも、あの者はもともと下賤の者だ。王子が手放さないだけで、本来王宮にいてよい存在ではない。……私が今回お前の尻拭いをするのにどれほど苦労したか分かるか?お前は少しの好奇心で先祖代々の悲願を台無しにする気なのか?」

やっと理解が追い付いてきた。追い付いてきたが、どうしても納得はできない。

どうして?父親だからってなぜそんなことまで言われないといけないのか。明日も明後日も会いたいと思う人に初めて巡り合えたのに、その人に会うなという権利が誰にあるというのだ。なぜ女の自分には今まで国政や権力に何も関わらせなかったのに、急に家のために身を捧げろというのか。自分は父親にとって権力闘争のための駒でしかないというのか?


「………父上、一つ申し上げてもよろしいでしょうか。」

当主は大方予想がついていたのだろうか。落ち着いた様子で「申してみよ」と答えた。

「……確かにあの者の出自については私も理解しておりますし、第一、知り合ってまだ数日しか経っておりません。」

「それで?」

「……彼のことは知らないことの方が多いですが、それでも会いたいと思うのです。これからいろいろなことを知りたいと思っていたのです。」

「………。」

「……今の言葉を聞いてもなお、一族の悲願の達成のためならば、娘である私の意志は関係ありませんか?」

当主は寧々にもはっきり聞こえるぐらいの大きなため息をついた。

寧々は衣をぎゅっと握り、目を強く瞑った。


「この際はっきり申しておこう。この家に生まれた以上、お前の意志など存在しない。」

その言葉を突き付けられた途端、寧々は自分の心臓に鋭い刃物が突き刺さるような感覚がした。きつく閉じていた目は瞳孔まで開いた。

「この家に生まれ物心ついた時から、私自身も自らの意志など顧みずただただ我が一族の繁栄のために尽力してきた。情など捨て、有益な者は取り込み、無益な者は手段を選ばず排除してきた。………本来慈しむべき妻や娘に対してもそれは同じだ。命ですら顧みない私が、たった数日前に芽生えたちっぽけなお前の意志を排除することぐらい、容易いことだとは考えなかったか?」

開いた瞳から自然と涙が零れてきた。でも、これが果たしてどんな涙なのか、寧々自身分からなかった。父が自分を受け入れてくれるなんて期待していたわけではなかったが、でも突き刺さった言葉の数々は寧々の精神を崩壊させるには十分すぎた。


「……お前はもう少し理解していると思っていたが、とんだ期待外れだったようだ。これでは先が思いやられる。よってしばらくお前を謹慎させることにする。」

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