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紫苑に露  作者: 花信風描
第四章 追憶
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第三十話

いつの間にか夏が終わり、紅の秋が来た。雪が解けたら鮮やか花々が咲き誇った。

そうして、あっという間に三年が経った。

王宮の四季は感嘆の息が漏れるほど美しいが、中で生きる人間にそんな風情を味わう時間などない。


「蓮司ッーー!蓮司殿!王子様の腕から血がッ!!」

「はいッ!少々お待ちを……!」

猛龍は一日の大半を武術にあて、加えてその姿勢は猪のように怖いもの知らずのため相変わらず小さな怪我が多い。

小さな怪我で終わる内は良いが……と側近達はいつも肝を冷やしていた。

「猛龍様…もう休んではいかがですか?これ以上はお体に障ります。」

出会った時よりも筋肉で二回りほど逞しくなった腕の治療をしながら蓮司は溜息混じりでそう伝えたが、頑固な猛龍は当然聞こうとはしない。

「なぜだ?何かあったら蓮司がいるじゃないか。嫌だ嫌だ、武術をしないということは座学になるじゃないか。知っているだろう?私は座学が何よりも嫌いなんだ」

「私だって万能ではありませんよ?」


実は蓮司は鳳雅づてに王様から猛龍の座学の時間を増やすように言われているのだ。

そんなの無理だ、と蓮司はすぐに思ったが、王命は絶対だ。最近はなんとか猛龍を机に向かわせることに精を注いでいた。

蓮司は猛龍の手当てを終え、薬箱一式を持って猛龍の殿に戻った。

何とか察してくれないだろうかと机の上に学問書をこれでもかと置いておいたのだが、やはり効果は無かった。

「兵学ならば多少興味を持ってくれるんじゃないか?」

そうブツブツ言いながら殿から出ると、春の暖かい気持ち良い風が肌をかすめた。

桜の木は優雅に揺れ、その可愛らしい花びらを春風に乗せていた。

「………綺麗だ」

そんな桜に目を映すと、その下で花びらと同じ淡い色の衣を着た少女が目に入った。

少女は木々を見上げ、舞い落ちる花びらとまるで幼子のように楽しそうに戯れている。


「どうかされましたか?」

蓮司は一瞬躊躇ったが、彼女に声をかけた。見かけたことはないが、ここに来ているということは猛龍に用があるのだろう。

声をかけると、少女は後ろに人がいたことに驚き、身体をビクッとさせ、おそるおそるこちらを振り返った。

振り返った少女の顔を見て、蓮司は思わずおお、と一歩後ろへ引いてしまった。

少女はおそらく14,5歳ぐらいだろうか、吸い込まれそうなほど大きく、まるで穢れたものを何も映してこなかったと言っても過言ではないぐらい淀み無い瞳を蓮司に向けている。その瞳や顔立ちは非常に年相応で可愛らしいのだが、目力というものだろうか、その瞳に見つめられると思わず目を背けてしまう。

「貴方、見たことないけどどちら様?」

「あ、え…と急に話しかけて申し訳なかったです。私は猛龍様にお仕えしております医官の蓮司と申します」

「……蓮司。蓮司…あぁッ!」

少女はまるで何かを閃いたかのように両の手を叩いた。

「庶民なのに王宮入りしたっていう"あの"蓮司ね!」

そのまま少女はへぇ〜と言いながら蓮司の周りをまるで猫のようにくるくると周り出して、上から下までじろじろ見てきた。

自分よりもはるかに幼い子どもにジロジロと好奇心で見られるのは、なんだか擽ったく感じてオドオドしてしまう。

「あなた、名を言われなければまるで良家の人間のような容姿ね。凄く綺麗。」

「そ…それはどうも……」

どう反応して良いか分からないが、やはり自分の出自はもう周知の事実なのだなと小さく溜息をついた。

「私は清家の娘で、名は寧々よ。猛龍様に仕えているなら清家のことは知っているかしら?」

「もちろん……存じ上げております。」

ここに来てまだ三年の蓮司でも清家一族の勢力の強さはよく分かっている。とりわけ当主は非常に頭が切れ、猛龍はおろか、王様からも厚い信頼を得ている人物とのことだ。そうは言っても蓮司はまだ会ったことはないのだが。

「今日はね、お父様から王子様にこれをお渡ししてきなさいと言われて来たのよ。」

そう言われ、包みを受け取るとまだ開けてもいないのに甘い香りが漂ってきた。蓮司は20歳にもなる男だが、甘い物には目がなく中身を開けて更に良い香りを嗅ぎたい衝動を抑えるのに必死だった。

「……これは菓子ですか?」

「さあ?中身なんて知らない。お父様ったらお渡しするなら自分ですれば良いのに!わざわざ娘を使うだなんて人遣いが荒すぎる。」

「お父上は王様の重鎮でしょう?きっとお忙しいのですよ。」

どうかね、と呟いた彼女はまた桜に目を向けた。桜たちは相変わらず忙しない王宮の中で優美にその体を揺らしている。

「まあ、でもこの美しい桜を見ることができたのだし、今日のところは大目に見てあげようかしら。それと……」

彼女は蓮司の顎を掴み自らの方にグイっと寄せた。

「私、アナタの顔気に入ったわ。凄く私の好み」



「……じ、蓮司!!」

「は、はいっ!!」

正気を取り戻し見上げると、どうしたんだ?と心底心配そうな猛龍の顔があった。

「先程から何ぼうっとしているのだ?珍しい、何だか顔も熱っているし……何か変な物でも食べたのか?」

「いえ、そういうわけでは…」

いや、様子がおかしいのは事実だから真っ向否定はできず蓮司は笑ってごまかした。

「其方が持ってきたこの菓子だが、どこの誰からだ?」

猛龍は目の前の綺麗に盛り付けられた菓子を手で乱暴に掴み、訝しげに見ながら言った。

目の前で菓子がユラユラ揺れており、そのまま見続けては我慢ができなくなると思って蓮司は再び俯くことにした。

「清氏当主から王子様への贈り物だそうで、娘の寧々様がここまで持ってきてくださいました。」

「……寧々?聞いたことがないが当主の娘か。今度その娘を見かけたら教えてくれ、礼を言おう。」

「かしこまりました。」

猛龍はあまり甘い物が好きではないのか、口に運んではいるものの、眉間に僅かな皺が寄っていた。




「兄上、ご無沙汰しております。お目にかかれて本当に嬉しい限りです。」

「そうか。しかしそんなに空いたか?つい最近会った気がしているが。」

「もう一週経ちましたが…」

「充分であろう。」

今日は朝早くから猛龍の弟である黒蛇が訪ねてきた。

猛龍は今日は弓の日だと嬉しそうに準備をしていたが、来訪者があっては流石に席を外すことはできず、少々膨れっ面で弟を迎えた。ましてや外を少し散歩しようというものだから、余計に不満を隠し切れない顔になっていた。

黒蛇は猛龍と同じ直系の王族であるが、その見た目は猛龍とは似ても似つかず涼しげな顔立ちをしている。不健康に見えるぐらいの色白で、切れ長の目は彼独特の雰囲気を醸し出している。また彼は風流人で、詩歌だけでなく絵画の才能も抜きん出ている。王宮内には彼が描いた作品がいくつか飾られており、史官たちの心の癒しとなっているらしい。

そんな彼だが衣はいつも黒や灰などを身につけることが多く、深紅の衣の猛龍と並んでいると、どうしても王子とお付きのものに見えてしまう。

そんなところで蓮司は今日も猛龍に座学を受けさせるのを失敗し、猛龍と黒蛇から二間ほど離れた場所をトボトボと歩いていた。


黒蛇はそんな蓮司をチラリを見遣り、また前に向き直った。

「兄上、あの者は医官ですよね?こんな絶対に怪我などしないような散歩にまで連れて行く必要が?」

「ああ必要ある。もはや蓮司は私にとって医官ではなく内官のような存在だ、一瞬たりとも離す気はない。………いや、内官でもない。私にとって初めてできた友だからな。」

「………左様ですか」

黒蛇は少しくぐもった声で返事をした。あまりの声の小ささにおそらく猛龍は聞き取っていないだろう。

「それに弟よ、散歩だからといって怪我をしないなど絶対ではないだろう。王族として常に危機感を持っていなくてはならん。」

「確かにそうですね、私も兄上のように威厳を持たねばなりませんね。」

そう黒蛇は素直に返しているが、後ろで聞いていた蓮司は『上手い言い訳を考えたな。』と内心笑っていた。持病持ちではあるまいし、ただの散歩に医官がついて行くなど聞いたことがない。

そう密かに思っていると、黒蛇が蓮司の方を再び振り返りじっと見つめてきた。

その目線にどういう感情が含まれているのか蓮司には到底分かりっこないが、あまり居心地の良いものではなく、一礼した後目線を斜め下にずらした。

「……桜の季節か」

猛龍がそう呟いたのを聞いて蓮司も俯いていた顔をあげ天を見上げた。

ちょうど風が吹き、花びらがひらりひらりと舞い降りてきた。

「日々の忙しなさに忘れてしまいがちですが、王宮は四季折々美しいですね。」

「私にはお前のような美しい自然を慈しむ心がないからか、ただの桃色の花にしか見えん。」

「まあまあ、そうおっしゃらずに……」


蓮司はそんな二人をよそに、桜を見て寧々のことを思い出していた。

あんな大それた言葉を放った割にはあれから全く姿を見ない。自分は女性にあんな言葉を言われたことがなく、いくら寧々のような少女相手だったとしても動揺したのに、やはり悪戯だったみたいだ。こんな青二才にあのようなことはしないで欲しいと心底思っていた。

そんなことを思っている矢先、背後から騒がしい足音が聞こえてきた。

「やっと見つけたッ!!!!蓮司ーーッ!!」

その人物を見て蓮司はギョッとした。

その人は紛れもなく寧々で、両手に包みを抱え、年頃の少女とは思えないぐらい腕白に走ってくる。その姿はまるで獲物を見つけた子犬みたいだ。

寧々はすぐに蓮司に追いつき、ドンッと蓮司の胸に抱えていた包みを投げた。

包みの中は思っていたより固く、危うくみぞおちに入るところだった。

「ねぇ、私に会えて嬉しい?その中身はね、前王子様にお渡ししたものに似た菓子よ。流石に王子様と同じものはアナタには不相応だからね。ねぇ、嬉しい?」

寧々は蓮司より背が小さいながらも頑張って背伸びをし、どんどん蓮司に顔を近づけてくる。迫力のあるその瞳に見つめられて、やはり後ろに引いてしまう。

菓子は非常に嬉しいが、本当に嬉しいが、いくら何でも場が悪すぎる。寧々のあまりにも大きな声のせいで他の付きの者はおろか、王子たちまで二人を見ている。

「なぜあの者が清氏の娘と知り合いなのだ?」

「しかも、やけに親密じゃないか?」

「何か渡したぞ……」

このままでは自分に対しても、また寧々に対しても厄介な噂が広まるに違いない。

蓮司は寧々が顔を近づけているのを利用して、他の誰にも聞こえないぐらい小声で話した。

「寧々さん、失礼しますよ…」

寧々は声を抑えることなく「へ?」と呟いた。

蓮司は彼女がなにも理解しないうちにその手を握り、

前に聳え立つ深紅と漆黒の衣の前に平伏した。

寧々は急になにをするのかと言いかけたが目の前を見た途端、顔の血の気が引き可愛らしい額からは冷や汗がたらりと垂れた。

「猛龍様、黒蛇様、私らのような立場の者が御二人のお時間を乱してしまい、大変申し訳ございませんでした。」

「わ……私は清氏当主の娘の寧々と申します。……右の蓮司とは先日猛龍様の殿にて偶々出会い、仲良くなったのです。そのため……つい御前でこのような端ない行動に出てしまいました。」

寧々も震えながら蓮司の後に続いた。

先程までのどかだった春の一時は一瞬にして緊張感漂うものとなった。

「………よくも…」

地を這うような声の後、意外にも黒蛇が猛龍よりも前に進み出た。その足取りだけで、非常に激しい怒りを感じる。

「よくもッ………兄上と私の貴重な…大切な時間を其方たちのような者が邪魔するなど言語道断だッ!!」


先程まで黒蛇は優雅で風流人らしい立ち居振る舞いをしていたのに、今は額に青筋を浮き立たせ、その目をまるで刀のように更に尖らせ、腕はわなわかと震わせている。

「申し訳ございませんッ!!!!」

蓮司と寧々の二人はひたすら謝罪の言葉を述べ続けた。蓮司はなぜ黒蛇がここまで怒っているのか疑問を抱いたが、寧々はもはや半泣き状態だった。

そんな少女の泣き声に耐えられなくなったのか、しばらく様子を見ていた猛龍は黒蛇を制止した。

「やめんか、これではどちらに非があるのか分からなくなる。」

「兄上……なぜ!?なぜそう簡単に許すのですか…!兄上は腹立たしくないのですか!?」

いや、逆に何をそんな怒っているんだ?と投げ捨てるように言った猛龍は蓮司と寧々の前に腰を落とした。

「蓮司、もうよせ。これはただの弟との散歩だ。ここまで大事にしなくてもいい。」

そう言って、蓮司の額を軽く弾いた。

そして、ちらりと寧々の方を見た。

「其方、寧々と言ったか?」

寧々はあまりの恐怖心に震えており、問いかけられても俯いたままひたすら首を振り続けている。

「大丈夫だ、顔を上げよ。」

そう言って、猛龍は寧々の肩に手を置いた。触れられてビクリと体を震わせたが、その手が優しいものだと分かったのか、恐る恐る顔を上げた。

「其方、以前私宛に菓子を届けてくれたそうだな。礼を言おう。」

寧々はあまりにも感情の落差が激しかったからか、何を言われたのか分からずポカンと間抜けヅラをしていた。

「ほら、あの時の……」

蓮司は隣から最大限のひそひそ声で寧々に耳打ちをした。それでもすぐには理解できず15秒くらい経った後だろうか。ハッとした顔をした。

「お……恐れ入ります…」


そんなこんなで、急に吹き荒れた春の嵐は一応何事もなく過ぎ去っていった。




___その夜。

「蓮司」

「はい、猛龍様。」

珍しく蓮司が用意した書物をパラパラとめくりながら少し物思いに耽るような声色で蓮司を呼んだ。

「………あの者とは親しいのか?」

「あの者とは……もしや、寧々殿のことですか?私も、彼女が菓子を届けにきてくれた時に初めて会ったのです。……彼女は人懐っこい性分のようで、一度会っただけの私にもあの様なのです。」

「…そうか。」

猛龍はそれだけ言って、また書物をめくり出した。蓮司の予想でしかないが、おそらく書物を開いているだけで、頭の中は別のことを考えているだろう。

そういえば、と蓮司はふと黒蛇のことを思い出した。

「……あれから、黒蛇様は。」

猛龍は黒蛇の名前を聞いた途端、大きなため息を吐いて書物を閉じた。やはり読んではいなかったみたいだ。

「彼奴が何をあんなに怒ったのかよう分からぬ。あんな国事でも何でもない散歩に、他の者が何をしてようとどうでも良いではないか。………どうも最近彼奴はやけにしつこい。毎週訪ねられては私も気が滅入る。」

「……左様ですか。」

王子同士のことにこれ以上口を挟まないでおこうと蓮司は口を慎んだ。

「そうだ蓮司、あの少女から何か受け取っていただろう。中身は何だったのだ?」

あぁ…と言って蓮司ははにかんだ。

「中身は菓子です。……おそらく、以前猛龍様への贈り物の菓子を見て、私が羨ましそうにしていたのが分かったのでしょうね。大人が子どもに気を遣わせるなど恥ずかしい限りです。」

「……気を遣っただけなのだろうか。」

「……はい?」

「いや、何でもない。もう休む。」

何だか猛龍の様子がおかしいとは思ったが、蓮司はそのまま殿を後にした。

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