第三話
琥珀は一瞬固まった。何が起きたか把握しきれなかったためである。
実はこの男、ナンパに失敗したことが一度も無いのだ。失敗どころか、誘ってもいない女性から付き纏われたことや、時には同性から絡まれることだってあった。
それなのに、珍しく琥珀が息を呑むほどの美少女に断られてしまった。しかも、"勉強"に負けてしまった。
色男と遊ぶ以上に楽しい勉強とは何だ?自分はそんなものと天秤にかけられてしまったのか?
たいへん傲慢な話だが、これは琥珀にとって青天の霹靂以外の何モノでもない。
あまりの衝撃に頭が回らず、琥珀は魂が抜けような間抜けな顔で彼女を見つめ続けていた。その目は虚だ。
琥珀が何も言わないため、彼女は琥珀を怒らせてしまったのかと不安そうな表情になったが、だからといって遊んでくれる様子は全くない。
警戒心がよほど強いのか、琥珀に怒られるのではないかと怯えた彼女は「本当にごめんなさいっ…!」と勢いよく頭を下げ走って行ってしまった。見た目に合わず逃げ足がとても早い。
そこから暫くしても琥珀は動くことができなかった。
秋風に吹かれて、酔いも呆気なく覚めてしまい虚しさだけが残った。
毎日飽きもせずに女の子に声をかけている琥珀だが、それは本当にその子と関係を持ちたくてしていることではない。自分のことを熱を帯びた目で見つめてくる子に対して、自分から声をかける。その時の女の子の、何とも言い表せない恍惚とした表情がやみつきなのだ。王宮では満たせない自尊心を満たしたいだけだと言われれば否定はできない。
だが、今日は本当に珍しく自分から手に入れたいと思ったのだ。それなのに喜ばれるどころか、挙げ句の果てには怖がられてしまった。
「…あんな可愛い子が、男に声をかける時点で、ナンパ待ちだって、俺じゃなくても思うだろ。思わせぶりかよ…。」
だが、先程の出来事をよく思い出してみると、彼女は琥珀が病だと思い、医者に診せようとした。また、これから医学塾で学ぶと琥珀の誘いを断った。
彼女は医者の卵なのかもしれない。そう考えれば美醜に関わらず病人なら助けるし、病人じゃないならそれ以上関わらずに勉学に励む。琥珀にとってそれはもはや仙人修行のようだが、彼女が本気で医者を目指す者であるならばおかしな話ではなく、辻褄が合う。
すっと腑に落ちたが、琥珀の胸に残っているのは初めての感情だけだった。
すっかり日が暮れて、琥珀はいつも通り重い足取りで王宮に向かう。いや、いつもの3倍は重苦しいかもしれない。辺りはすっかり暗くなり、風は冷たさを増していた。いつもの琥珀なら寒すぎて文句を言っているだろうが、今日はこれぐらいが心地良い。
門番に「俺だ、開けてくれ」と声かけた。門番はいつも遊び尽くした琥珀を白い目で見て、やれやれと言ってしぶしぶ門を開けるのだが、今日は誰から見てもわかる琥珀の青白い悲壮感に満ちた顔を見て、驚きを隠せず、少しかしこまった様子ですぐさま門を開けた。
門を通り過ぎると腕を組んで仁王立ちした望月が立ちはだかっていた。ふくよかな体のせいで仁王立ちしてもいまいち怖くない。
「琥珀様…。もう許しませんよ…!私が今日どんな思いをしたか貴方様はご存知で?」
よく見れば暗がりでも分かるほど望月の顔は真っ赤で怒り狂っていた。別に琥珀が外に出て遊びに行くなどいつものことなのに何をそんな怒っているのだろうか。だかしかし、今の琥珀はそれに付き合っていられるほどの気持ちの余裕がない。
「望月、俺はとても小言を聞く気分じゃないんだ。頼むから明日、いや、今後一切言わなくていい。」
「頼みますから今日、今ここで聞いてくださいッ!」
なんだよ、という顔で琥珀は舌打ちをしそうになる。ただ、お互い意地を張ってばかりいたら埒があかないと思い、諦めて聞くことにする。
「何だ、早く言ってくれ。疲れてるんだ。」
望月はつらつらと文句を言うように話し始めた。
今日も琥珀様は講義に出られなかったので、私は書室で待つ師に伝えに行ったのです。いつものことなので師も「分かりました、」とおっしゃってくれたのです。不甲斐なさを感じながらも、琥珀様の自室の掃除に向かおうとした時です。
「あの阿呆は、本当に講義に出ないのだな。」
その声は耳に響く重低音で、聞く者の背筋をゾッとさせるほどの覇気がある。
マズい、これは非常にマズイ。望月は冷や汗が止まらなかった。絶対に此処に現れてはならない人が現れてしまったようだ。
「…左様でございます。琥珀様はもう何年も講義に出ておりません。私と望月殿で何とか説得をしておりますが、余程外の世界が楽しいようで…」
よくも、と望月は思ったが、止める間もなく師はそう告げた。偽りは何もない。全て本当のことなのだが、そんな正直に言わなくても良いじゃないか。
すると男は側にあった書棚の柱に拳を勢いよくぶつけた。ドンッと鈍い音が静寂の部屋に響く。
「あの糞野郎がァッ!!恥晒しをしやがってッ!!自分の立場が分かってないようだなッ…ハッ!呆れた。少しでも期待した私が馬鹿だったなッ!」
心臓が跳ね上がるほど威勢の良い怒鳴り声。自分に言われているわけではないが、あまりの罵声に神経がすり減らされる。師もどうやらやってしまった、と後悔しているようだ。
ひとしきり暴言を吐き散らかした後、男は袖を勢いよく翻して書室から出ていった。侍従の者は大声に顔を顰めながら、急いでそそくさと後をついていった。
書室には、しばらく沈黙が続いた。
「先生は…、あの御方の性分をご存知ないのです?」
師は冷や汗が床に垂れていた。
「…嘘を言うのも違うと思いまして。でも、どうやら私は失言をしてしまったようです。」
「…何も言えませんね、」
先ほどの男は他でもない、この国の主である猛龍王だ。正真正銘琥珀の父親で、名の通りの男である。身長2メートル近くで筋骨隆々。顔つきは眉が太く、彫りが深い。いわゆる強面で、同性からの人気が非常に高い。ただ、先ほどの通り、気性が非常に荒く、感情の波が非常に、それはそれは非常に激しい。そして声も(クソ)デカい。そのため、憧れる反面、臣下は日々顔色を伺っているのだ。
お互い青白い顔を交わしながら師とはその場で別れた。その後の掃除は心ここに在らず、だった。
「…ということがあったのですよ、琥珀様。」
「…俺が講義に出ないなんて、父上どころか王宮の者なら誰でも知っていることだろうに…。今更なんでそんなことを言うんだ?多忙すぎて、ついに父上も記憶力が危うくなってきたのか?」
「なに馬鹿なことをおっしゃってるのですッ!?もし今日大人しく講義に出ていれば王様の目に留まり、王様からの評価も幾分か良くなったかもしれないのに貴方という方はッ…!少しは偉大な王様や青藍様に近づこうとは思わないのです?!」
この俺に向かって''馬鹿"とは、望月は随分と偉くなったものだな、と思ったが、今回だけは目を瞑ろう。
「別に、今更父上から期待されたいだなんて思ってないさ。期待されるより、阿呆モノだと思われてた方が楽だ楽。今回のことだって、俺は寧ろ良かったと思うぐらいだ。」
望月はこれでもダメなのかと深いため息をついた。眉は八の字になり、その場にしゃがみ込んでしまった。
でも過ぎてしまったことはしょうがない、それにそれぐらいで関係が修復するほど自分の父親が柔軟な人物だとは琥珀も思ってはいない。
琥珀が父親から厄介者扱いされるようになったのは、他でもない琥珀が街に遊びに行くようになってからだ。落下して初めて街を知って望月に連れ戻された時も、美しい王子が穢れたといって、秘境の湯で入浴させられたぐらいだ。その後の講義で、琥珀が初めて師に「その教えは間違っている」と反発した時は、医官を呼びつけ何も異常はないのにしばらく無意味な治療をさせられた。
そして、琥珀が自らの意志で街に出て行った時からは、口も聞いてもらえなくなり、王宮ですれ違っても、視線すら向けたくないような様子で、存在すらないものとされた。
「もう…、分かりました。貴方にその気が無いことはよーく分かりました…。でも、今日の様子を見るにつけ、王様は決して貴方様のことを本気で諦めてはいないと私は思います。そのことだけはよく覚えておいてください…。」
へーい、と言って琥珀はその場をひょろりと離れた。
灯籠に照らされた王宮内を歩きながら琥珀は夜の星を見上げていた。
「本気で諦めてはいない、ねぇ…」
思わず鼻で笑ってしまう。それは自らの仕える王子をなんとか軌道修正させたい望月の願望だろう。琥珀が壁から落ちて行方不明になった時、望月は王からこっぴどく叱られ、踏みつけられ、中々大変だったとのことだ。確かに、その時目を離していたのは事実で、それさえなければ琥珀は今頃立派な王子となっていただろう。だから、望月は琥珀のことに対して王に、そして琥珀に対しても負い目があるのだ。
しかし、そんな望月をよそに琥珀が考えているのは今日の美少女のことだった。
「そうか…、今日のことだって諦めちゃダメだよな。何一度失敗したぐらいでへこたれてるんだ俺は…。確かに同じ女の子にニ度も声をかけるのは屈辱的だが、このまま負けました、で終わるのは色男の名が廃る。必ず惚れさせてみせよう…!」
いつもの琥珀なら、一人の女の子に執着はしない。まあ、そもそも断られることはないし、それで遊んだとしても、絶対に交際に発展させはしない。ただ自尊心を満たしたいだけの行為だからだ。だから、今までの琥珀だったなら、一度でも自尊心を傷つけられた女の子にニ度もアタックするなどあり得ないのだ。しかし、初めての屈辱を味わい、どうやら少し目的がずれてきてしまっている。琥珀本人は気付いていないが。
秋の綺麗な星空に琥珀は18歳にしては幼すぎる決意を投げた。