第二十八話
右京と左京はずっと声に出して笑い続けている。二人の声は高低差があるからか、この世の全ての人間に笑われている気がしてくる。
蓮司は二人の顔を見ていられなくなり、俯いて必死に涙を堪えた。涙を流そうが、それが涙なのかかけられた水なのか分からないのだから泣いてもいいんだろうけれど、泣き続けていたら本当に負けたみたいになってしまう。
蓮司が目を逸らして俯いたからか二人は面白くなくなったのか、左京は舌打ちをして手に持っていたタライを揺らしながら近づいてきた。
「本当に生意気な小僧だな。卑しい者のくせに俺ら上官に向かってそんな無礼な態度を取るなんてな。なあ兄貴、此奴に少し礼儀というものを教えてやろうか?」
左京の声色はまた笑みを含んだものに変わり、蓮司は体が硬直するのを感じた。
右京はふっと笑い、どうやら弟の提案に乗ったようだ。
すると、左京は手に持っていたタライを蓮司の体に向かって勢いよく振りかざした。
タライは聞くに耐えない鈍い音を立てて蓮司の体に当たった。
蓮司は咄嗟に頭を守ったが、狙われたのは体だったため、少しホッとした。
しかし、それも束の間、すぐに右京が近づいてきて蓮司の胸ぐらを掴んできた。
あまりの力の強さに蓮司は服に吊り下げられているような形になってしまい、まずいと思った頃には頰をめがけ重い拳が向かってきた。
何かが折れたような嫌な音がして口の中には血の匂いが充満した。
右京は蓮司の胸ぐらをパッと離し、蓮司はその場にグシャリと崩れ落ちた。
それからは殴る蹴る、引き摺られる、二人のやりたい放題で、蓮司は抵抗することもなくただこの嵐が過ぎ去るのを静かに待った。
耐えるんだ、ただ耐えるんだ。
これはきっと、今まで恵まれすぎていた縁の代償なのだろう。
この世界はこんな素晴らしいものではないと、きっと天が自分に罰を与えているんだ。自分は本来そんな良き縁を享受できる身分ではないのだ。
痛みのせいか、だんだんと意識が遠のいてきた。蓮司は今すぐにでも意識を手放したいと思い、抵抗しないで静かに瞳を閉じた。
「………!?なっ…なんてこと…!」
遠いどこかから中年の男の声が聞こえる。その声色は信じられないとでも言うような、今にでも失神してしまいそうなほどのか弱い声だ。
「しっ………失礼いたしました!」
意表を突かれた驚きと、怯えが混ざった声も聞こえる。声が高いから、これは多分左京だろう。
誰かが来てくれたのだと蓮司は何とか瞳をこじ開けて声のする方を見た。
まず目に入ったのは右左京で、二人とも先刻までとは人が変わったように黙り込み、首筋には水をかけられた蓮司と同じくらい冷や汗で濡れている。どんな表情をしているかまでは後ろからは分からないが、相当焦っているのかもしれない。
倉庫の入り口に立っているであろう人物を見ようとしたが、右左京が視界を邪魔して足元しか見えない。足元を見るにつけ、この人物はおそらく高貴なお方なのだろう。靴には泥一つついておらず、身に着けている深紅の衣服は皺ひとつなく、細やかな刺繍が施されている。
「何をしている」
その人物の声なのだろうか、さっきのか弱い声とは真逆で、その声は地を這うように低く、まるで嵐の前の静けさのように落ち着いている。
そういわれた途端、右左京兄弟はまるで操られているかのように二人同時に土下座をし額を地につけた。
「お前らは何をしていると聞いているんだッ!!!」
その男は先ほどまでの静けさが嘘のように、まるで稲妻が落ちたように激しく二人を問いただした。
「申し訳ありません猛龍様!!ただ、これには理由があります!この少年の出自は非常に貧しく、実の母親に捨てられたような卑しい者なのです!!こんな者が王子様の専属の医師で王子様に触れるなど言語道断でございます!!」
「そうです王子様!!今すぐこの浅ましい者を今すぐ追い出してください!!!」
「二人とも口を慎まぬかッ!!!王子様に向かって指図をするでない!!!」
先刻までか弱い声だった中年の男も声を荒げた。
二人はやっと黙り込んだ。
____王子様?
蓮司は確かにそう聞いた。今戸口に立っているのが王子様なのか?
そうだとして、なぜ王子様がこんなところにいるんだ?
王子と呼ばれた男はもう聞くに堪えないといった様子で歯ぎしりをしたかと思えば、勢いよく入口の扉を蹴り飛ばした。
扉は蹴られた勢いのまま平伏している二人の背中をたたきつけた。
「黙れッ!!!よくも……"私の者"にこのような仕打ちを与えたな!!これは私を侮辱していると捉えるべきだな!?」
おい、と言って男は後ろに控えていた者たちを呼び寄せた。
「此奴らは不敬罪を犯した。今すぐ捕まえて投獄しろ。父上には私から伝えておく。」
右左京兄弟の顔が青褪めたのを後ろ姿だけでも感じた。
二人は当然黙っておらず、上体を起こした。
「猛龍様!!!お待ちください猛龍様!!!そんな…我々は王子様の身を案じてのことでございます!!!」
「そうでごさいます!!王子様を侮辱するなど…そんなつもりは全くございません!!!どうかお聞き入れを!!」
男はまるで心底可笑しいといった様子で天を仰いで笑い出した。
「ハハッ………!!まだ喋るのか?その舌を引っこ抜いてやろうか?おい、何をしている?早く捕えよ」
先刻まで、控えていた者たちはどうしようか互いに顔を見合わせていたが、もうここまで言われてしまえばしょうがない。
さっと男の前に出てきて、右左京二人を四人がかりで捕らえた。
「王子様ッ………!!どうかお考え下さい!!この者のために王子様が独断行動をしたと王様に知られれば……!」
「黙れッ!!!早く連れて行かぬか!!!」
右左京二人の断末魔がこの倉庫を飛び越えて辺り一面に広がった。
これでは次第に王宮中に聞こえてしまうだろう。
「………王子様。」
蓮司はぐっと歯を食いしばり、痛む身体を何とか起こしその場に跪いた。
しかし思ったように座れず、おそらく腕や足は所々骨を痛めているだろう。
それでも、蓮司は自分のせいでこのような大事になっては鳳雅にも迷惑がかかってしまうと思ったのだ。
王子は怒り心頭といった様子で右左京を見ていたが、奥から弱った声が聞こえ、すぐに蓮司の方を向いた。
瀕死状態にさせたと思っていたのに声がしたことに驚いたのか、右左京もありえないといった様子で振り返った。
「その二人が言っていることは事実です。私は母一人子一人の家庭で育ち、その生活は人間とは思えぬほど貧しいものでした。………時には野草で空腹を満たしたことがあるほどです。そしてその母親にも結局捨てられました。………身分不相応と知りながら今日ここに足を踏み入れたのです。不敬罪を犯したのは私の方です。今すぐ私をここから追い出してください。」
蓮司の言葉を聞いて、お付きの者たちの多くは顔をしかめた。中には酷いもので、汚物を見るような目を向けてくる者、鼻と口を押さえる者もいる。右左京はほら、言った通りだといった様子で自分の両腕を抑えている者たちをじろりと睨んだ。
蓮司はその様子を見たくなくて、更に頭を深く下げた。
「おいおい聞いたか?野草を食べるだなんてとんだ野蛮な奴だな。体に虫でも湧いてるかもしれん、近づくでない。」
「母親に捨てられるだなんてよほどどうしようもない奴なんだな。」
「いや、母親も母親だ。我が子を捨てるなど良心というものがないのか?」
「おい、今すぐ追い出せ!王子様に害が及ぶ」
酷い言われようだ。
今まで自分で自分を責めることはあったが、他人からこんなにも非難の声を浴びたことなどなかった。
もう悲しい、悔しいという感情も湧いてこない。
自分に言われている言葉のはずだが、もはや蓮司の耳には入ってこない。無音の時が過ぎていっている。
もし自分がこんな思いをすると最初に分かっていたなら、秀と街に残っただろうか。
医官になりたいだなんて思わなければ____
「其方は見た目によらず阿呆なのか?」
その一言は果たして自分に向けられたものなのか分からなかったが、蓮司の耳にすっと入ってきた。
声のする方に顔を上げると、何とすぐそばに王子の顔があった。大きな瞳にすっと高い鼻、跳ね上がった太い眉は王族の威厳を現しているようだ。その顔は17歳とは思えぬほど完成されていて、無礼にも関わらず思わずその顔をまじまじと見つめてしまった。
「あ……阿呆とは…?」
「自分の側におくものについて何も知らないわけなかろう。お前らには私がそんな危機管理のなっていない人間にでも見えているのか?」
蓮司はぽかんと口を開けてしまった。
「え…っとその…では、王子様は私の出自をご存じで…、その上で私を受け入れてくださったのですか?」
王子は何がおかしいといった様子で、さぞ当たり前のように「そうだが?」と呟いた。
周りはまた騒ぎ出した。
「王子様………!!!なぜそんなことを…!古より王宮に出仕する者は先祖代々高貴な血を持つ者のみと決められております…!!」
「そうです!!なぜどこの骨かも分からないような者を認めたのです!?」
「医官長に懇願されたのですか!?」
蓮司は”医官長”と聞いて顔が青褪め、身体がふるふると震えた。
違う、鳳雅さんではない。自分がなりたいと言ったんだ、鳳雅は何も悪くない。
そう言いたいのに、怖くてなかなか言い出せない。
駄目だ、言わないと。鳳雅さんに迷惑をかけたくないのに____。
「何を言う。鳳雅が懇願しただと?馬鹿馬鹿しい。あの聡明な者がそんなことするわけないだろう。……逆だ。私がこの者を懇願したのだ。」
今度はシンと静まり返った。
「鳳雅からこの者の話を聞いて、私は天にも昇る気持ちだった。ずっと外の世界を見てみたい、同じ年頃の友人が欲しいと思っていたからな。絶対にこの者を連れてきてほしいと懇願したのは私の方だ。」
そう断言するのを聞いて、ある者は頭を抱え、ある者は小さく溜息をついた。
王子の側仕えの者なのだろうか、先刻から王子の側を離れない中年の男は王子にスススと寄っていき、
「王子様、ここでそのお話は止めていただいたほうが…」
しかしながら、その言葉をまるで聞こえなかったかのように王子は急に立ち上がり、右左京に向き返って大股で二人に近づいて行った。
そして両手で二人の胸ぐらをつかんで先刻蓮司が二人にされたように持ち上げた。
「それなのにお前らは…私が選んだこの者に対し、よくもこんな仕打ちをしてくれたものだな!?いいか?よく聞け。高貴な血筋だろうが平凡な血筋だろうが私はそんなことどうだっていいッ!!それよりも私は自らより優秀な人材に対し嫉妬し虐めるような性根の腐りきったお前らの方がよほど王宮から追い出してやりたい……!今日は”私の者”に免じて許してやる。……次は無いからな」
その声は耳をふさぎたくなるほど大きく、内臓を締め付けるような重苦しさがあった。
王子は持ち上げた手をぱっと下ろし、右左京は地面に強く叩きつけられ、まるで踏みつけられた蛙のように唸った。
まるで汚物でも見るような目で二人を見た後、王子はまた蓮司の前にしゃがみこみ、あろうことかそのまま蓮司を姫抱きした。
側仕えの中年の男は喉の奥でヒュッと悲鳴を上げ、その場にいた者は「……嘘だろ!?」と言って大騒ぎだ。
中年の男はすぐ駆け寄ってきて、蓮司を引っ張った。
「なりませぬ王子様!!今すぐその者を私にお渡しください!!!王様に見られでもしたら………!!!」
「フンッ!!知ったこっちゃない。話題になってこの馬鹿医官どもの悪事がバレてしまえばいい!!」
「…………王子様…」
王子と長い付き合いなのだろう、こうなってはもう無理だといった様子で中年の男はすぐに諦めてただただ後ろをついてきた。
蓮司はまるで空に浮かぶ雲のように柔いものの上で目が覚めた。
見上げる天井は高く、汚れ一つもないほど美しい白だ。
「………ここは?」
鳳雅の家ではないし、医学塾でもない。秀とどこかに遊びに行った先なのか?
「………秀?どこにいるの?」
秀を探そうと起き上がろうとしたとき、体中に痺れるような痛みが走った。
「いッ…!!」
あまりの痛さに蓮司はそのまままた雲の上に倒れこんだ。
そして、この痛みを感じたせいで、先刻までの記憶が鮮明に思い出されてしまった。
右左京の顔や暴行をされた痛み、溝鼠を見るような皆の顔、埃臭いあの倉庫まで。フラッシュバックのように体と心の痛みがどんどん蓮司の頭の中に降りかかってくる。
「あ…あ、う…ぐッ…くそ、うう……」
思い出せば思い出すほど屈辱や悲しみ、怒りが心を蝕んで、まるでそれを吐き出すように蓮司はただただ唸るしかなかった。
虫のように丸まり、歯を食いしばってこの苦しみが消えてくれるのを待つしかなかった。




