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紫苑に露  作者: 花信風描
第四章 追憶
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第二十七話

「緊張しているか?」

無言で後を付いてくる蓮司が面白く感じたのか、鳳雅は少し笑いを含んだ声で聞いてきた。

「……………当たり前じゃないですか。王宮ですよ?鳳雅さんは長年仕えているから感覚が鈍っているのかもしれませんが、普通の庶民だったらどんな勇敢な者でも震え上がります」

そう言うと、鳳雅はついに笑い出した。

「そんなことはない。私だって、初めて出仕した時のことはよく覚えている。………確かに君の言うとおり私も胸を高鳴らせていた覚えはないな。ひたすら来た道を引き返したいと思っていた。」


鳳雅さんでもそうなんだ、と蓮司は意外に思った。鳳雅はいつも落ち着いており、長年共に暮らした蓮司でも、感情の起伏を感じたことがないからだ。

「引き返すのは、まだ間に合いますか?」

「いや、残念だったな。もう時期に着いてしまう。」

今日の鳳雅はやけに嬉しそうで、蓮司の冗談にもすっと乗ってくれた。冗談だと思っていないのかもしれないが。


もう時期に着くと言われて蓮司は辺りを見回した。

王宮に近づいていると言う割には、あまり周りの景色に変化がない。もっと綺麗に道が整備されていたり、荘厳な建物が並んでいるものだと思っていたからだ。よほど、さっき通ってきた中心街の方が活気があった。

「………こんなこと言うのもなんですが、近くに王宮があるとは思えないですね。」

鳳雅は蓮司と同じように辺りを見回した。

「王家の方々は私たち庶民とははっきり居住を分けていらっしゃるんだ。他国だと、王宮の前には大通りがあって、店が立ち並び大層賑やかだと聞くが、我が国の王宮はそうではない。街の喧騒から離れた場所に建っている。………しかし、行ってみれば驚くぞ。この世とは思えないぐらい美しい場所で、まさしく神仙の住処だ。」

「………滝修行でもしてから来れば良かったです」

「それもそうだな」

さっきからくだらない冗談にも乗ってくれるほど、本当に今日の鳳雅は少し浮ついている。

もし、それが自分の初出仕の日だから、という理由であったら嬉しいと蓮司は少し期待して俯き、頰を桃色に染めた。


「………よし。ほら蓮司、着いたぞ。ここが今日から君が仕える王宮だ」

そう言われ目線を上げた蓮司は声を失った。


眼前の光景はまるで夢に出てくるような桃源郷だった。もし、極楽浄土が存在するなら、まさしくこのような場所であって欲しいと願うくらいに。

宮殿の数々は山の斜面に沿うように造られていて、建物の色のせいなのか、王宮全体が白光りしているように感じられる。

山の緑は深く一色だが、金木犀の黄色や秋桜の桃色も自然のまま咲き誇っており、所々に鮮やかな色が散りばめられている。

途切れ途切れに霧までもかかっており、そのせいか、高台で見晴らしが良いはずなのに王宮の全貌、暮らしぶりが全く分からない。まるで神々しい王家の人間を隠しているようだ。


蓮司が感嘆の息すら出せないほど圧倒されている様子を見て、少し誇らしく思ったのか、鳳雅は蓮司の方にぽんと手を置き、目の前の荘厳な山を指差した。

「どうだ?綺麗だろう。あの山は美仙岳といって、この国で一番高く、緑豊かで美しい。高貴な方々の居城とするのに申し分ない山だ。」

美仙岳というのか、蓮司は初めて知った。

医官を目指すようになってから、一度で良いから王宮を見てみたいという気持ちはあったのだが、忙しない毎日と、自分には烏滸がましいという気持ちのせいで、初出仕する今日この日まで来たことがなかったのだ。

「………とても、とても美しい場所ですね、」

この国にこんなにも美しく清廉な場所があったなんて蓮司は当然知らなかった。

こんな場所でこれから生きて行くのだ。

自分の中でやっと実感が湧いてきて、鼓動はいっそう大きく速くなり、胃がきゅっと締め付けられるような感じがして、蓮司は鳳雅にも聞こえてしまうぐらいゴクリと大きな音を立てて唾を飲んだ。

やはりその音が聞こえたようで、鳳雅は緊張する蓮司を微笑ましそうに見た。


「さあ、怖気付いている時間はないぞ。」

鳳雅はすっかり冷たくなった蓮司の手を取り王宮の大門へと足を進めた。




「紹介する。今日から共に働く蓮司という。」

目の前には自分と同じ医官の服を着た者かこれでもかというぐらいずらりと並び、蓮司は彼ら彼女らの前で背筋を伸ばして立っている。

初めて医学塾に行ったときも多くの人の前に立って緊張したが、あの時は秀がいたし、皆若者だったからまだマシだった。

しかし今は明らかに自分よりも年長者ばかりで、しかも王宮に出仕している者独特の洗練された雰囲気がある。

全身の筋肉が硬直して、どのような顔をしていれば良いのか分からない。

ここに来て初めて知ったのだが、鳳雅は医官長という、医官の中で最高位のようで、蓮司はてっきり暫くは鳳雅と一緒に居られると思っていたのに、大門を通るなりすぐ別れなければならなかった。

だから、今蓮司は全く知らない者ばかりの中である。


「蓮司、彼らは今日から君の教育係になる右京と左京だ。しっかりと言うことを聞くように。」

蓮司ははい、としっかり返事をした。

教育係として紹介された二人の男の顔を見て、思わず大きく目を見開いてしまった。

なんと目の前の二人の顔はどこをどう見ても瓜二つではないか!?

目の大きさや眉の角度、唇の厚さまで全てがそっくりだ。

「あ…………えっと、蓮司といいます。よろしくお願いします。」

挨拶もしないで顔を見続けるのはさすがに失礼だと思い挨拶をしたが、あまりの衝撃にぎこちないものになってしまった。

「なんだ?何か言いたいことがあるようだなぁ?」

左の男が不服そうな顔でぶっきらぼうに言った。

「どうせ、私たちの顔があまりにもそっくりだからどっちがどっちか分からないとでも言うんだろ」

次は右の男がハッと笑って言った。

声は右の男の方が低く、左の男は高い。唯一の違いは声ぐらいで、それ以外は表情まで似ているもんだから本当に見分けがつかない。

二人を紹介した中年の男がコホンッと咳払いをした。

「そのまま、左が左京で右が右京だ。見れば分かると思うが二人は双子だ。一応、右京が兄だ。二人とも、あまり新米をいじめないように。」

二人はそう言われてもまだ不服そうなまま、上官の言葉にははい、と丁寧に答えた。

もしかしたら、初対面ですでに印象を悪くしてしまったかもしれない。

蓮司は今後の行く末が少しだけ不安になった。




「いいか、いくらお前が凄腕だとしてもここでは新人なんだ。それをしっかり弁えろ。」

「王子様専属らしいが、果たして王子様がお前を認めるかなぁ?」

さっきから言葉がやけに刺々しい。

まずは王宮の施設を案内すると言われたため、二人の後をついて回っているが時折刺さる言葉の数々に蓮司は美しい王宮に感動することすらできなかった。

第一、自分のことを凄腕の医者だなんて天地に誓っても思ったことはないし、王子様に認められないかもしれないという不安なんて、誰よりも自身が一番感じているのに、この二人には蓮司が自信満々の若者にでも見えているのだろうか。

このような場で歓迎してもらえるとは思っていなかったが、まさかこんな初日から嫌われているとは思わなかった。

『………秀に会いたいな』

心の中で蓮司はポツリと呟いた。

今朝別れたばかりなのに、もう既に秀が恋しくなっている。

自分ならできると、あんなにも励ましてくれたのに、当の自分は少し強く当たられただけでもう秀に甘えたいと思ってしまっている。

世間なんてこんなもんなのだ、鳳雅や行平、秀に出会えたことの方が奇跡だっただけなんだ。世間なんてものは母親が我が子を捨てるほど残酷なのに、どうやら長年良縁に恵まれすぎて、そのことをすっかり忘れてしまっていたようだ。

そんなこと当然なのに、こんなことだけで既に心が折れそうになってしまっている。



「………情けない」

水面に映る自分の顔を見てそう呟いた。

王宮の案内が終わり、二人は自らの持ち場へ戻っていった。

『余計な時間を費やしてしまった、誰かさんと違って私たちは忙しいのに。』

『やれやれ、今日も時間内に終われる気がしないなぁ。誰かさんのせいで』

そうまた苦言を言われ、蓮司は古い医術用具の倉庫掃除を押し付けられた。

倉庫の中は王宮とは思えないぐらい汚れていて、埃や砂が舞い、物が散乱している。蜘蛛の巣があちこちにかかっていて、どこからかカサカサと音まで聞こえる。

人であれば足を踏み入れたくもないほどの惨状だが、蓮司はあの二人に同行するぐらいならここで虫と格闘した方が余程マシだと思った。

タライに雑巾を敷き詰め倉庫まで運んだ。

よし、やるかと言って、蓮司は情けない自らの頬をパシンッと叩いた。


「秀。僕、負けないで頑張るから」



夕刻。

美しいがどこか殺風景な殿からドタバタと煩い足音がいくつも鳴り響いている。

「猛龍様ッ…お待ちを!どこへ行かれるおつもりですかッ…!?時期に夕刻の講義が始まりますよッ!」

「うるさい!!今日から私専属の医官が来ると聞いてこの日をずっと前から心待ちにしていたのになんでまだ来ないんだ!!もう待っていられん!」

「だからといって王子様自ら出向くなんてことあってはなりません………!」

「うるさい!!それと、いちいち付いてくるな!!」

王子である猛龍は珍しく怒り狂っていた。

鳳雅から自分専属の同じ年の医官がくると聞いて、やっと友ができると夢にまで見るほど楽しみにしていたのに、どれだけ待っても来るのは中年官吏ばかりで、猛龍のお目当ては全くやって来なかった。


猛龍は自殿を飛び出し適当に見つけた医官を呼び止めた。

「おい!そこのお前!!」

声を聞いて王子だとすぐ分かった医官の男はピタッとその場に急停止してすぐさま振り返った。

「はい、猛龍様。」

「今日私の元へやってくると聞いていた新米医官は何処にいる!?」

男は一瞬どう答えようと戸惑いを見せたが、王族に嘘をつくなど不敬以外の何物でもなく、「東端の旧倉庫で掃除をしております」と声を震わせながら答えた。

「ん?なぜあの倉庫の掃除などする必要があるのだ?あれは取り壊し予定なのに。」

男はすぐさまその場を離れたいと言った様子でもじもじし出した。

「………申し訳ありません、猛龍様。新米の管理は別の者の担当になっておりまして…。私では分かりかねます。」

猛龍は「そうか、呼び止めてすまなかった」と言ってすぐその倉庫へ走っていった。

「まずいぞ………まずい、猛龍様に見られたら右左京双子の命はないぞ………」

男はそう呟いて、自分には関係ないと言わんばかりにそそくさとその場を離れた。




「………気合いを入れすぎたかもしれない。」

見るに耐えなかった倉庫は蓮司のおかげで美しく生まれ変わった。

最初に見た時は壁の色も何色か分からなかったが、こべりついた埃を落とし水で流すと、綺麗な純白がそこにあった。

あまりの綺麗さに、居住地を奪われた小虫たちは何処かへ逃げて行った。

ここまで休憩もなしにただ黙々と掃除をし続けていたが、ふと我に帰ると体には思った以上の疲労が溜まっていたため、そばに置いてあった背の低い棚の上に腰を下ろし、小さく溜息をついた。

さっきまでは掃除に夢中で何も考えずただ無心になっていたが、ひと段落つき我に帰ると漠然とした不安がまた胸の中に広がった。

同じ王宮という場所に鳳雅はいるが、忙しくて蓮司が雇われたというのに余計な心配はかけたくなかった。それに、せっかく鳳雅が話をつけてくれて今ここにいるのに、嫌な思いをしたと知られて申し訳ないと思われたくない。自分はもう子どもではないのだし、ここまで色々お膳立てしてもらって、尚且つさらに世話をかけさせるなど、絶対にしたくなかった。

「まだ1日目だし、きっと何かの勘違い……」


気が付いたら髪から水が滴り落ちていた。

あまりにも一瞬のことすぎて、水が地面に叩きつけられる音が今更耳に入ってきた。

せっかく綺麗にした倉庫が水浸しになってしまったじゃないか。

自分が全身濡れたことよりもそっちのことの方がよほど悲しかった。

「たかが倉庫の掃除に一日かけるなんて、お前は阿呆なのか?ここを何処だと思ってるんだ、王宮だぞ?皆忙しく働いているというのに怠けやがって!!」


右京と左京だった。

左京の手には蓮司が掃除に使っていたのと同じくらい大きなタライがあった。

あのタライいっぱいの水をぶっかければ、そりゃあ倉庫ぐらい水浸しになるだろうな、とやけに蓮司は冷静だった。

「お前なんだその目は?泣きながら詫びるぐらいすりゃあまぁだ救いようがあると思ったが、言いたいことでもあんのか!?」

左京の声は非常に高く、怒鳴られると耳がキンキンして痛くなる。

「落ち着け左京。此奴はそんな可愛げもない奴だから母親に捨てられたんだ」


蓮司は冷たい水をかけられたからか、やけに冷静になって聞いていたが、最後の言葉だけは流すことができなかった。思わず顔をちゃんと上げて二人の目を見た。

「な……ぜ、それを…」

やっと反応が返ってきたことが嬉しかったのか、右京は心底人が悪そうに笑って言葉を続けた。

「知ってるとも。官吏との縁もない奴が王宮入りするなんて前代未聞だから、お前のことなんて調べ尽くされてるに決まってるだろ?鳳雅さんは人事官に口外しないように言ってたみたいだが、そんなの拡がらない訳がない。今日、私たちを含め皆の反応がおかしいと思わなかったか?」

そう言われ思い返すと、確かに皆の目は冷たかった。王宮の官吏だから皆真面目なだけだろうと思っていたけれど、そういうことだったのか。

「王宮の外の者というだけでなく、まさか捨て子だったとはな。悪いことは言わない、今すぐここから出ていけ」

右京の低い声がまるで訛りのように重くのしかかってくる。冷たい水がまるで氷のように肌を刺して来る感覚がして震えが止まらず、二人の顔までこぼれ落ちる涙でぼやけてきた。よく見えないのに二人のニヤニヤした嬉しそうな顔だけは何故だかよく分かる。


____周りがなんて言ったって、僕は君を誇らしく思ってる!!


秀がああ言ってくれたときは勇気が湧き出てきて、過去を恥じないで前を向いて強く生きようと心底思ったのだ。

もう過去に囚われないで生きていけると本気で思ったのだ。

なのに、いざ過去を問いただされるとすぐに後ろを振り返ってしまう。すぐにまた自信をなくしてしまう。自分の意志はこんなにも弱かったのかと嫌でも自覚させられる。

何も言えない、反論できない。

同じ今日という日なのに、もう秀の手の温もりを思い出せない。


『…………秀、負けちゃいそうだよ』

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