第二十一話
「……どうぞ」
「ありがとうございます。」
再会を果たした二人はいったん落ち着こうと家の中に戻ってきた。出してくれたお茶は何か効能があるものなのか、かなり苦かった。
「…しかし驚いたな、あの時の少年が君とは…。怜と同じ年の子だったから、今どうしているのだろうと気になっていたんだ。」
「僕こそ驚きました…。数多く診てきた患者のうちのたった一人をいまだに覚えていてくださったなんて…」
蓮司は苦いお茶をまるで水でも飲むかのようにぐいっと飲み干した。琥珀は「えっ!?」と驚きが隠せなかった。
「……今まで多くの患者を診てきたが、誰一人だって忘れたことはない。一人ひとり患った原因や、置かれた環境だって違うだろう?それぞれにどうすべきか考えて向き合いたいと常に思っているから、そうすると忘れたくても忘れられないぐらい記憶に残る。」
琥珀は思わず感嘆の声が漏れた。
「……怜は、あなたのような医者になりたいと言っていました。怜からあなたのことを聞いて…、その時から僕は一度会ってみたいと思ってたんです。」
琥珀がそう言うと、蓮司はニコリと笑って嬉しそうな表情を見せた。
「それは嬉しいことだ。…しかしどうしてだ?私はただの医者だが?」
琥珀には蓮司に会ったら聞いてみたいと思っていたことがあった。思い切って聞いてみようと思い、いつもより息を深く吸い込んだ。
「僕は怜から、あなたは多くの富を得られる立場にあるのに、それを顧みず苦しんでいる人のために尽くしていると聞きました。……僕を助けてくれたことだって、もし僕が帰る家もないような子どもだったら、と考えたら助けてくれない人もいるはずです。…………あなたはどうして、自分が上に立つことに執着しないのですか?………僕は、皆があなたのような考えを持つべきだといつも思います。…でも現実はそうじゃなくて、周りはそんなことを言う僕を阿呆だと、現実が分かっていないと非難します。僕は……僕はどうすれば良いと思いますか……?」
琥珀はただの青年である自分がこんなことをいきなり聞いたら、『こいつは只者ではない』と疑われるかもしれないと少し躊躇した。しかし、王宮の皆から白い目で見られている自分自身を、彼ならば理解してくれるのではないかと、せめてもの希望を持っていたのだ。
蓮司は琥珀が苦しみながら紡ぎだす言葉を、その目を見ながら、頷きながら聞いてくれた。決して途中で遮ったり、馬鹿にして笑ったりしないで。その眼差しは震える琥珀を優しく包み込むようだった。
だが、琥珀が全て言い終わった後、彼は下を向いて少し考え込んだ。
琥珀はやはり自分は変なことを言ってしまっただろうかと心配になった。まさか王子だとは思わないだろうが、変な子だと思われただろうか。
「……珀くんは、なぜ皆が私のような考えを持つべきだと思うんだい?」
蓮司は俯いたまま少し声のトーンを落としてそう言った。
「僕は…それが人としてあるべき姿だと思うからです……!」
彼は更に俯いて片手で頭を抱えた。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。……しかし、私は君にその考えばかりに固執してほしくはない。」
「…どういうことですか?」
「今の君の言葉を聞くと、昔の自分を思い出すんだ。私も君ぐらい若い頃はね、自分は人として真っ当であると疑わなかった。多くの人を救って、それでどれだけ自分が貧しくなろうと、それこそ美徳だと思った程にね。……だけど今多くの守るべきものの前で、私は自分のしてきたことに自信が無くなってきた。」
琥珀は何を言われているのか理解ができなかった。てっきり彼は自身の信念に誇りを持って生きているものだと思っていたからだ。
「実際、私が治療に見合った報酬を得ようとしないせいで………報酬すら払えない人まで助けるせいで、住む家はこんなボロ家で、まだ若い子どもたちを働かせてまでいる。少なくとも父親としては失格だろう…?でも…そう分かっていながらも私はもう後戻りができなくなってしまった。自分の周りを大事にしなさいと言われることもあったが、逆に意固地になって我儘を言って…子どもたちや周りの人に甘えてしまっている。」
「そんな…そんなこと言わないでくださいっ!!」
琥珀は前のめりになり、蓮司の肩を掴んだ。
「その信念は曲げるべきじゃないッ!全て上手くいく方法があるはずだ……!じゃあ…貧しい人を無視をして、富める者が益々私腹を肥やす世を黙って見てれば良いんですか!?」
「………そういうわけでない。そういうわけで決してないのだが……!」
蓮司は少しだが声を荒げた。彼自身も信念と現実の葛藤の中にいるのだろう。その苦悶の表情は見ている琥珀の方も辛くなった。
「君が今、どんなことに直面しているのか私には分からない。ただ……私のように意固地になって理想ばかり追い求めるべきじゃない。今は分からなくとも、心には留めておいてほしい。」
「そんな……」
「そうだなッ!確かにあんたの偽善のせいで俺も兄さんも不自由だ!近所の奴らからは馬鹿にされて汚物扱いされて最悪だぜ……!」
琥珀は茫然としていたが、あまりにも耳を疑う言葉の羅列に、声が聞こえて来る方にバッと振り向いた。
そこには片手に藁を大量に抱え、気怠そうに戸にもたれかかっている、せいぜい14歳ぐらいの少年がいた。
「凛……帰ってきたのか、ずいぶん遅かったな。」
「ハッ…!当然だろ…誰かさんが金を稼いで来ないせいで、加えて兄さんまでせっかく稼いだ金を勉強なんかに使うせいで、俺が必死こいて働くしか無いからな!!」
その声はまだ変声期を経た直後ぐらいのあどけなさが残るものだが、その口調は非常に荒々しく人を不快にさせるには十分すぎるぐらいだった。まるで街の裏通りにたむろするゴロツキのようだ。
琥珀は先程蓮司の想いを知り、また怜のことまで侮辱されたため我慢ができなくなった。
「…おい、あんた今何て言った…?なんでそんな酷いことが言えるんだ?」
少年の、真冬の氷柱のように鋭く刺すような視線が蓮司から琥珀に変えられた。
肝がすわっている琥珀でも、思わず唾を飲んだ。
「あぁ…?何だテメェ?そもそも誰だよ?部外者がなんも知らねえくせに口出しすんじゃねぇよ!!」
「凛ッ!!!!いい加減にしろっ!!」
蓮司は声を荒げて立ち上がった。その声はちょっと前の蓮司からは想像もつかないほど激しい怒りに満ちたものだった。
少年は上を向いてハッと一回笑い、「はいはい、邪魔者は消えてあげますよー」と言って、持っていた藁を投げ捨て出て行った。
室内には暫く沈黙が続いた。
「…すまない、珀くん。嫌なものを見せてしまったね。」
「いえ…僕は別に…。その、さっきの少年は…?」
蓮司は少し困った顔をして笑った。
「彼は次男の凛だ。…怜の血の繋がった弟だ。」
琥珀はそんなこと分かっていたが、どうしても彼らとあの少年を結びつけたくなかった。
「さっき私が言ったことはこういうことだ。………情けないね。」
琥珀は何も言えなくなってしまった。
琥珀は反抗しながらも自分だけ周りと考えが違うことに対して不安があったのだ。どうして自分だけ周りと違うのかと。
けれど、怜から蓮司の話を聞いた時、自分にもやっと一筋の光が差したと思ったのだ。それまで曖昧で、ぼやけていた自分の理想とする姿がやっとはっきりして、これは間違っていないんだと期待していたのだ。
けれど、その期待も半ば無くなってしまった。
自分はやはり間違っているのか?自分も蓮司の言うようにただの我儘なのだろうか?
皆が言う"現実"とはなんなんだろう。
"良い"と心から思えないようなことも飲み込むことが現実というものなのだろうか。
……そんなんなら、何が楽しくて生きていくんだ?
どこにもぶつけようのない悔しさがどんどん心を浸食して、大きな影を作り始めた。
どう言葉にして良いかも分からず、吐き出せない感情は目に涙を溜め始めた。
こんなことで泣いたなんて知られたく無くて立ち上がった。
「……今日は失礼します」
琥珀はそのまま蓮司の顔を見ずお辞儀をして、引き止められないよう勢いよく外に出た。顔を見たら、泣いているのがバレてしまうからだ。
「ちょ、ちょっと珀くんッ!?」
琥珀の様子がおかしいと感じた蓮司に腕を掴まれてしまった。
どうしても顔を合わせられず、琥珀は自分の足元を見たままだ。
「…珀くん…?」
「…俺は、俺と怜だけは…あなたが間違ってるなんて、死んでも思いません…絶対に……!」
その時の蓮司の表情は分からないが、琥珀の腕を掴む力が少し弱くなった。
琥珀はその隙に腕を振り払い走り去った。
月の光も届かない夜闇の中へ駆けていった。
どれだけ走っても目の前は暗闇だ。進めど進めど光は自分の前に現れてくれない。
冬が近づく夜は鳥肌が立つぐらいには冷える。
暗闇と寒さで、悔しさが次第に悲しみへと変わってしまった。
これは、歴代王家の人間からの仕打ちなのだろうか。…確かに自分は阿呆で、皆んなから煙たがられる存在だろう。
だけど、生きる意味を問うまで自分を追い込もうとするなんてあまりにも酷くないか?
そもそも、なんで王家だからって皆同じ考えを持っていないといけないんだ?そんなの、おかしいじゃないか!?
だんだん走るのも疲れてきてしまった。
どれだけ走っても暗闇ばかりなら、走らなくてもいい。
光があると分からなければ、どんな人間でも走り続けられない。
「……もういいや。」
走るのはやめた。もうここがどこかも分からない。
琥珀はその場に寝転んだ。別に寝転んだ地面に何が落ちていようと気にもしたくない。
山賊に襲われようが、狼に噛まれようが、もうどうだってよい。
琥珀は静かに瞳を閉じた。
瞳を閉じると、他の感覚が鋭くなる。
草木の少し青臭い匂いや、梟が話す声、手に触れる土の冷たさ。
「フクロウさんよ、あんたは気楽でいいな。」
人間の言葉でも分かるのか、梟はさっきよりも大きく喋った。
「ハッ…バカにすんなって?オレ様も悩みぐらいあるってか?……ごめんごめん」
何て変なことをしているのだろうと、頭の中の自分が笑ってくる。側から見たら、それこそ医院行きだ。
梟は怒ったのか、バサっと音を立ててどこかへ飛んでいってしまった。
琥珀はまた一人になり、次第に視覚以外も無くしたくなって、そのまま眠り込んだ。
「珀ッ…!!どこで寝てるんですかッ!!起きて!起きてってば!!」
遠くで誰かの声が聞こえてくる。小鳥の囀りのような可愛い声。朝が来たのだろうか?
「…もう…!しょうがない人ですねッ!!覚悟を決めてくださいよ!?」
そう言われた瞬間、両の頬をバチンッと叩かれた。気持ちよく寝ていたのに、意外とその力は強く目が覚めてしまった。
「痛ッ!!!誰だッ!!」
少しイラついて勢いよく起き上がると、意外とまだ夜で、起き上がった先にはまさかの怜の顔があった。何とか止めたが、それでもあと少し近づけば口が触れてしまいそうな距離だ。
二人とも目の前の状況がよく分からず、しばらくそのままでいたが、やっと思考が追いついた時には「わあッ!!!!」と言って兎のように後ろに飛び跳ねた。
「びっ…くりした…!怜、何でこんなとこにいるんだ?」
「それは私の台詞ですッ!こんな道端で寝てるなんて、どうかしてますよッ!?」
そう言われて琥珀も我に帰り、「…そうだな、すまん。」とポツリと言った。
また二人の間に沈黙が流れた。
琥珀は、怜を目の前にしてさっきまであんなに自暴自棄になっていたのに、今は怜に対する罪悪感がまた湧き上がってきた。今日はどうも感情の起伏が激しい。
…どこから謝ろうか、どう謝ろうか。…いや、もう素直に謝るしかない。
「怜…、本当にすまなかった。」
琥珀は思えば初めて心から人に謝ったのだが、目の前の怜はきょとんとしている。
「あ…あの、その…お母さんのこと、俺すごく無神経なことしちゃった。怜は嫌がってたのに、無理矢理連れて行くようなことして、その理由まで考えられなかった。」
「なんでそれを…」
「ごめん、蓮司さんから聞いた。彼は俺がそのことを知った上で誘ったと思ってたみたいで。」
「……そうですか、父が…。」
「怜のこと臆病だとか言ったことも、申し訳なかった。」
「…それは良いんです、それは紛れもない事実なので。」
そう言う怜はどこか自虐的で、琥珀はなんでそう言うのか聞こうとしたが、また傷つけそうで止めた。
「母のことも、行くと言ったのは私です。……母の記憶は断片的なので、私も父から聞いた話ではありますが、母は確かにあの街の妓女でした。…母は、自分が妓女になることで家族の暮らしが幾分かマシになったのだからと言って、あまり愚痴をこぼしたりはしていなかったみたいですが。私からしたら、いくらお金のためとは言え複数の男性の相手をするなんて、とあまり良い気分にはなれませんし、あの花街は紛れもなく母の病の原因であって、なぜあんな仕組みがまかり通るのか…母の実家や、あの場所で働いていた母のことでさえ私は恨んでいました。母が抵抗することなんてできないと分かっていながら……でも、それさえなければ病気なんかしないでもっと一緒にいられたのにって」
琥珀はまたもや何も言えなくなってしまった。昼間のお菊さんのことを思い出して、自分があの街を作ったわけではないが、罪悪感に襲われた。
__でも、自分はこの国の王家なのだから、幾分か責任はある。
「でも、初めてあの場所に行って、あの街で働いている女性たちに会って、母もこんなふうに必死に働いていたんだろうなと思ったんです。彼女たちを見て、少なくとも母を恨むことは間違っていると、やっと気付くことができたんです。だから…気付かせてくれて、ありがとうございました」
「怜……」
「だから、謝らないでください。私も、恨んでいるとか言いながら、お菊さんに靡いてしまっていましたし…男というのは、実に情けないですね。」
怜は恥ずかしそうに笑った。琥珀は何だか久しぶりに怜の笑顔を見たような気がして、心が温かくなった。
「それよりも、珀が酔って私を投げ飛ばしたことの方が謝って欲しいですよ。結構痛かったんですから、アレ。」
怜はフンッと頬を膨らませた。
琥珀は一番謝りたかったことを謝れて、すっかり忘れていたが、そういえばそんなことをしでかしていた。
しかし、これについてはどう言おうか。自分ですら、なんであんなことをしたのか分からないままなのに。
よく小説などである独占欲?嫉妬?
いや、それは色恋話であって、友人である怜に抱くものではないだろう。そもそも、自分は女性にですらそんな感情を抱いたことがないから分からない。
そういえば、前にも似たようなことがあったな?
そうだ。怜が初めて酒を飲んだ日だ。あの日も危なかった。
…………何が危なかったんだ?
「…おーい、珀?珀ってば…何をそんな難しい顔してるんです?黙り込んで誤魔化す気ですか??おーいッ!!」
可愛い小鳥が自分の名前を呼びながらクルクルと周りを彷徨いているが、琥珀はそんなことさえ気にする余裕がないほどグルグルと自問自答していた。
琥珀が自分の手を振り払って行ってしまってから、蓮司は暫く自分の手を見つめていた。
乾燥して、所々あかぎれになっている手を見て、情けない気持ちになった。
あんな青年に…希望を持った青年にあんなことを言ってしまうなんて。
蓮司はすっかり冷たくなった手で自分の顔を覆った。
琥珀の光を失った目が頭にこべりついて、いつまでもいつまでも忘れることができなかった。




