第二十話
「____くん!珀くん!」
誰かに呼ばれている気がする。誰だろうか?男性の声だが、あまり聞いたことがない声だ。
そもそも自分には男性の知り合いなんてそう多くないのに。
珍しく暗い気持ちになっているから、これは幻聴かもしれない。そうだとしたら恐ろし過ぎる。
琥珀はその声を無視して歩き続けた。
「珀くんッ!」
「ッ!?」
声の主に肩を掴まれた。
幻聴ではなかったみたいだ。恐るおそる振り返ると、そこにいたのはなんと怜の父親だった。
なのに、自分はずっと無視していたのか!?
「ご、ごめんなさいッ!!無視していたわけじゃ…あ、いや…そうなっちゃいますよね…」
「いや、大丈夫だ。気にしないでいい。」
彼の息は上がっていた。琥珀が無視するものだから走ってきたのだろう。
「あの…僕に何か?」
彼はまだ息が苦しそうだ。
「店主から、君が暗い顔をしてまるで魂が抜けたかのように出ていったと聞いて様子を見に来たんだ。そしたら本当にフラフラと歩いているものだから……すまない、ほとんど面識もないのに呼び止めてしまった。名も教えていなかったな。私は蓮司という。」
「蓮司さん……」
彼は外見だけで見ると、いかにも実直で生真面目そうには見えるが、接してみるとその中に温かみもある人だ。その声は低く落ち着いていて、聞き心地が良い。
「大丈夫かい?顔色が優れないじゃないか…」
「………はい、実は」
「………そうだな、私も彼女を診て、なんとも歯がゆい気持ちになった。命自体は救えたが……医者の私がこんなことを言うべきではないが、これが本当に彼女自身を救うことになったのか、正直分からない。治ったらまた働かなければならないから」
「………はい。分かってはいたことなんですけど、本当の意味では分かっていなかったんです。」
琥珀は蓮司と一緒に歩いていた。そのおかげで、さっきよりもしっかり前を向いて歩けている気がする。
「そうだ、珀くん。わが家で少し休んで行ったらどうかい?ここからすぐ近くなんだ。」
「え…いいんですか…?」
「先刻のことで疲れているだろう。君の家がどこかは分からないが、少し休んでいった方が良い。怜もそのうち帰ってくるだろう。」
「怜」と聞いて琥珀は少しギクリとした。お菊さんの一件ですっかり忘れていたが、琥珀は怜に対し罪悪感を抱いたままだった。おちゃらけて誤魔化したが、怜がどう思っているのかは分からない。会ったところで気まずい空気にならないだろうかと内心焦っていた。
「しかし、怜から呼ばれて行った場所が妓楼だった時は、自分の息子がまさかそのような処に行くとは思っていなかったから驚いたが、珀くんの行きつけだったのだね。」
「…………はい、すみません…。純粋無垢な怜さんを連れ回して…」
彼はハハハッと軽く笑った。
「問題ない。それに、あの子の性格だ。本当に行きたくなかったら行かないはずだ。私は嬉しく思っているよ。あの子はいつも今日はこんなことを勉強しただの、あんな薬草を見つけただの、同じ話ばかりだったんだけどね。珀くんと出会ってからというもの、瞳を輝かせて私に自慢話をするようになったんだ。」
「そ…そうなんですか。」
琥珀はそれを聞いて心の底から嬉しさが込み上げてきた。以前廃寺で怜の気持ちを聞いたことはあったのだが、家族にも話すほど楽しいと思ってくれていたのだと知り、先ほどの罪悪感も少し和らいだ。
「それに、あの子も本当のところは母親がどんな場所にいたのか知りたかったのだろう。」
「……え?」
琥珀は最初普通に受け流していたが、「待てよ?」と我に返った。
「え?」
「………まさか、知らなかったのかい?」
「え………何を…?」
「あの子の母親、つまり私の妻はあの花街出身だ。」
怜の家は、本当に花街から近くにあった。
家が数軒ほど集まって一つの集落を作っている中の、小さな家だ。患者を診る母屋と、おそらく怜たち家族が生活しているであろう離れに分かれていた。母屋と離れがあるが、決して大きくはなく、失礼過ぎてとても口には出せないが、琥珀は一瞬医療道具や薬を保管しておく倉庫だと思ったぐらいだ。母屋の軒先には布切れに墨で「医院」と書かれた簾のようなものがかかっている。琥珀は何となくこの場所に見覚えがある気がしていたが、別に珍しい村ではないため別の場所と勘違いしているのだろうと思った。
しかし、そんなことよりも、琥珀は先ほど伝えられた話で頭がいっぱいだった。
そういえば妓楼に行くと言った時も、花街に入っていってからも、怜の様子はどこかおかしかった。妓楼に行きたがらないのは女慣れしていないからだと思っていたが、確かに、自分の母親が色を売っていた場所に実際に行けば、その事実を目の当たりにすることになるから、いい気はしないだろう。
琥珀は再び怜に対して罪悪感でいっぱいになってしまった。
「僕…すごく無神経なことをしてしまいました…。怜に合わせる顔が無いです。」
それを聞いて彼はまたハハッと笑った。ただ、さっきよりも少し悲しみが混ざった声で。
「あの子が自分の母親を苦しめたあの場所を嫌っているのは確かだろう。でも同時に、大好きな母親がどんな人生を過ごしていたのか本当は知りたい、そこに行けば母親に会えるかもしれない…とでも思ったのだろうね。」
いや、違うと琥珀は思った。嫌がる怜を無理やり連れて行ったのは自分だ。怜のことを臆病だと言って揶揄ったのだ。
「蓮司さんは…なぜ怜のお母さんに出会ったのですか?……今は?」
「妻はあの子がまだ4つの時に亡くなった。君も知っているだろうが、あの場所は肉体的にも精神的にも過酷な場所だ。私が彼女に出会った時、すでに彼女の体は病に蝕まれていてね。それでも何とか治して…子宝にも恵まれて。これからは彼女も幸せに暮らしていけると思っていたのだが、やはり長年酷使した体はそんなに強くはなかった。」
「………すみません」
琥珀はそれしか言葉が出てこなかった。後で怜に会ったら全てのことについてちゃんと謝りたいと思った。
「君が謝ることではない。こちらこそすまない、君にそんなことを言わせる気は全くなかったのに。ほら、着いた着いた。狭くて申し訳ないが、ゆっくりしていってくれ。」
琥珀は興味があり、ちらりと母屋の医院の方を見た。通り過ぎただけでも薬品独特の匂いが充満していた。不快な匂いではないのだが、王宮でこの匂いを嗅ぐときはだいたい横着して怒られながら治療されるときが多いため、あまり嗅ぎたい匂いではない。琥珀が通されたのは彼ら家族が生活している離れの方だった。先ほどちらりと見た母屋の方が多少広いのだろうが、客を医院に通すことは流石にできないのだろう。離れはお世辞にも広いとは言えなかった。蓮司と怜、二人の勉強用なのか壁には人体を描いた図画や、何やら難しそうな書籍まで置いてあった。
琥珀の頭は怜に対する罪悪感でいっぱいだったが、その中でもやはりこの場所に見覚えがあるとまた思った。
そういえば、蓮司にも会ったことがあるのでは?とずっと思っていたのだった。
でもいつだ……?自分が医官以外の医者に診てもらうことなんて………
_______あった。一度だけ。
琥珀が民の世界を初めて知ったあの日。
珍しくて美しい蝶を追いかけて塀から落ちた日。
意識を失いかけていた時、助けてくれたのは偶然あの場を通りかかった医者だった。
__そうだ。この医院まで運んでもらって、治療を受けたのだ。意識は朦朧としていても、初めて見た外の世界は決して忘れてはいなかった。
琥珀はバッと勢いよく立ち上がり、戸を開け外に出た。
「………そうだ、この場所で………!」
この場所で治療を受け元気になった琥珀は村の子どもたちと一緒になって遊んだ。
初めて民と触れ合い、その温かさを肌で感じたのだ。
「じゃあ、怜とも……」
今同じ場所に来て、段々と記憶が蘇ってきた。今までも完全に忘れてはいなかったが、八年も前の話を流石に詳細まで覚えていたわけではなかったのだ。
___いや、医院に息子なんていたか?医院の息子なんて全く覚えがない。
しかし、脳裏に浮かんだのは遊び騒ぐ琥珀たち少年を遠くの木陰から眺めていた小さな少女。そよ風に吹かれた髪は細く繊細、肌は色白で、子どもとは思えないほど美しく儚い。強い日差しに当たれば知らぬうちに消えてしまいそうだった。木の幹に腰掛け、その小さな手にはこぼれ落ちそうほど重そうな大きな本を抱えていた。
そうだ、その少女は琥珀が元気になるまでの間、甲斐甲斐しく世話をしてくれていた。衣を取り替えたり、食事を運んできては、口まで運んでくれていた。琥珀は当時無邪気な子どもながら、密かにその少女に淡い気持ちを抱いていたのだ。
………あの子が怜だったのか?
琥珀が急に部屋から出て行ったものだから驚いた蓮司は慌てて外に出てきた。
「どうしたんだ珀くん!?急に出て行って…」
琥珀は蓮司の方に向き直り、もう一度ちゃんと彼の顔を見た。
あれから八年も経っているから、当然蓮司も年を取ったが、琥珀の中の医者と完全に姿が一致した。
「……ッ!!蓮司さんッ!!!」
琥珀は蓮司の方へ走っていった。
彼だ。自分を助けて、自分が変わるきっかけをくれたのは彼なのだ。
「ど…どうしたんだ?」
彼の顔は当然困惑していた。それもそうだ。彼にとったら息子の友人が急に飛び出していったと思ったら今度は感動に満ちた顔をしているのだから。
「蓮司さんは覚えていないと思いますが……僕、八年前にあなたに助けられたんです………!塀から落ちて、意識が朦朧として動けなくなっていたところをたまたま通りかかったあなたが見つけてくれて…」
琥珀がそう言った途端、それまで困惑の表情を浮かべていた蓮司の顔が急に変わった。
「………あの時の少年なのか!!?」




