第十九話
それから四半刻もしないうちに怜は一人の男を連れて走って戻ってきた。
この場にはとても似合わない雰囲気の男の背には、溢れんばかりの荷物が入った包がある。
琥珀はこの男に少し見覚えがある気がしたが、この緊急事態に記憶を辿る余裕なんてなく、気のせいだろうと思うことにした。
男は目の前のお菊さんを見てすぐさま側に座り込み、背負っていた包を開けた。お菊さんは意識を失ってはいないものの、もはや喋ることはできず、ただただ痛みに耐えていた。
男が開けた包の中身を見て琥珀はハッとした。中には王宮の医官が持っていた治療道具とそう大差ないものが数多く入っていた。
『この人は医者なのか!怜は医者を探しに行ってくれてたのか!』
確かに怜はまだ勉強中の身だから、生半可に診るよりずっと良い判断なのかもしれない。
しかしこんな夜に、しかも土地勘のない場所でそんな簡単に医者が見つかるだろうか?
怜はその医師のすぐ隣に座った。
「……父上、」
____父上!?
その言葉を聞いて琥珀は驚きはしたが納得した。
そういえば怜は父親が医者だと言っていた。
「右下の腹部を押さえている。……今すぐ開腹手術をしなければ助からない。」
「そんな………」
後ろで怯えながら様子を見ていた爛さんはその場で崩れ落ちた。爛さんは妓楼の店主としては驚かれるぐらい妓女たちを大事にしていることで有名だ。重病だったことに加え、開腹手術など妓女に傷が残ることの意味を誰よりも分かっているが故だ。
それでも命に代えられるものは何も無い。
爛さんは床に崩れ落ちたまま這いつくばって怜の父親の手を掴んだ。
「お医者様……お願いします…。この子を助けてやってください……」
その苦渋の表情を見て、琥珀は心底胸が痛んだ。
「……はい、全力を尽くします。私の医院まで運んでいる時間はありません。ここで処置を行います。皆様は全員部屋の外に出ていただけますか?」
爛さんは悔しさで涙をこぼしながら「……はい、」と小さく頷き、すぐに人払いをした。
琥珀も当然部屋の外に出た。怜も出ようとしたが、
「怜、君はここに残りなさい。」
と止められた。
そう言われ、怜は小さく返事をした。
しかし、その表情は緊張でなのか分からないが強張っていて、どことなく頼りない印象を与えた。この状況になってからというものの、怜の様子はどこかおかしい。
部屋の扉が閉められ、他の者は別室に移りただひたすら待った。
時折怜が部屋から出てきて何か物を頼んでいたが、中の様子は全く分からなかった。
順調に進んでいるのか、それとも危険な状態なのか、分からずにただ待ち続けるのは実際よりも長く感じた。
____怜の父親が部屋から出てきたのは、明け方近くだった。
幼い禿たちは終わるまで待つと言って聞かなかったが、爛さんが無理矢理寝かせ、他の妓女たちにも、お菊さんの二の舞にならないよう休んでもらった。
無事に手術が終わったと告げられた時、爛さんは長い緊張と不安の糸がプツンと切れ、壁に倒れ込んだ。
琥珀自身も、倒れ込む爛さんをとっさに支える余裕がないほど神経をすり減らしていた。
爛さんは今すぐにでも会わせてくれ、と懇願したが、暫くは経過観察をする必要があると断られていた。
その日は怜と怜の父親を残し琥珀は大人しく王宮に戻った。ギリギリ朝では無かったため望月に咎められる心配もなく、琥珀は疲れがどっと出て昼まで寝ていた。そのせいで結局ネチネチと小言を言われることになったのだが。
数日後、琥珀はお菊さんの様子がどうしても気になり花街へ向かった。妓女が一人病気になったところで営業しなければいけないだろうから、昨晩も店を開けていたのだろう。店の様子は元に戻っていた。
琥珀が入ると、爛さんが出迎えてくれた。少々やつれたようには見えるが、その顔には笑顔が戻っていた。
「朝早くにごめんなさい。お菊さんの様子がどうしても気になって…」
「ありがとうね、珀ちゃん。ずっとお医者様が付きっきりで世話してくれたお陰であれから快方に向かっているみたいだよ。もう会話もできる。」
そう話していると、奥の部屋から怜の父親が出てきた。
彼はあんな状況でも琥珀のことを覚えていたみたいで、見るなりハッと表情を変えた。
「君は…」
「あ、初めまして…。え…と、怜さんと仲良くさせてもらっている、こ、あ…えと珀と申します。」
琥珀は人と話す時人見知りや物怖じをしないのだが、「しっかりと話さなければ」と自然と背筋が伸びた。彼には人にそう思わせるような雰囲気が漂っている。自分の父親のように背筋を凍らせるような嫌な威圧感では決してないが、真面目で実直な人なのだろうと思った。
「そうか、君が珀くんか。怜から話は何度も聞いているよ。……残念だが、怜は今ここにいないのだが…」
「あ、違うんですッ!えと、お菊さんの容態が気になって。」
「そうか。君は優しい子だね、彼女はこっちだ。もう会っても大丈夫だし、普通に話すことができる。」
彼は少しだが笑顔を見せた。堅い人だと思っていたが、その笑顔は柔らかく穏やかで、やはり怜の父親なのだと思った。
部屋に通されると、布団には入っているが上体を起こして何やら読み物を読んでいるお菊さんがいた。
琥珀に気付くと、「あら、」と言って書物を横に置いて笑顔を見せてくれた。
こんな姿でごめんなさい、と彼女は頰を赤らめた。
当然だが化粧や華々しい髪飾り等もしていない。
だからだろうか、あの夜見たときは自分たちよりもだいぶ年上に見えたが、今見るとその顔はあどけなく、あまり変わらないのかもしれないと思った。
「どうも、あの時いた…あ、あなたが話していたあの男の友人です。」
そう言うと、彼女は上品に口に手を当てふふっと笑った。
「勿論、存じ上げておりますよ。珀様でしょう?随分前からよくうちに足を運んでいただいてましたよね。他の者が色めきだって話しているのをよく聞いていましたから…。」
琥珀はそれを聞いて少し恥ずかしくなってはにかんだ。
「でも、私は残念ながら珀様と直接お話ししたことはありませんでしたので、今こうしてお話しできて大変嬉しく思います。……できれば着飾った姿でお話ししたかったのですが…」
彼女は自虐っぽくそう言った。意外とひょうきんでもある女性なのだと思い、より親近感が湧いた。
「身体の具合はどうですか?医者は何と?」
「身体はもうだいぶ良くなりました。痛みも手術の跡がまだ少し痛むだけです。………お医者様からはこの病は治療は難しいが珍しいことではないと言われました。不規則な生活や………日々の我慢が原因だろう、とも。」
琥珀は何も言うことができなかった。
不規則な生活は勿論のこと、日々の我慢というのは詳しく聞かなくても分かる。
「……私が珀様となかなかお会いできなかったのは、有難いことに毎日通ってくださる方がいたからなのです。あの夜はたまたまその方がいらっしゃらなかったので、少し顔を出すことができたのです。その後すぐその方がいらっしゃったので、ほんの少しだけの時間でしたが…」
琥珀はあの小太りの男を思い出した。
「……あの夜追い出されていた男ですか?」
そう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
「ええ、彼はどうやら役人のご子息みたいで。自分が働かなくてもお金が降るように入ってくるから毎日ここに来れるんだ、とよくおっしゃっていました。………確かに、普通の方は毎日こんな処にくることなんて到底できませんよね。」
役人の子と聞いて、琥珀はギクリとした。役人本人ではないのだから、琥珀のことなんて分かるはずもなければ興味すらないだろうに。
「……あの夜、爛さんはひどく怒っていました。あの男があなたに何かしたんだろうって。普通、そんな疑いを客にかけませんよね?……あの男との間に何か問題が?」
言ってしまった後に琥珀は「しまった」と思った。あまりにも唐突に聞きすぎててしまった。何か、例えば毎回暴力を振るわれていたとしても、圧倒的に不利な立場にある彼女が、男で、しかも客である自分に言い出せるわけなんてないのに。
案の定、彼女はニコリと軽く笑い「いいえ、そんなことはありませんよ。」と真剣な眼差しで問いかけた琥珀を軽くあしらった。
「……でもッ!」
琥珀はやはりやり切れなくてもう一度彼女の目を見た。
しかし、琥珀は言葉を飲み込んだ。
「これ以上踏み込んでこないでくれ」
目の前の彼女は何も言葉を発していないが、その瞳は確かに琥珀にそう訴えかけている。その眼差しからは一人の女性として強く生きたいという彼女の意志が痛いほど、苦しいほどに伝わってきた。
琥珀は「何でもないです」とボソリと呟き、もう彼女の瞳を見続けることができなかった。
花街を後にして、琥珀は行き先もなくただ足を前に運んでいた。
先刻のことが、どうしても頭から離れない。
彼女は気丈にしていたが、その瞳は潤んでいた。にこりと笑ってはいたが、その口の端は僅かに震えていた。
____だからと言って、自分に何ができるんだ?
仮に彼女が自分に打ち明けてくれたとして、彼女をあの街から救い出すことなんていくら琥珀でもできやしない。
…いや、琥珀はなんと言ってもこの国の王子だ。物理的に救い出すことはできる。だが、その後の彼女の人生まで救い出すことなどは決してできはしない。彼女の心の傷まではどう頑張ってもできやしないのだ。
彼女に限らずあの花街の多くの女性たちの出自は明るいものではない。貧しさから身売りされた者が大半で、どんなに毎晩客をとっても彼女たちに繋がれた鎖は切れやしない。
一度足を踏み込めば二度と街から出ることはできず、身請け話なんてものはおとぎ話のようなことだ。
彼女たちに逃げ場など無い。できることはただ毎晩客を取るのみ。
自分の境遇に嘆き泣くことでさえ許されない。
お菊さんもそれを嫌というほど分かっているから、泣きながら、震えながらも笑ったのだ。
琥珀は今までそんなことを分からずに通っていたわけではない。それぐらいの常識はある。
しかし、いつも眼前に広がる煌びやかで華やかな世界に酔って、彼女たちのことを考えることをしなかった。
今初めてあの街の現実に向き合わされ、胸に突っかかるやるせなさと、なぜ人間にはこのように差があるのだろうか?と考えずにはいられなかった。




