第十七話
「………おーい。怜さんよ、まだここにいる気?」
「…………。」
「勘弁してくれよ~。俺はさ、妓楼のヌシに前から来いって言われ続けてるんだ。早く行かないと怒られちゃうじゃないか!」
「………怒られれば良いと思います。私を置いて行ってください」
「はあッ!?この期に及んでまだそんなこと言ってるのか?往生際が悪いなッ!?ほら、早くっ!」
目の前に広がるのはどこまでも広い海で、煌びやかな夕日を鏡のように水面に映している。鴎の声と波の音も相まって、日常の小さなことなど自然と忘れてしまいそうなほど壮大だった。
それなのに、この青年二人は目の前の非常に、非常に小さなことで揉めている。人間というのは何ともくだらないものである。
あの夜、廃寺からの帰り道にも怜は「嫌です、絶対に嫌です」と子どものように言い続けていた。人間ならば、美しい者が集まる場所に自然と心惹かれるものなのに、やはりこの修行僧は人間としての欲望に疎いらしい。「そこに行かなければならないのなら私は珀から逃げ続けます」とまで言われてしまえば図々しい琥珀はそれ以上何も言わなかったが、妓楼に惹かれないのは、18の男として流石にまずい。怜には男色の趣味なんて無いだろうし、自分には関係のない世界だと決めつけているだけだろうと踏んだ琥珀は、なんとしても連れて行かなければ、と密かに意気込んでいたのだ。酒のことだって、最後は楽しかったと言ってくれたのだから、今回のことだって、ただ怯えているだけに違いない。
ただ、馬鹿正直に妓楼に連れて行くと言ってしまえば宣言通り逃げられ続けてしまいそうだと考えた琥珀は「もう妓楼は諦めた!海に行こう!」と言って誘い出した。勿論妓楼は諦めていなかったのだが。
初めて海を見た怜は、最初こそ迫りくる波に驚き、衣の裾が何度も濡れて顔をしかめていたが、琥珀が気付くと、いつの間にか膝までつかって気持ちよさそうに笑っていた。砂浜に転がる貝殻や、どこから流れ着いたか分からない異国の文字が入った代物などを見つけては「珀っ!これなんですか!?」と聞いてきた。その素直な、無邪気な笑顔はまたもや自然と琥珀を幸せな、満ち足りた気持ちにさせた。琥珀自身も自然と笑みがこぼれ、心が温かくなるのを感じた。もっと一緒にいたい、もっと色々なところに連れて行きたいと思うようになったのだ。ただ、今まで経験したことのないこの感情に、琥珀はどう名前をつけたらいいのか分からなかった。
遊んでいるうちにいつの間にか日は暮れていた。
この後のことを知る由もなく幸せそうに海を眺めていた怜に対して、流石の琥珀もいささか罪悪感を感じたが、自分は怜に新しい世界を見せてあげるのだ、これは怜が真の大人になるためにも必要なのだと意味の分からない論理を自分に言い聞かせ、怜の手をぎゅっと握り満面の笑みで真の目的を告げた。
___そして今に至る。
「嫌がる私に嘘をついて連れて行こうだなんて、ちょっと意地が悪いんじゃないですか?友人とは嘘をつきあう関係のことをいうのですか?」
唇を尖らせまだ怜はブツブツ文句を言っている。
「こうでもしなきゃ、俺から逃げ続けると君が言ったんじゃないか!俺は怜と一緒に妓楼に行きたい、だからといって逃げられたくはない!ほら、簡単なことだろうッ?そもそも、なんでそんなに嫌がるんだ?修行僧じゃあるまいし、俺らぐらいの男にとったら天国のような場所だぞ!?」
「だから………、」
怜は何か言いたげな様子だったが、さっきまでキャンキャン喚いていた口は急に大人しくなった。
「しっかし怜はさ、結構臆病なんだな!酒の時も今みたいに抵抗してたし。」
「………ッ!!」
怜がパッと勢いよく顔を上げた。
その顔は、さっきまで不貞腐れた表情をしていたのに、今は図星をつかれてカチンと怒りを感じたような表情をしている。こんな表情は2回目に怜に会って怒らせた以来だ。
「なんでもやってみないと分からないだろ?酒だって結果楽しかったろ?やってみて合わなかったならそれはそれ!また新しいことに挑戦する!単純なことじゃないか!」
臆病と言われ相当腹が立ったのか、怜は唾をゴクリと飲み、何かを決心したようにパンっと自らの頬を叩いた。
「分かりました!もう抵抗するのは辞めます!行ってみます!」
ニッと笑った琥珀は、怜の手をギュッと握り「よし、行くぞッ!」と言って満月を映す海を後にした。
琥珀がいつも訪れる花街は真っ暗な田んぼ道の中に急に現れた。
その花街だけが独立した区画になっていて、周りは高い塀に囲まれている。しかしがら、外からでもその煌びやかさ、賑やかしさは十分に伝わってくる。琥珀がいつも遊んでいる街だって、人通りも多く賑やかではある。ただ、それはあくまで昼間だけの話であって、夜になると大半の店は閉まってしまうのだが、花街は夜が本命なだけあって、これでもかと灯りを灯し、店主の大きな客引きの声や客の笑い声も相まって、初めてこの地に訪れた人はあまりの浮世離れした光景に、神隠しにでもあったのではないかと疑うほどだ。
怜も例外ではなく、年頃の青年よりも疎い性分のせいで、花街に入ってからは顔が強張り、何も言葉を発せず、琥珀の腕を掴んで決して離さなかった。しかし、視線だけは忙しなくあちこち動いていて、まるで何かを探しているようだった。
大通りは提灯を惜しみなく使い、夜とも思えないほど明るかった。酒や料理の豪華な香りがあちこちから漂い、普段嗅いだことのないよう甘い香もたかれていた。客層は様々で、見物だけに訪れた冷やかしの庶民もいれば、高級な装いをした商人、また役人までいた。普段は難しい顔をして仕事をしているような男も、人間の欲を具現化したこの地では一時の快楽に溺れ、虚しい現実を忘れることが出来るのだ。
琥珀の行きつけはもちろんこの花街の中で最高級の店だ。建物自体は2階建てで他の店と変わらないが、2階の軒先にはずらっと大量の提灯が吊るされ、煌びやかさを演出するには十分すぎるくらいだった。また、建物自体の新しさや、細やかな建築技巧はこの店が儲かっている証拠である。琥珀はいつものことなので、何の気なしに入っていくが、その琥珀に連れられた怜や、ほかの店に仕方なく入っていく客たちは、年端もいかぬ若造がこの街、いやこの国で最も敷居の高い高級店に入っていくものだから、いったいどこの豪商の息子だ、とヒソヒソ話をしていた。彼らはまさかこの青年がこの国の王子だとは夢にも思わないのだろう。
「よっ!」
店に入るなり琥珀はあまりにも軽い挨拶をした。くるりと振り返った禿の少女は琥珀の顔を見るなり「あっ!」と年相応の可愛らしい笑顔を見せて、奥にいる女店主の爛さんを呼びに行った。あまりにも常連過ぎて、店の者全員が琥珀の顔を覚えてしまったのだ。
その知らせを聞いた爛さんはドタドタと大きな足音を立ててすぐに出てきた。
「珀くんッ!やぁっと来てくれたのかい!もう彼女らをなだめるのは限界だと思っていたんだよ、あ~良かった良かった!ほら、そんなところにいないで、あがってあがって」
「ごめんよ~、いや、あれからさ、色々あったんよ俺もさ。でもお詫びにと言っては何だけど、今日はとびきりの美形客を一緒に連れてきたからさ、ほら」
と言って琥珀は後ろにへばりついている怜をぐいっと前に出した。
珍しく抵抗しなかったため、勢いよく引かれた怜は転びそうになった。『あ、やべ』と琥珀が思うよりも先に爛さんがぱっと怜を支えた。
「す、すみませんッ!」
怜はまたもや大失態を犯してしまったと赤面し、爛さんからばっと離れた。
青年とは思えないほど細いその体に驚き、自らの手を見ていた爛さんがぱっと顔を上げると、そこには可憐な一輪の花が頬を染めて立っていた。
目を大きく見開いた爛さんは勢いよく琥珀を掴み、自らの居場所である内所に連れて行った。
「ちょっと珀くんッ!何という美人を連れてきたんだいッ!!今すぐにでも勧誘したいぐらいなのだけど!あの子はどこの家の子かい?良家の子なのかい!?」
爛さんは混乱しているのか興奮しているのかいつもに増して早口で鼻息も荒く、せっかくの美人が台無しだった。
琥珀ははーッと溜息をついた。
「だから、爛さん。聞いてた俺の話?客だってば!お・と・こ!」
「分かっているさッ!それでも良いから手に入れたいんだよッ!」
「何を言ってるんだッ!!」
奥でぎゃあぎゃあと何か言い合っているのを戸惑った目で怜は見ていた。だが、ちらりと隣でにこにこ笑っている禿の少女を見て、彼女は何歳なのだろうかと思った。
少女は見つめられていることに気付いて怜の方を向いた。まだ幼い少女でも、男性に見つめられていたと気付いたらもじもじして丸い頬を赤く染めた。
「………お兄さん、どうされましたか?」
おぼつかない可愛い敬語で話す姿に、怜はあるはずのない母性がうずくのを感じた。
「君、いくつなの?」
「今年で7歳になりました!」
「なッ…7歳!?」
少女は怜の驚く様子に「?」と首をかしげていた。
怜は遊郭がどんな場所なのか大方知っているのだが、こんな場所に7歳の子どもがいるとは思いもよらず、本人を前にして驚きが隠せなかった。
なぜこんなところにいるのか、と言おうとしたが、明るい事情であるはずがないと我に帰って口を詰むんだ。
そうしているうちに奥からやれやれといった様子の琥珀と心底不服そうに顔をふくれさせた爛さんが出てきた。
「怜、今日は広い座敷で酒宴を開くことにしよう。今日は女の子たち全員が俺と会えるようにしてくれってさ。」
「今日はって…。逆に珀はいつもどうしてるのです?」
琥珀はニンマリと笑ってハハハっと笑った。
「ココでそんなことを聞くなんて野暮な人だな君は!ココがどんな場所か知ってるくせに〜!」
「なッあなたって人は………いや、良いです。なんでもないです。」
「そうと決まれば2階にいざ出陣〜ッ!」
「花街に行く」と話をしてからの怜はというと、何か言いたげな、でも上手くそれが言葉にできないような複雑な面持ちをしているが、久しぶりの妓楼に浮かれていた琥珀はそんな些細な変化に気付くはずもなかった。




