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春風

 穏やかな日差しが、部屋まで届いている。暖かい。遠くには、綿飴の様な雲が、のんびりと浮いている。待ち焦がれていた春が来た。外に出ても寒くない。ポケットに手を突っ込んでも、暑くない。歩いていれば、鼻歌でも歌いたくなる。そんな陽気である。

 表を一人で歩くときに、カメラを持って行くと都合が良い。海以外なら立ち止まって、しばし綺麗な景色を眺めるのも許される。そんな時の為に買ったのが、この『ライカ』である。エルマリート越しにみる景色は、素晴らしいの一言。しかし、買って直ぐに出番がなくなっていた。今日持ち出したのは、久しぶりである。

 散歩の為だけに買ったとしたら、ちょっと高い買い物かもしれない。でも、これは一種の免罪符。首から提げてウロウロしていても「カメラマンなんだな」で、終わる。戦場でも大丈夫か? それは知らぬ。そもそも戦場だったら、ズミクロンじゃないかな。あぁ、二台ぶら下げて置けば良い。


 住宅地にある公園は、桜が満開になっていた。上着のポケットに手を突っ込んだまま、晴れた渡った空と共に見上げると、まるで、時間が止まったかのように感じられる。快晴無風。桜の花びらは、少しも揺れることなく、青空の下にある。

 近辺の公園に、桜が植えられているのは知っていた。きっと、春になったら綺麗だろうなと、思っていたが、その予想を超えて、極楽浄土に来てしまったかの様である。テレビで流れる桜の名所は、賑やかに人が集っているが、住宅地の公園には、人がいない。

 桜の花びらを通り抜けた春の日差しが、土に花の影絵を作っている。そこに時折、本物の花びらがゆらりゆらりと落ちて来て、色を添えた。気の早い花が力尽きたのだろうか。風もないのに落ちて来る花びらは、風に吹かれることもなく、淡い色の絨毯を造りつつあった。

 背中に暖かな光を感じながら桜を眺めていると、子供が遊びに来た。こんな日に、人物を撮影する気は起きない。とりあえず、桜の写真を撮ることにする。


 良く見ると、桜の木に小鳥が遊ぶ。梅の花に添えられた小鳥は絵になる。しかし、桜の木に来た小鳥は、撮影不可能だ。ファインダーを覗くと、小鳥は何処にいるのか判らないくらい、さらに小さくなっている。当然だ。ふと思い出して、デジカメを取り出すと、望遠にして一枚撮影した。

 間の抜けた音がして、レンズが本体から出入りする。どうも丁度良い位置に合わせるのが苦手だ。手で合わせたい。液晶画面を覗き込むと、思ったより桜が白く写っている。空もイメージとは違う。そこで、メニューから『偏光フィルター』を選択すると、空が青くなり、桜がピンク色になる。素晴らしい。デジタル技術万歳。

 しかし、光の具合を見て、こうはならないというのは判る。射光で偏光フィルターを使用すれば、色は一様にはならないはずだ。

「所詮、お絵かきの道具に過ぎないな」

 一人頷いて、ポケットにしまう。首にぶら下げたライカで、もう一度撮り直す。順光の位置で、良いアングルを探して撮影。

 絵に描かれた桜は大抵ピンク色だが、ソメイヨシノは意外と白っぽい。撮影するときに夢中になっていると、仕上がりでガッカリすることになる。


 写真は、時間と空間を切り取る芸術である。誰かがそんなことを言っていた。しかし、この言葉には続きがある。それは空間の再生だ。切り取られて残された空間から、如何に広がりを感じられるか。それが作者の意図と言っても良い。

 最初は限られた四角に収まるよう、構図を考える。余計な部分を省き、漫然とした喜怒哀楽から、より、研ぎ澄ませた感動に進化させる。そして、次に意図を織り込む。

 白い土壁と屋根瓦。そして一本の桜の木。柔らかな光が照らしているとする。そのままシャッターを押せば、美しい日本の風景ということになるだろう。邪魔な電柱や、マンホールを避けて撮影出来れば、まるで、江戸時代の一コマと見られるかもしれない。そして写真に写っていない部分を、観る人にどう補わせるか。これが、良い写真の条件だろう。

 もしその写真に、洋服の子供が走るシーンが写りこめば、元気のある古い町並みを表すことが出来る。花見の道具を持った家族が通ればのどかな一日。行列なら近くに大きな何かがある活気のある町。目線の向きでも、表現は変わるだろう。

 目線のない自動車でも、子供が乗っている乗用車なら春の躍動感を、トラックなら、寂しい現代を表すことになるかもしれない。車種にもよるし、年代にもよるだろう。

 現代を捉えた一枚の写真が、百年後に哀愁を感じる物になるかもしれない。

 しかし、世に溢れる写真の数々。その殆どは、誰に見られることもなく、時空の渦に消えて行く。


 区画整理された住宅地を離れ、少し田んぼの道を歩く。目的地は近くのお寺。ここにも、大きな桜の木がある。初めて来たときは、少し汗ばむような、とても天気の良い日だった。爽やかな風を感じ、力強く濃い緑が、夏の到来を告げる雲に向かって、丸く穏やかに伸びる。そんな風景を思い出す。これは、花が咲いたら綺麗だろうなぁと、思っていた。

 春を待たずに冬にも来たが、その時は、落ち葉が池に沈み、地上は冬、池の底には秋があった。池の白鳥、つがいの二羽が静かにしてくれていれば、両方の季節を味わうことが出来るのに。邪魔するのが悪くて押し黙り、縁側に座る。柱にもたれながら、いつまでも静かに待つ。気が付けば、夕日。


 普段は誰もいない境内だが、大勢いる桜見物客向けに、抹茶を出している。今週だけだろう。ありがたく頂きながら、庭を眺むる。

 丸く大きく伸びた桜の枝が池に映り、見事な春を描いていた。絵画と違う所は、時折花びらが、右に左に揺れながら落ちてくる点。水面に落ちた花びらは、小さな輪を作って留まり、近くに来た花びらと重なるものもいれば、ひとつ、ふわふわと浮かんでいるものもいる。そして、やがて沈みゆく。池に映る花びらの下、既に冷たくなった花びらも、垣間見える。

 今はまだ水中花のごとく、鮮やかな色を魅せていても、やがてそれは、色あせて土に還る。

 心静かにシャッターを押す。芸術は、気持ちの高揚が原動力である。しかし写真の場合、興奮する心臓の鼓動、荒くなる息さえ抑え、静止する必要がある。興奮を伝えるにしても、撮影する人は、冷静でなければならない。もし冷静になれないとしたら、それは、そのまま眺めていれば良い。言葉で表現すれば良い。写真で伝える必要は、ない。

 ここで一首ひねってみようと思ったが、なかなか思った様な歌は出てこない。やはり、歌は高尚な趣味である。それでも、風流を気取ってみようと、なお頑張っていると、賑やかな一団が来る。


 春になり

 桜が咲いて

 綺麗だな


 集中が途切れると、良い歌は出来ないものである。こんなことなら『短歌』の本でも読んでおけば良かった。そんな後悔もしながら、寺を後にする。


 川べりに出ると、住宅街の中に桜色が点々と見える。のどかな春。こんな日は時間が止まっていて、何も起きない、ような気が、する。

 風を感じる。土手のサイクリングロードまで桜がちらほらとあって、川から吹き上げる風に吹かれ、一気に舞い上がった。春の良き風景なり。風は少し冷たかったが、どうということもない。少し肩をすくめるだけでやり過ごす。


 運悪く土手の下にある、道路に落ちてしまった花びら。踏まないようにSlowtimeへ入ろうとする。しかし、いつもと何か違う。

 入り口に『自動ドア』という真新しいステッカーが張ってある。そんなはずはないと思いつつも、入り口で、ドアが開くのを待っていた。開かない。やはり、ドアは手動だ。ガラス越しに、カウンターからニヤニヤするマスターと目が合う。苦笑いしてドアを開ける。

「いらっしゃーい」

 カランカランという、のんびりとした響きの向こう側、春らしく間延びした声で、マスターが出迎える。店には誰もいない。話し相手が欲しかったのか、水をカウンターに置いたので、その席に座った。

「自動ドアじゃないんですか?」

 苦情を申し上げる。嫌味と受け取ってもらっても構わない。

「えへへ。今日は何の日でしょう?」

 マスターは悪戯っぽく笑う。ピンと来て、直ぐに答える。

「エイプリールフールですねぇ」

 人差し指をマスターに向けながら、槍ヶ岳に座る。

「はぁい。正解でーす」

 注文もしていないコーヒーを淹れ始める。正解した賞品ではあるまい。

「おっかしいなぁ、とは思ったんですけどね。やられましたなぁ」

 マスターはコーヒーから目を逸らし、こちらを見て笑っている。

「今朝からね、結構引っかかってますよ。でも、常連さんに通じるとはー、思いませんでしたねっ」

 嬉しそうに言ってから、コーヒーに視線を戻す。

「いや、引っかかるというか、それだとお客さんが来ないのでは?」

 がらんとした店内を見て指摘した。マスターは頷いて、顔をあげた。

「そうなんですよ。何人か、帰ってしまいました」

 笑いながら言うマスターは商売っ気がない。またコーヒーに目を落とす。こちらは呆れて渋い顔になり、落ちて行くコーヒーを眺めながら助言する。

「今度は、CLOSEにしておいたらどうですか?」

 コーヒーにお湯を注ぐのを止めた。そして、急に顔をあげる。

「それ、イイですね!」

 やばい。この店、潰れちゃうかもしれない。


「桜が綺麗ですね」

「よい陽気ですね」

 定型句の挨拶を交わす。しかし、定型句に相応しい風景が目の前に広がっている。お互いの目が、細く半円を描いていた。

「今日、初来日の外人さんは、日本は美しいと思うでしょうねぇ」

「そうですねぇ。でも、大勢の酔っ払いを見たら、それ以上にびっくりしますよねぇ」

「あぁ、それはありますねぇ」

 ここの所、酒を飲んでいなかったので忘れていた。桜の木の下で飲む酒は楽しい。ちょっと寒い時もあるけれど、時間を忘れることが出来る。

「あ、今日はライカなんですね」

 マスターが指さしていた。急に何かと思って、思わず下を見る。

「あぁこれですか。久しぶりに出してみました」

 首からぶら下げていたライカをカウンターに置く。大して重さも感じないので、すっかり忘れていた。

「良いの撮れましたか?」

「えぇ。その先のお寺に行って来ましてね。三、四枚押しました」

「そうですか。それは良かったですね。私も、友達から貰ったカメラがありましてね、行こうと思っていたんですよ」

「あぁ、それこそCLOSEにして行って来れば?」

 上高地の方を指さす。マスターも笑っている。

「じゃぁ、店番お願いしますね」

 本気かっ。冗談じゃない。奥へカメラを取りに行こうとする。

「えー、勘弁して下さいよー」

 マスターは笑いながら、カウンターに戻って来た。

「そう言えば、前に野球撮ってましたよね」

 店番は嫌なので、話題を変える。

「はい。あれは結構難しいですね。友達に話したら、無理だろうって笑ってました」

「そうでしょう。なかなかのチャレンジャーですね」

 マスターは両手を腰にあてる。

「折角良いカメラを貰ったので、撮影したいですよねぇ」

 良い心がけだ。思わず頷く。

「そう。カメラは、買った後の方がお金が掛かるんですよ」

「なるほど。そうかもしれません」

「一番お金が掛かるのは『旅費』ですねぇ」

「あはは。旅行好きなら一石二鳥ですね」

 旅行か。ここ暫く行っていない。温泉もだ。

「撮影目的で出かけると、荷物が重くて嫌ですよね」

 足を引っかけて、体を後ろに反らす。うんうんと頷きながらマスターが言う。

「撮影旅行ですかぁ。良いですねぇ。私も、カメラをくれた友達と行きましたが、結構大変ですよねぇ」

 ポタポタと次のコーヒーが落ちている。少し下から見ると、電球の光がコーヒーとクロスして光った。不意にマスターが、後ろに振り返る。

「この写真、開店祝いだって言って、その友達から貰ったんですよ」

 カウンターの後にある、大きな写真を指差して言う。写真を見た。

「常念から見た、穂高ですね」

「お! 見て判りますか。有名な所なんですね!」

「ええ。北アルプスの絶景ポイントですから」

「そうなんですかぁ。いやね、友達と行ったときは雲っていましてね。何も見えなかったんですよ」

 残念そうに笑う。しかし、そう言うこともあるだろう。

「それは残念でしたね。お友達も残念がっていたでしょう」

「はい。もう身振り手振りで雲の中に山を描いて、山の名前を言いながら説明してくれたんですけど、なにやらさっぱりで」

 登った時を思い出してか、マスターが苦笑いした。きっとそれで写真を贈ってくれたのだろう。なかなか良い友人である。

「山の名前は、歩かないと覚えられないですよね」

「それは言えるかも!」

 写真の山と、カウンターの椅子について解説した。そして、ここは槍ヶ岳であると。窓際のテーブルを指差してそれぞれ山の名前を言った。奥のテーブルやピアノについても名前を示すと、マスターは嬉しそうに頷いた。

「へー、山、登るんですか?」

 そうは見えないのか、不思議そうに聞いて来る。

「ええ、まぁ」

 苦笑いするしかない。マスターは頷く。

「やっぱり山は良いですか? 友達も良いよって、言うんですけどね」

 そう言われると、真顔になって否定しておくしかない。

「いや、あまりお奨めしませんね。登るのは、とても辛いですよ?」

「そうですよねー。とても大変でした」

 マスターも思い出したのか、同調する。雲中の登攀はきつかったろう。

「良いと言えるのは、帰って来てから、ですね」

 一般論を言っておく。

「なるほど。あ! 『ライカ』を持って、山の写真を撮るんですか?」

「いえ、山には『ニコン』を持って……」

 うっかり『ニコン』と言ったからだろうか。マスターが、まだ、何か言っていたのだが、不意に言葉が詰まり、周りが見えなくなっていた。

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