疲労
Slowtimeの窓際は、居心地が良い。
ぼんやりと、外を眺めるのも良し。下手なピアノを、聴くも良し。壁の写真を、観るも良し。
一番端の席は、壁によりかかってブラブラするのに丁度良い。何故かここの席は、壊れた三本足の椅子なので、座ったことがなかった。座ってみると、当たり前だが、不安定であること、この上ない。しかしそれが、逆に良かった。
テーブルには、色々と見たくないことが書いてある『ノート』があった。ここ何日か、ずっとイライラしている。店に来た時、ふと、一番奥の、この席に座った。
すると、呼んでもいないのにマスターが来ると、頼んでもいないコーヒーを置いて、カウンターに戻った。それからマスターは、声も掛けて来ない。『時間潰しに最適なミートスパ』でもオーダーすれば、良かったのかもしれないが、それすら、する気がなかった。
時々赤ペンを親指の上で回しては、何か書こうとして、テーブルの上に置く。いつもの通り、ポケットにはデジカメが入っている。しかし、それを出すことすら忘れていた。考えなければいけない様な、でも、考えるのが嫌な様な、考えても無駄なのでは、でも、考えなければいけない様な。
一杯目のコーヒーが、冷たくなったまま残っている。
いまさら砂糖を入れても溶けないだろうな。そんなことを考える方が『建設的』とさえ、思えて来る。コーヒーと窓の外を、かわるがわる見ていた。
頭の中は、ずっと裁判のことで、一杯だった。ノートは、各裁判官の論点、意見が、びっしりと書いてある。もちろん、自分のも書いてあった。思いつきで発言したことが、前回の発言と食い違いっていないか、確認する為だ。何となく裁判管同士のささいな言い争いや、言葉尻を指摘することが、多くなっていた。
どの裁判官も、決して言わない一言。それは「早く終わらせたい」なのかもしれない。
夕日が目に入る様になって、だいぶ、時間が経過していることに気が付く。色々思いを巡らせてはいたが、解決策はない。
夕日の眩しさを堪え、眺め続けると、だいぶ慣れて、そのまま見続けることが出来る様になった。しかし、向こうの土手まで、だいぶ下がって来た夕日は、最初はトラックの屋根に、やがて、乗用車の陰になると、高速シャッターの様に点滅する。その度に、折角慣れた目に、眩しく夕日が映った。
扉のカウベルが鳴ったか、記憶にはないが、いきなり元気な歌謡曲が鳴り出した。びっくりしてスピーカーを見る。そして、マスターと目が合う。マスターはにっこり笑って、カウンターを出て奥へ消える。もう店には、誰もいなくなっていた。暫く一人の時間を楽しむ。
やがてマスターが、奥からマイクスタンドを二本持って来る。そんな物があるとは、知らなかった。マイクから伸びたコードは、奥へ伸びている。きっとその先に、何か秘密の『機械』があるのだろう。マスターは、ピアノの蓋をちょっと開け、そこにマイクの一本を突っ込む。それを見て、横にある、窓のよろい戸を閉めた。気が付くと、それが最後のよろい戸だった。
そうこうする内に、元気な歌謡曲はフィナーレを迎え、店内は静かになった。マスターの、セッティングをする足音だけが残る店内。もう一本のマイクを、椅子の近所に置き、何やら歌い出す。そして、五秒程歌うと席を立ち、奥へ消えた。それを、二回繰り返すとコホンと咳払い。
常連客として『知らん振り』をするため、ノートを手に取って、パラパラと捲る。
マスターは楽譜をセットすると、前奏の、最初の和音を出す。それを「あーあー」と言いながら半音づつ下げていき、五回目で止めた。
ゆっくりと前奏が流れ、マスターの弾き語りが始まった。今までに聞いたことがない声に『本気モード』だと悟った。いや、マイクを置いている時点で、本気だろう。
そんな泣き顔しないで
またすぐあえるから
君がそんな顔してると
僕まで泣けてくる
ほら笑って涙を拭いて
いつか見せた笑顔の
とっておきのアンコール
出会いと別れは二つで一組
君と出会ったあの日から
既に判っていたこと
そんなわがまま言わないで
またすぐあえるから
君がどんなことを言っても
僕は振り向けないよ
ほら笑って顔上げて
いつか言ったジョークの
とっておきのアンコール
出会いと別れは二つで一組
君と出会ったあの日から
既に判っていたこと
出会いと別れは二つで一組
君と出会ったあの時から
既に判っていたこと
マスターはゆっくりとフィニッシュすると、そっと立ち上がって奥に消えた。そして、すぐに戻って来て、マイクを片付ける。そんな様子を見ながら、冷え切ったコーヒーを一気に飲みして、席を立つ。
カップをカウンターに持って行って、レジの所に立っていると、マスターがカウンターに入って来る。
「どうもありがとうございました」
そう言って、お金を払う。
「お疲れ様でしたぁ」
マスターは、いつもより口角を上げて、にこやかにそう言った。それは、メモに取る程の『間違い』ではない。
「曲、完成ですか?」
「はい。何とか形になりました。どうでした?」
折角知らんぷりしていたのに、そう聞かれる。手元の楽譜を見ると、悪戦苦闘した様子が見て取れる。タイトルは『約束』だった。
「何となく恋愛の結末の様な、それでいて違うような、明るく歌うから、そんな感じですね」
にっこり笑って、感想を答える。マスターも頷く。
「そうなんですよ。人は、色んな別れを経験するじゃないですか。でも、悲しい別れであったとしても、きちんとお別れをして、明るく別れたいですよね。そんな気持ちを込めました」
「人それぞれに思い出してもらう『別れのシーン』ということ、ですね」
「そうです」
別れの瞬間には、思い当たるものがある。
暫し思い出す。白、赤、青、黒。瞬間的に切り替わった、色だけを。
「でも、言葉を交わすことなく別れてしまった人には、当てはまりませんね」
少し間を置いてそう言うと、マスターは、笑顔から一瞬真剣な顔になり、そして、ゆるやかにまた笑顔になって、言う。
「肉声で言葉を交わすことだけが、別れの挨拶では、ありませんよ」
言葉を選んで、ゆっくりと言ってくれた。目を瞑って、頷く。
別れの挨拶を、これから探そうと、思った。




