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常識

 Slowtimeと書かれた喫茶店で『槍ヶ岳』に座り、景色を楽しむ。

 カウンターの奥に、北アルプス常念岳から見た『穂高岳』の写真が飾ってある。大きく引き伸ばされたその写真は、ごつごつとした岩の塊と鋭い嶺が続き、大迫力だ。常念岳に登るのは、この景色を見るためと言っても、過言ではない。きっと、マスターも山が好きなのだろう。

 そこで、写真の山と同じ様に、四つと二つでL字に曲がっている六つのカウンター席に、左から『前穂』『奥穂』『涸沢岳』『北穂』、角を曲がって『南岳』『槍ヶ岳』と、勝手に名前を付ける。北穂と南岳の間にあるL字の角は『大キレット』と命名した。奥穂と涸沢岳の間にマスターが立っていたので、そこを『穂高岳山荘』とする。きっと眺めが良いだろう。

 そうすると、今座っている席は『槍ヶ岳』ということになる。

 思い出す。槍ヶ岳山頂でコーヒーをすすりながら夕日を見る。気分が良い。槍ヶ岳山頂からは、北アルプスの大パノラマが、三百六十度楽しめる。写真も撮り放題である。そう思いながら、警察から帰って来たデジカメを操作していた。あ、一つ言い忘れた。混雑時、長居するとひんしゅくを買う。

 不意に、カランカランと音がして『上高地』と名付けた扉が開く。上高地からやって来た人は真っ直ぐカウンターに向かうと、椅子の足元にある『紀美子平』にささっと足を掛け、そのまま『前穂』に座った。ガレ場を進み『涸沢カール』が見える所に陣取ったのだろう。

「エスプレッソ・ダブル」

 渋い声で注文をして、お金を置く。

「はい。毎度」

 穂高岳山荘から、マスターの手がにゅっと伸びて、エスプレッソ・ダブルが配達される。そして帰りにお金を回収。一般人お断りの西穂方面にあるレジにしまった。念のため言っておくが、穂高岳山荘から前穂まで配達はしていない。そんなエスプレッソ・ダブルをぐいっと飲み干して、さっと『上高地』へ降りて行く。

 それにしても日帰り前穂往復とは健脚。時計を見ると昼ちょっと前。帰りのバスにはまだ十分時間がある。そう思ってにやりと笑う。傍から見て、この笑みの本当の理由について、気が付く者はいなかっただろう。


 春の日差しが降り注ぐ昼過ぎの北アルプスは、割と空いていた。

 谷と見立てた通路を挟んで反対側には、上高地から見て『蝶ヶ岳』『常念岳』『大天井岳』『燕岳』と、これまた勝手に名付けた四つのテーブル席があり、一番端の燕岳には、写真をじっと見つめる人がポツンと座っていた。窓辺に飾られている花はコマクサではなかったが、なかなか綺麗である。うららかな春の日差しを浴びていた。

 目を店の奥に向けると、槍ヶ岳から西鎌尾根を下る途中に『硫黄岳』があり、登山コースはないが、そこからマスターが手を拭きながら出て来る。その奥には、洒落た植木や小物を置いた大きなテーブル。『雲ノ平』と命名した席があり、その近辺はいつも賑やかな憩いの場となっていた。一番奥には傾いた『高天原山荘』を思い浮かべる、古いピアノが置いてある。ピカピカに磨かれているのも同じである。違うのは、そう、温泉ではないことか。


 店内にはいつもクラッシックが流れているのだが、今日は高天原のピアノがギクシャクとしつつも、暖かい音を響かせていた。毎週この日は、近所のピアノ教室が公開レッスンをしている。雲ノ平から高天原をうらやましそうに眺める人達が四、五人いた。やはり高天原に行くには、時間と体力に余裕がないと無理なのだろう。

 ゆるゆると流れるメロディーが『喫茶・北アルプス』に木霊していた。いや、店名は『Slowtime』である。そこまで勝手に変えては申し訳ない。ちなみにSlow time は夏時間より遅いという意味で『標準時間』なのだが、よく見るとSlowのwとtimeのtがくっついている。造語であろう。英語は難しいので、気にしないことにする。


 店内に話を戻すと、西穂の向うには『焼岳』というコンロがあり、窓の外には『乗鞍高原』という名の、駐車場が見える。そこは、最近マイカー規制になったはずだが、赤いMiniが堂々と乗り入れて来る。ちっさいから良いのかと、一瞬思ったのだが、いやいや、駐車場だし、他の車でも別に良い。

 車から出て来た人はとても上機嫌であることが判った。手を大きく振ったうえに、手首のスナップを利かせて車のドアを閉め、フォロースルーまで完璧だった。そして、ステップを踏みながら歩いて来る。

 花壇の上に飛び乗って、レンガの上をクルクル回りながら近づいて来たので、春の日差しと影が、店内では踊っている様に見える。それに気がついたマスターは、コーヒーカップを取り出す。そして、呼応するかの様に、気取った手つきでコーヒーを注ぐと、此処に来ますと判っている様に『前穂』に置く。

 上高地の鐘の音がカランカランと響くと、その人は吸い込まれるかのように前穂に登り、そして座った。嬉しそうに話すその手には、一枚のCDがある。

 人の話を聞くつもりはなかった。後ろでゆるゆるとしたピアノレッスンが終わり、拍手が鳴り響いていても聞こえる程、元気な声では仕方ない。

「マスター見て見て! 私のアルバム!」

 前穂の人は自分が写ったジャケットを両手で顔の前に出すと、左右に振ってから差し出す。マスターはにっこり笑って『おめでとう』と言い、差し出されたCDを受け取った。

「まだ温かいね」

「プレスしたてですから」

 マスターの冗談も、さらりとかわす余裕。Uの字を回転させながら目と口を描いた様な顔。漫画の笑顔も、ここまで得意満面にはなるまい。

「すごいねぇ」

 マスターは感心しきりである。のんびりした口調であるが。

「それ、あげる」

 前穂の人も、得意気である。対照的にとても早口だ。

「いいのぉ?」

 マスターが身を乗り出す。とても貴重なものを受け取った、そんな顔になる。

「どうぞ。どうぞ」

 前穂の人はそんなマスターを見て、右手を何度も前後させ、楽しそうに勧めている。

「ありがとぅ」

 前穂の人の後ろを、団体さんが上高地に向かって列を作る。まるでバス待ちのようだ。マスターは一度CDを置いて会計をすると、再び戻ってきてCDを手に取った。

「へぇ、良く出来てるじゃなぁい」

 表を見たり、裏を見たりして、しきりに感心している。

「でっしょー」

 前穂の人は嬉しそうに言う。人差し指をマスタに向けた。

「写真も、綺麗だねぇ」

「でしょでしょー」

 更に何か言いたそうなマスターを尻目に、前穂の人がキョロキョロと店内を見渡した。目が合って、ちょっとドキッとした。

「ねぇ、ちょっとCD掛けてよ」

 客が少ないのを確認したのか、普段クラッシックしか流さない店内に、自分の曲を流すよう、要求した。マスターも店内を見渡し、こちらに目で許可を求めて来たので、うんうんと頷いた。

「しょうがないなぁ。ちょっとだけねぇ」

 そう言いながら、マスターはビニールを外してCDを取り出すと、電球に透かしてみせた。前穂の人が手を横に振ったので、今度は耳元に持っていってクルクル回す。

「うん。良い曲だぁ」

 マスターは言い切った。

「違う違う」

 前穂の人は連呼してマスターの腕を取り、揺すりながら槍ヶ岳上空を指差した。槍ヶ岳山頂、穂先の祠にはCDプレイヤーがあったようだ。知らなかった。

 マスターが踏み台に乗って手を伸ばすと、極々小さく鳴っていたモーツァルトがぷっつりと切れ、本当に静かな春になった。そして、くるくる回しながらCDをプレイヤーにセットする。

 どこからともなく登場したリモコンを取り出し、再生ボタンを押すと『シャカシャカ』という音がスピーカーから流れ出し、春の店内に響き始める。しかし、十秒程で二曲目になった。その曲は、さっきよりも短い五秒程で終わり、三曲目は、十五秒程の前奏後『アー』と叫んで終わった。結局全部で何曲あったのか判らなくなってしまったが、アルバムを聞き終わるのに、三分もかからなかっただろう。

「良いアルバムだ」

 マスターは、感心した様に大きく頷いてそう言ったが、前穂の人はそれを本気にはしない。

「ちゃんと一曲掛けて!」

 そう言いながら、奥穂高岳山荘めがけて手を伸ばし、リモコンを奪いにかかる。マスターは、リモコンを高く掲げて譲らない。代わりに、CDケースの方を渡す。

「お奨めは、どれよぉ?」

 さぁ言えと、挑戦する様に聞き返した。

 前穂の人は、リモコンを獲るのを諦めたのか、手を引っ込めると、六曲目の何とかという曲を指さす。聞いたことのない曲名だ。

「ワンフレーズだけねぇ」

 マスターはそう言ってリモコンを操作すると、お奨めの六番目の曲をかける。やはり、聞いたことのない曲だった。


 曲がかかると、マスターはリモコンを置いてコーヒーを淹れ始めた。すると前穂の人はすかさずリモコンを奪取し、前穂の横に立てる。音に反応してマスターはそれをちらっと見たが、淹れ終わったコーヒーを持って、こちらを見たので、空のコップを持ち上げて振ると、微笑んで会釈した。

 コーヒーが入るまで、前穂の人はCDのジャケットを指差し、いかに製作が大変だったかをマスターに語る。マスターはうんうんと頷きながら、コーヒーとジャケットを交互に見るしかない。

 話を聞いて、アルバムを作るには膨大な時間と、手間がかかっていることが判った。しかし冷たい様だが、曲自体はそれほどでもない。話をしている間に八曲目。飽きたので、帰ることにする。


 今日、カメラ屋さんでプレスしてもらった金色のCD。マスターの真似をして、アルバムと同じ様にひとさし指でクルクル回しながら、電球にかざしてみる。すると、何本かの筋が見えた。なるほど、これが『デジタル』かと納得して鞄にしまい、お会計に立つ。

 八曲目からワーワーとリモコン争奪戦が始まっていたのだが、会計中は休戦となる。しかし、上高地へ帰るほんの短い間に戦局は大きく変わった。後で何が起きたのかは判らない。曲がブツリと切れた。一瞬の隙を突いて、マスターの勝利に終わった様である。はいはい。


 カランカランという『カウベル』の音がしたのと同時に、元気の良い歌謡曲がスタートした。「あ、懐かしい」と思った時には、もう扉が閉まり、音楽は聞こえなくなった。続きを歌うことは出来たが、曲名までは思い出せない。

 マスターがクラッシック以外のCDを掛けたことに驚いた。ふと、窓辺にあるプランターの向こう、春風に揺れる花の奥に、燕岳の人が驚いた様子で顔を上げているのが見える。まだ日が高い。しかし、夕日を映した様な、真っ赤な目でスピーカーを見つめている。

「この曲、元気になれるよね」

 そう呟いて、店を離れた。


 店から、そう離れてはいない所に住まいがある。家に帰ると金色のCDを取り出し、何処にしまうかを考えた。

 昨日デジカメで夕日を撮影すると、初めてフィルムエンドのマークが点灯した。そこで今日は、カメラ屋さんに行って来たのだ。今までに撮影した写真は三百枚程。中には大切な写真もある。下手に蓋を開けて、フィルムを感光させてしまったら台無しなので、そのまま店に持って行く。

「すみません、デジタルフィルム下さい」

 デジカメを差し出す。そして財布を探す。

「えっ?」

 聞こえなかったのだろうか。不思議な顔をして聞き返された。

「これに合う奴です」

 デジカメを指さす。そして、後ろの棚にあるフィルムの棚を見る。

「そういうのはありません」

 驚いてフィルム棚から店員の顔を見る。見たことのない、若い店員だ。

「ありゃ、古いカメラだからですか?」

 デジタル技術は進化が激しいって聞いたことがある。

「いえ、そういう訳ではありません。SDカードならありますよ?」

「いえ、現金で払います」

 財布を見せる。店員は驚く。いや、驚くなよ。

「え? いや、デジタルフィルムという物はありません」

「おや、でもデジタルテープはあるじゃないですか」

 冷静に、ビデオカメラのポップを指さす。

「そ、そうですね」

 店員に笑われた。デジタルフィルムが存在する可能性について一応の理解を示したものの、目はまだ笑っている。こちらは、困っているのだよ。

「とにかく、デジカメのフィルムがないようなので、何とかして下さい」

「写真を消せば、フィルムは要りませんよ?」

 肩幅より少し広く間を取って、両手をカウンターに付けて言った。自信を持ってそう言われ、コイツはとんでもない店員だと確信する。口には出さなかったが。お前は後で、店長に怒られろ。

「うーむ。では『現のみ』でお願いします」

 店員は、やはり不思議な顔をしている。

「プリントではないのですか?」

 首をかしげて聞き返す。思わずため息。

「いえ、現像だけで結構です」

 なんだ、この店員は『現像のみ』も知らんのか。仕方のない奴だ。

「判りました」

 本当に判ったのか? 怪しいものだ。しかし、手馴れた手つきでデジカメの蓋を開けようとするではないか! 馬鹿者!

「あっ! 巻き戻してないです!」

 慌ててそう言ったが、店員はニコニコして取り合わない。糞が。そのまま蓋を開け、小さなデジタルフィルムとおぼしき物体を、別の機械に入れる。そして、金色に輝くCDをセットすると、現像らしき操作を始めた。

「暫くお待ち下さい」

 馬鹿め。全部真っ黒だろうが。明日店長にぶっ飛ばされておけ。知らん。

「では、明日また来ます」

 フィルム一本といえど、三百枚以上の現像だ。時間がかかろう。そう思って立ち去ろうとすると、あわてた様子の店員が、カウンターを飛び出して来た。

「すぐ、出・来・ま・す・か・ら」

 両手を上下にパタパタと動かし、細かく言葉を区切りながらそう言い直す。腕を捉まれて、カウンターの前に引き戻される。店員は現像作業の続きにかかった。きっと、店長にぶん殴られるのが嫌だから、今日中に終わらせたいのだろう。機械とこちらをチラチラ見ている。

「このCDに焼いておきましたので、データは消して良いですか?」

 数分後、店員が尋ねて来た。CDはプレスだろうと思ったが、細かいことは気にしない。しかし、消す? だと?

「はい」

 この質問に選択の余地はないと悟る。勇気を振り絞って答える。店員は手馴れた操作でデジカメを操ると『全消去』を選択して迷わず押した。

「はいどうぞ」

 一丁上がりと聞こえた。こいつ、押しやがったと思いながら、その場でデジカメを操作すると、確かに全ての画像が消えている。あの車の画像も消えていた。あぁ、夕日よさようなら。思い出よさようなら。

「写真にしたい時は、このCDを持って来て頂ければ、いつでも焼き増しが出来ます」

 感傷に浸る間もない。そして、慰めにもならん。CDと店員を交互に見る。

「判りました」

 そう言ったが、実は余り判ってはいなかった。あんたね、これ『何番を何枚』って、どうやって指定するのさ。見えるのかい?


 そして今、金色のCDは手の平にある。鞄をこたつの横に置きながら考えた。見掛けはCDであるが、これはフィルムであろう。悩んだ挙句、音楽CDの棚ではなく、ちゃんとケースにしまった方が良いと帰結した。

 襖を開けると、カメラケースとフィルム棚がズラッと並んでいる。乱雑に林立する三脚を退けて、湿度三十%に保たれた防塵機能付きのフィルム専用棚へ保存しておけば良いだろう。カビが生えたら困る。そう思った。

 フィルム棚の端に、ふと初めて登った山の『リバーサル・フィルム』を見付けた。パラパラとめくると、青空の下、にこやかにスイカを食べる『合戦小屋』の写真と、雨降る『燕岳』山頂で、顔をしかめる写真に目が留まった。うん。山の天気は変わりやすいものだ。


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