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追憶(11)

 ワイパーを左右に振りながら、夜の高速道路を走っている。膝の上には、リュックがあった。いつか見た風景だと思って笑う。隣には、必死の形相で運転をする人がいた。

「眠たくなったら、寝てもいいよー」

 恐怖感もだいぶ慣れてきて、ウトウトしていた。頷いて眠ろうとした。

「死なばもろとも」

 小さく聞こえてきて、目が覚めた。横を見ると歯を見せ、にやっと笑っている。目は真剣だった。軽く「そうだねー」と返事をすると、ハンドルを二度握り直し、目を正面に向けたまま、何度も頷く。またウトウトする。


 冬山は北アルプスで、下から写真を撮ろうと思っていた。

「釜トンネルのツララ凄いんだよ」

「えーあれは怖いよ。それよりさ、私のとっておきの場所を教えてあげるから、そこへ行こうよ」

 そう言うと、準備よろしく国土地理院の地図を取り出すと、印を付ける。東北の、名もなき小ピークだった。

 普段から山のピークには興味がない。別に、山頂に行ったからといって、良い写真が撮れる訳ではないからだ。それを知っての、チョイスなのだろう。

「綺麗なとこなの?」

「うん。凄い綺麗だよ。保証するよ」

「へぇ、そうなんだ」

「有名な所だけが山じゃない。綺麗な景色は、自分の足で探すんだよ!」

 良いカメラマンになる素質あり。うんうん。詳細についてはまた秘密だった。


 寝ぼけ眼で、今朝のやりとりを思い出していると、車は高速道路を降りてガソリンスタンドに入った。

「さぁ、出番ですよ」

「え、何? 何? もう着いた?」

「違うよ。ガソリン入れてきて。あ、それと、チェーンも巻いてね」

 ハンドルを握ったまま、嬉しそうに言い放った。ちきしょう。やられた。ハートのキーホルダーの感触を確かめながら車を降りる。外は氷点下だったが、サイドミラーと睨めっこをしていれば、寒くなんかない。


 翌日は良い天気だった。テントを撤収してリュックにしまう。背中合わせに座ると、アイゼンを靴に装着した。いざ出発。背中に温もりを感じながら力を入れると、立ち上がる。

「『人』!」

「『入』!」

「ひとだよー」

「いりだよー」

 どちらの方角が上か議論になったが、ここは地図同様、北が上ではないかとの結論になった。そこで、コンパスにて確認すると、今のは『人』であることが判明する。こちらが先頭に立ち、西に向かって歩き出した。

「ちょっとまって」

「え? なに」

 いきなり止まった。忘れものだろうか。

「これ、着けないと」

 にっこり笑っている。

「え、ここから着けるの?」

 周りを見渡しても誰もいないが、恥ずかしいではないか。

「当然だよ。折角買ったんだから」

 暫くなだらかな林道なのだが、ザイルで二人は結ばれた。


 午後になって、高さの割りに急峻な尾根を登り続けていた。お互い冬山には慣れていたが、歩くペースは人それぞれである。大きな荷物を背負っていては辛かろう。しかし、仕方ない。雪もあまり取り付かない岩場を登って振り返ると、足跡を正確に辿りつつ、必死の形相で登って来るのが見える。ニコンを構えて撮影した。

「いいよいいよ。頑張ってるね」

 カシャンと良い音がした。

「ちょっと、何撮ってるの。今のはナシ」

「ナシって言ってもね」

 風景の一部として撮っているから、気にしないで欲しい。

「消して再撮影を要求します!」

「いや、デジカメじゃないんだから、消すのは無理!」

「じゃぁ、もう一枚撮ってね」

 岩に片足を掛けてポーズを取ると、サングラスを外してにっこり笑った。仕方なく、もう一枚撮影する。カシャンと音がして、残り一枚になっていた。

 山頂に着いたら、フィルムを交換しよう。このニコンにはフィルム二百枚用パトローネとか、そういうオプションは付けられない。三十六枚毎にフィルムを交換するしかない。こういう場所では面倒である。

 お互い吐く息が白い。ふざけてレンズに向かって、息を吹きかけるので困る。

「今日の夕飯はステーキですよ」

 どうも季節感がない。

「年越し蕎麦じゃないの?」

 まぁ、ステーキでも良いけど。

「夕日を見ながら、白ワインとステーキですよ」

「肉には、赤ワインじゃないの?」

 今頃気が付いたのか、お互いに苦笑い。

「いいの! 特別な白ワインなんだよ!」

 笑ってごまかす良い根性。

「そうなんだ。それはステーキな夕食だこと」

「……」

 寒かったのは雪のせいだ。全てが凍り付いていた。

「ザイル弛ませないでね。じゃぁ行こうか」

「OK。好きなペースで行っていいよ。コントロールはこっちでやるね」

 そう言ってザイルを引いた。腹が締まる。

「グエッグエッ。鵜ではありません」

「鵜は首。ほれほれ。行くがよいぞ」

 ニコニコしながら言う。まるで、手の平で踊らされている様だ。見た所、細い尾根が続いている。しかし二人は、ザイルで結ばれていたので、滑落する心配はなかった。後ろ手にザイルを持ち上げ、先に歩き始める。雪の上を歩くとザクザクと音がした。やがて後でも足音がして、付いて来ているのが判った。山頂はもうすぐだ。時間も余裕がある。何も慌てることはない。いつも冷静だったし、その時も冷静だった。

 後で不意に、大きな音がしたので振り向くと、赤いリュックが南の谷へ落ちる所だった。迷わず北の谷に飛ぶ。落ちる瞬間、風を感じたが、恐怖は感じない。二メートル程下に岩があって、そこにアイゼンが食い込む音がした。膝に少し、衝撃が来た。ザイルがピンとなって雪に食い込む。

 細い尾根で一人が滑落した場合、もう一人は反対の谷へ飛ぶ。そうしないと落下する体とリュックの重みを支えきれず、一緒に落下してしまう。反対側へ飛べば、自分の体重とリュックの重さで、丁度バランスが取れ、両方が落下するのを防ぐことが出来る。あとはお互いが、尾根を這い上がるだけだ。

「なにやってんだよ」

「ちょっと、つまずいちゃった」

 尾根に這い上がり、笑いながらそう会話するだけの、ちょっとしたアクシデントのはずだった。ロープを引っ張ると、意外な程、軽く引き寄せることが出来た。何が起きたか直ぐに理解する。切り立った南の谷を見ても、白いだけだった。自分の影だけが細い尾根を黒くしている。

 手繰り寄せても何もない。尾根の上は無音で、何も聞こえない。静かだ。ザイルの先を見ると、ざっくりと切れていた。赤い紐だけがすっと十五センチくらい伸びていて、その先は細い糸になって、その先は、確認出来ない。

 サングラスが曇って来たので、少し下に降ろしたが、よく見えなかった。雪の中に、隠れているのではないかと思ったが、足が動かなかった。

 ザイルを巻き取ると肩に乗せ、山頂に向かう。冷静だった。一人になってしまったので慎重に進み、山頂に着いた。そのまま黙ってテントを張り、黙ってお湯を沸かして、黙ってインスタントラーメンを食べた。

 教えてくれた通り、綺麗な夕日が海へ沈んで行くのが見えた。一面の銀世界が赤く染まり、青いはずの海もゆらゆらと揺れる赤い絨毯になっている。沈んで欲しくない。そのまま止まっていて欲しい。何故沈む。

 冷たくなったコンロをテントに放り込み、切れたザイルを、もう一度見る。叫んだ。何を叫んだかは、覚えていない。日本語だったかも、判らない。必要のなくなったザイルを、雪に叩きつけた。膝を雪に付け、ザイルを叩いた。何度も何度も叩いた。ザイルに罪はないが、八つ当たりをさせてもらった。

 手袋を外してポケットを探った。サプライズで用意していた書類を取り出すと、細かくちぎり、硬く丸めると、助走を付けて夕日に向かって投げた。強い西風に逆らって飛んで行ったが、吹き上げる強風で散り散りになり、空を舞った。手袋に着いた雪も、靴に着いた雪も、転がったヘルメットに着いた雪も、何もかもを真っ赤に染める夕日が、ゆっくりと海に沈むもうとしていた。

 紐で繋がった手袋が、顔に当たった所をさすりながらテントに入った。真っ暗になっては危険だから。冷静だった。広いテントの中、明日に備えて荷物を片付ける時間も惜しんで寝た。

 寝袋に入って泣いた。誰もいない山頂で、顔を隠して、泣いた。


 予定通り下山して、警察の厄介になった。何故か声が出なくなっていたので、滑落現場を指で示すと、二日ヘリコプターを飛ばしただけで、捜索は雪解けを待って行うことになった。

 車はエンジンキーがないので、レッカーで移動した。そのまま自動車屋さんへ持っていくと、売り払った。エンジンキーがないくらいで盗難車呼ばわりされたが、ふとナンバープレートの裏にスペアキーがあったのを思い出した。そこからスペアキーを取り出すと、我慢していた涙がまた溢れてきて、泣きながら自動車屋のおやじに渡した。今度は何も言われなかった。

 店のテーブルで書類にサインをしているとおやじがまた来て、今度は給油口のキーを渡すように言った。ポケットから給油口のキーを取り出すと、ポンと投げた。ハートのキーホルダーが付いたままだった。あっと思ったが、くるっと回ってポンとおやじの手のひらに飛び乗ると、そのまま見えなくなった。

 書類を書き終えて帰ろうとすると、後ろから「可愛いキーホルダー」なんて声がしたものだから、返してとも言えず、すれ違い様に顔を背けて自動車屋を出た。


 車だけでなく、マンションも、ボーナス三回分で買った指輪も売って現金を作り、捜索費用に充てた。時間がかかったが、カメラもレンズも、フィルムが入っていたニコンを除いて、全部売った。売りに行くとき、ライカが見当たらなかった。


 引越しの時、日記帳に手を伸ばすとトラップが仕掛けてあって、パチンと手に当たった。痛くて泣いた。殺されても良い覚悟で日記帳をめくろうとしたが、殺人者にしてはいけないと思って、やめた。いや、本当は、良く読めなかった。初めて会った日までは小遣帖の様な日記で、山から帰る日に「あやしい人にナンパされた」とあった。失礼な。毎日書かれていた様だが、二十五日は空白で、二十六日には「昨日プロポーズされた」と記してあった。言葉の採り様は色々である。最後の日だけ長く続いていて、天国にいるお父さんお母さんへの挨拶で終わっていた。

 そこまで行くと、もう何が書いてあるのかなんて、判らなくなっていた。一冊づつ、愛媛みかんの箱に入れていると、今年の日記帖があった。表紙に、自分と同じ苗字の名前が書いてあった。急いでめくったが、全部白紙だった。


 デジカメの奥に、ライカを見つけた。「カメラを売ってやる」と息巻いたのはこれだった。そんなことをする訳がないと思っていたので、気にもしていなかったし、ニコンの台数しか数えていなかったので、気が付かなかった。

 約束通り誕生日には、店で一番大きなケーキを買った。こたつの上に置いて、ロウソクを点けると、一人で歌った。ロウソクを吹き消す人がいない時は早い者勝ちだったけど、消すことが出来なくて、そのまま燃える炎を眺めていた。気が付いたら消えていて、帰って来た! なんて思ったけど、誰もいなかった。それでもケーキは、半分だけ残しておいた。


 新緑が綺麗な季節になって迎えに行くと、あっさりと見つかった。しかし、たった半年余りの歳月と、僅か二百メートルの距離は、人間を大きく変えるのに十分だった。少し離れて待機する様に言われ、警察が色々と確認した。その後に呼ばれて自分でも確認した。見つかってホッとした思いと、見つけなければどこかで生きているという思いと、迎えに行ってあげないと、泣いちゃうだろうなという思いが、交錯した。

 左足の側面にあるアイゼンに、ザイルが刺さっていて、丁度つま先までの長さしかなかった。こっちのザイルも、やっぱり赤い紐が一番長くなっていた。

 リュックからは、大きく曲がったフライパンと、割れたシャンパンの瓶が見えた。食料も体もなくなっていた。山の動物に見分けは付かないだろう。

 一応、救助用のタンカに乗せてくれた。固く握った手が下に落ちそうになったので、慌てて支えた。すると、ずっと手が乗っていたからか、雨合羽の綺麗な所が現れた。しかし、その下には黒く大きなシミがあった。警官が不思議がったので、シミの源流を辿ってみると、上着のポケットに辿りついた。

 そっと手を入れてみると固い物があって、取り出して見ると赤い万年筆だった。真っ二つに折れていた。一緒に白い紙も出てきて、広げてみると、それは婚姻届だった。あとは、自分がサインをすれば、良い状態になっていた。

「これと同じ物を、私も用意していたんですよ」

 そう言うと、笑い声が聞こえて来た様な気がした。

「こっちの婚姻届を提出するのよ! 心を込めて書いたのよ!」

「えー、そっちは記念にとっておけばいいじゃん!」

 どっちが用意した物を提出するのだ? 仲良く乾杯をした後、狭いテントで揉めている様子が手に取るように見えて、つい声を出して、笑った。とてもおかしかった。警官に、肩をポンポンと叩かれて泣いた。大きな水滴がボタボタ落ちて、白い紙に丸い跡が付いた。折り目の通り元に戻して自分のポケットにしまったが、何も言われなかった。


 天涯孤独と言っていたが、何処からともなく親戚が現れて、葬式は密葬になった。冷たくなじられたが、葬儀には参列させてもらえたし、棺桶も担がせてくれた。棺桶には黒いシミの付いた婚姻届に、青い万年筆でサインした物を花の代わりに入れた。それから、人の名前というものに興味がなくなった。

 生い立ちを明るく話しているのを思い出した。五歳の時、両親が飲酒運転に巻き込まれて亡くなり、それから施設で育ったと聞いた。


 セミの声が賑やかな暑い下界で、入道雲を眺めながらの納骨になった。小さなお墓には、三人目の真新しい名前と日付があって、その隣には二つ『四月一日』と刻まれていた。頭をかきむしって、膝を付いた。誕生日には、必ず逢いに来ると約束した。

 法事には呼ばれなかった。


 デジカメは操作方法がよく判らなかったが、「お気に入り」と記された所を押してみた。いつの間に撮られたのか、口を開けて寝ている所とか、だらしなくあくびをしている所とか、人には見せられない自分の姿があった。嬉しそうに鼻毛を抜く、ひげ面もあった。


「桜が散ったら、すぐ山のシーズンですね」

 マスターの声に、はっとして我に返る。やや傾きかけた春の日差しが、Slowtimeを暖かく包んでいた。長い夢か。いや、デジカメは、ポケットに入っている。

「そうですね。高山植物は綺麗ですよ」

 そう答えるのが、やっとだった。

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