写真
遠くでカラスが鳴くのを聞いて我に返った。急いで引出しからデジカメを取り、合わないサンダルを引っ掛けて河原へ向かう。かかとがアスファルトに触れると熱い。
遺品の中に見つけたデジカメは、この街で気持ちを紛らわす『何か』としては最適だ。夕日の定点撮影というテーマを設定し、実行している。細い路地を小走りで抜け、橙色に染まり行く空を見つめながら『いつもの場所』へ向かう。今日で三回目だけど。
暑い。横断歩道まで来ると、珍しいトラックが来た。おっ。デジカメのスイッチ入れてファインダーを覗くと、もう目の前に来ている。遅い。そして、横断歩道に後ろ半分を引っ掛けて止まった。おい。すかさず後姿を撮影すると、ピピッと聞き慣れない音がしてデジカメに収まる。多分。
小さな満足感に浸りながら横断歩道を渡っていると、突如トラックの後部窓に、目を吊り上げ、鼻をひくひくさせた顔が現れた。加速する。その勢いでダンボールの下に埋もれ、消える。
一瞬のことではあったが、見切っていた。シャッターを切る程ではない、と言うことを。そのままいつもの場所へ向かう。
一ヶ月もすると流石に涼しくなって、日陰ならサンダルのかかとがアスファルトに触れても熱くはない。もうちょっと大きいのを買うか、それとも運動靴にするか迷っている間に、きっと秋も深まるだろう。
この前、うっかり蹴り倒してしまった盆栽は、無事の様だ。枝は折れなかったし、こぼれた土もそっと元に戻しておいた。きっと高価な盆栽ではない。かと言って、枯らしてしまったらまずい。時々植木鉢が濡れているので、一応管理はされている様だ。しかし、乱雑に置かれた植木蜂を見ると、何が楽しいのだろうとは思う。好きにすれば良いが。
路地を抜けると緑の斜面が見えてくる。下から見ると昼寝でも出来そうだが、斜め途中には道路があって、昼寝どころではない。やはり昼寝をするなら、適度に温度管理された部屋が良い。録画したニュースを見ながら、いつの間にか寝ている。それが昼寝。それが休日というものだ。
川沿いの道路を横断して土手に登る。設置されたばかりの真新しい押しボタンは、使われた形跡が全くない。触れることなく道路を渡り、半ば崩れた階段を一段飛びで登って行くと、まず聞こえてくるのは、グラウンドで野球を楽しむ人の声。そして、徐々に視界が開ける。
夏は遠ざかったとは言え、まだ南の空は青い。よく練習なんて出来るなと思う。野球は帽子を着用することが義務付けられた、珍しいスポーツである。体に優しいルールだ。
土手の頂上はサイクリングロードになっていて、散歩がしやすい。反面、照り返しが暑い。幅も長さも合わないサンダル。うっかり脱げようものなら、足を火傷するのではないかと思い、足の指を広げる。それでも、そんな必死さを微塵も感じさせぬように、顔を上げ、横目に野球をする人達を見ながら歩く。
海までの距離が書かれた看板。何のためにあるのか、それは判らない。海から巻き尺で測って来たのだろうか。想像すると笑える。だから、笑ってその看板の前に立つ。ここが定点撮影の場所。大きく伸びをして看板に寄りかかる。存在意義を勝手に押し付けて、自己満足に浸る。
デジカメの電源を入れて撮影。まだ夕日には遠い、薄い赤色であったが良しとする。遠くに見えるビル群と、もっと遠くにある山が同じ高さに見える。
このデジカメは、既に往年の名機と化している。それでも、夕日の定点撮影をするには十分だ。写真には詳しいぞ。最近ズームの使い方が判ったのだが、ストロボを光らせないようにすることが出来ぬ。何やらスイッチを押すと、色々なロゴが記された画面になる。その中には、風景撮影に適した設定というのもあった。しかし、その設定にしておいても、翌日には元に戻っているので意味がなかった。昨日と同じ操作なんて、覚えていないから。
それよりも、カレンダーが表示され、そこに似た様な画像が並んで行くのを見るのが楽しい。小さなことだが、継続は力なり。いつかこの夕日の写真が役に立つかもしれない。そう思うことにすると、楽しくなった。
それから忙しくなり、日が短くなったのと相まって、一日が二十時間しかない感じだ。江戸時代もこんな感じだろうか。しかし現代は、暗くなったら仕事が終わる訳ではなく、納期が一ヵ月延びたのだって、ゴールが蜃気楼のごとく遠ざかるだけで、決して楽になった訳ではない。
だから休みの日は、カラスの声が目覚まし替わりになっている。季節を問わずよく聞こえるが、この時期、この時間が一番相応しい。目を擦りながら砂嵐になっているビデオを消し、デジカメを持って河原へ出かける。
路地の盆栽に落ち葉が幾つも乗っかっていた。以前蹴っ飛ばした盆栽もどれがどれだか判らなくなって都合が良い。それに、枯れている物がなかったので安堵した。好きにすれば良い。そんな気持ちは変わらない。
路地を抜けると、夏の頃より高くなった空が出迎えてくれた。空しい。既に土手の上の方は赤くなっている。最初だけ一段飛びで土手を登ると、グラウンドを整地する人達が見える。息を整えて見上げると、真っ赤に染まった夕焼け空が現れた。やはり、空しい。
いつもの定点へ行こうとすると、そこには先客がいた。と言っても、別に撮影をしている訳でもなく、夕焼けを眺めている訳でもない。暇人だ。
こちらが近づくと、年配の男が写真を取り出す。速い。拳銃だったら撃たれていた。しかし出てきたのは、カラーのサービスプリントサイズ。今時フチ有り、しかし、光沢仕上げ。そんな仕様を素早く見切る。写真には詳しいのだ。それにしても、どこの写真屋で焼いたのだろう。
「この男に、見覚えはありませんか?」
「私達、こういう者です」
若い方の男が、胸のポケットから警察手帳をチラッと見せて自己紹介した。二人は刑事だった。つまりこの写真は、警察屋でプリントされた作品か。若い方の刑事が、一ヵ月も前の日付と時間を言っていたのだが、そんな写真の人間に見覚えがある筈がなかったし、どうでも良い。マジで。
「さぁ」
人物を真正面から撮るなんて、素人か。ちゃっちゃと定点を明渡して欲しかったので、ポケットのデジカメをいじりながら首を右に傾ける。
「そうですか」
こちらのそっけない態度に『期待はしていない』そんな感じで、若い方の刑事も、会釈をして立ち去る。
しめしめ。看板の前が空いた。ポケットからデジカメを取り出すと、夕日を撮影。遠くのビルはシルエットになり、さらに遠くの山は、真っ赤に染まっている。ちょっと良い画像を納めることが出来た気がして、上機嫌になった。
「近所の方ですか?」
さっきの刑事二人が戻って来て声を掛けて来た。突然だったのでびっくりし、デジカメを落としそうになる。
「そうですよ」
でも、俺は犯人じゃないですよ。念のため先に言っておく。心の中で。
「写真、好きなんですか?」
撮影に興味を持ったのか、年配の男が聞いてくる。その目が気に入らない。俺は別に、悪いことをしている訳ではない。
「まぁまぁですかね。デジカメで遊んでいるだけです」
今更眩しい素振りをして、額に右手をあてる。こちらから目を逸らす。
「今日は、夕焼けが綺麗ですね」
そう来たか。もうこちらは撮影は終了した。どうぞご自由に、である。
「そうですね。休みの日は、ここで定点撮影しているんですよ」
デジカメを操作しながら答える。『ラフスタイル』『合わないサンダル』『デジカメ一つ』『河原に一人』ここから推理して近所の奴。そんな推測だろう。しかし残念。俺は、全然怪しい奴じゃない。
すると年配の男は、こちらの気持ちを判ってくれたのか、額にあてた手を降ろしながら、こちらを向く。ゆっくりと上着の内ポケットから、一枚の写真を取り出す。それはさっき見ただろうと思ったが、今度は車だ。
「これに見覚えはありませんか? ワーゲンです」
ちらっと見る。やはり芸術性はない。まるで資料写真だ。つまらん。
「ワーゲンなんですか?」
顔を上げて聞き直す。多分、フォルクスワーゲンのことだろう。
「そうですよ」
若い刑事の方が引き続き、車の車種とナンバーを言ったが、車種しか聞き取れなかった。それにその車種と、思い浮かべた形は全然違った。聞き間違えかと思って、手振りで車の形を示す。
「ワーゲンと言えば、こぉうぅいぃうぅ形の、ですよね」
二人は必死の形相で手の動きを追う。良い目だ。
「それはビートルですね」
通じた様だが、思いも寄らない返事が返って来た。ビートルと聞いて思い浮かべた単語については、口にしない。車じゃないから。
その様子を見て、年配の刑事は口をへの字に曲げ、薄笑いを浮かべると写真をしまった。その通り。車には詳しくない。しかし、好みはある。
「丸いライトが、今時珍しいですね」
「年代物なんですよ」
納得した。刑事二人が、再び立ち去ろうとする。デジカメを見て呟く。
「色が違うけど、撮ったかもしれない」
余計な一言だったかもしれない。しかし、刑事二人は足を止めた。おいおい、何を期待しているんだ。色違いだって。写真の車は、夕日に照らされて赤っぽく見えたので、一応そう言ったんだよ。そう思いながら、デジカメを操作する。カレンダーみたいなのを出そう。が、撮影をするつもりはないのにレンズが動き出し、地面を撮影する格好になった。どうもデジカメの操作は難しい。昔の写真の出し方、出し方。
「貸して下さい!」
もたもたしていると、若い方の刑事が手を差し出した。苦笑いをしてデジカメを差し出す。こいつ、顔がマジだ。奪う様にデジカメを手にする。年配の刑事の顔つきも変わっている。
手馴れた手つきで画像を探し出していた。年配の刑事も、段々と頭を差し込むように覗き込んで来たので、追い出されて、こちらが覗き込むスペースがない。いやいやお二人さん、あのね、鼻毛を抜くシーンとか、ほっぺたにひとさし指が食い込んでいるシーンとか、ちょっと、あまり見られたくない画像も入っているんですよ。そんな血眼で見ないでくれ。願いは通じなさそうだ。
やがて、一枚の画像を見て手が止まる。
「あった!」
「よく写ってる!」
刑事二人が、顔を合わせて喜ぶ。それはよございました。
「良いのがありましたか?」
と、言いながら覗き込む。それは夕日の画像ではない、のか。がっかりだ。
翌日は、買い物のついでに夕日を撮ることにする。しかし、デジカメは昨日の刑事達に持って行かれてしまった。あの二人、住所・氏名の他に、電話番号や運転手のこと、はたまた車の左側の傷について聞いて来たが、こちらは口をへの字に曲げて『判らない』としか答え様がない。特に電話番号は『090』としか言えず、苦笑いをして誤魔化した。携帯を持っているのは本当なのに。
それでも、車のナンバーが写っていたので、二人は嬉々として立ち去って行った。一応深々と頭を下げてはくれたが、本日のベストショットごと持って行くのは、人としてどうなんだろう。辛いではないか。
デジカメがあるから『定点撮影』を思いついたのに、このままでは中止も止むなしと考えた。しかし、まぁ『継続は力なり』とも言う。仕方なく、ライカにプロビアを突っ込んで出かける。通り道に色々な風情がころがってはいたが、フィルムカメラでは、撮影する気にもならない。だから定点でさっと一枚だけ写真を撮ると、今夜のおかずを買いに行くのも面倒になり、味噌ラーメンを食べ、夜食に肉まんを買って帰った。
雨の休日は、テレビを見ながら昼寝。呼び鈴の音で叩き起こされた。ビデオは木曜日の天気予報を垂れ流している。
「今日は暑くなるでしょう」
と、嫌そうに伝えていた。確かにその日は暑かったね、と思いながら起き上がり、惰性で玄関の扉を開ける。そこには、屈強な男が二人。知らぬ奴。いや、思い出した。先日の刑事二人か。良く人が家にいるの判ったな。寝ていたのは知らなかっただろう。まったく。
こういう時に、玄関扉の覗き窓を使えばぁ良かったのだ。そして、留守だと言えば良かった。しかしもう遅い。そうだ、覗き窓がファインダーの様に、四角いデザインにはならないだろうか。そうしたら癖で覗くだろう。我ながら名案。
二人の来訪に、それにしても、よく住所が判ったなと感心したが、すぐに河原で住所を答えたのを思い出す。どうやら合っていたようだ。
「今日は、調書を作りに来ました」
色々考えている内に、そう説明された。気の利いた言葉が出て来ない。
「ご苦労様です」
何とか答えて、とりあえず上がってもらう。ずずいと奥へ案内したが、四畳半の部屋。それに、座布団は二枚しかない。客人に、譲るっ。
「意外と殺風景ですね」
そのような評価を頂いた。それは褒められているのか、感心されているのかは、寝起きの頭では判断不能。ただ、隣りの部屋は見せられない。三人でスイッチの入っていないこたつに入り、調書とやらを作成しにかかる。
住所・氏名・電話番号。今度は直ぐに判明する。携帯電話を見せびらかしながら答えたからだ。日付と時刻。場所、そこに行った目的。好きな車の種類を調書に書き込んだ。やはり車のライトは丸くないと可愛くない、という意見は調書には記載されなかった。
例の画像を大きく引き伸ばした物を持参していて、そこに写っているナンバーも調書に書き写した。見りゃ判るって。一時間程で調書を作り終えた。
「運転手の顔を見ていませんか?」
お茶も出さずに話し込んでいたのに、まだ帰らない。
「見ていませんね。写真に人物を入れるときは、顔が写らないようにします」
「そうなんですか」
常識だ。それ位、気を付けた方が良いぞ。
「肖像権ありますからね」
刑事は頷いた。判ってくれたようだ。
「裁判所で証言して頂きたいのですが、どうでしょう?」
急に話が飛ぶ。えーっと、多分、今日ではないだろう。少し考えて答える。
「夕日の撮影があるので、雨なら行っても良いですよ」
若い刑事の方は怖い顔になり、年配の刑事の方は笑い顔になった。しかし、目は笑っていない。
「冗談ですよ。行きますよ」
圧に負けて言い直す。元々この質問に、選択肢なんてなかったのだ。何となく判ってはいた。
玄関まで見送った後、自分で呼び鈴を押してみた。二度三度と押した。ダッシュをする必要がないので、こんな音なんだとゆっくり聞くことが出来た。こんなことでドキドキするはずはないのだが、心臓の鼓動が聞こえる程であった。
それから暫くして、会議中に鳴った知らない番号からの電話は、年配の刑事からだった。今大丈夫かと聞かれて、駄目と言えないのが電話の辛い所である。
電話の内容は、裁判へのお誘い。金曜日と聞いて、その日は雨だから大丈夫と思ったが、それは一昨日録画しておいた天気予報だったと気が付く。断れない雰囲気を感じ取って了承し、会議室に戻る。
「すいません。次の金曜日、年休を下さい」
小声で課長に言う。会議は進行しているが、その間仕事は止まっている。
「急に、何で?」
そんな制度が生き残っていたのか? いつの時代だ? しかも、それを使うだと? 今か? そう言いたげな顔をされる。だから、課長の声がでかい。何人かが振り向いてしまった。嫌な目だ。
「警察に頼まれまして、裁判所で証言することになってしまいました」
また小声で言う。そう言っても、課長の表情は変わらない。問題の対策会議中に年休の話なんてするからだ。
「そう。それじゃしょうがないね」
課長も警察には弱いのか、それ以上聞いて来ない。結論の出ない会議に戻る。
夕方会議室を出ると、金曜日にも長い会議が予定されていた。年休申請書を書いて上司に申請する。よくよく見ると、今年度初の年休申請であったことに驚く。しかしそれよりも、上司がちらっと予定表を見て、会議の予定を変更しようともしなかったことに、もっと驚いた。対策案を出す人が、不在なのに。
裁判所に行く日は幸運にも雨。定期券を途中まで使い、指定された時間よりだいぶ前に到着した。二人の刑事の方がもっと前に到着していた様で、直ぐに呼び止められる。雨は小降りになっていた。
待合室みたいな所に通される。
「では、こちらでお待ち下さい」
誰もいないガランとした部屋だ。何もない。暇そうだ。
「判りました。出番は直ぐですか?」
咄嗟に声をかける。もう行こうとしていた足を止め、首だけこっちを向いた。
「あーっと、四人証人を呼んでいますので、いつになるかは判りません」
申し訳なさそうな素振りもない。裁判所では、筋書きのないドラマが進行中なのだろう。
「そうですか」
答えたとき、一人になっていた。言うこと言って直ぐに帰りたい。しかし、そうはいかない様だ。つまらん。
しばらく待ってその後は、傍聴席に座り、自分の出番が来るのを待つ。他の人が証言台に座り、検察と弁護士から代わる代わる質問を受けていた。最初の一人は、テレビドラマと同じだと思いながら見ていた。しかしこれが、例え誘拐殺人事件であったとしても、二人目からは飽きてうつらうつらとする。
話の内容には興味がなかったし、要約すると弁護士の質問は「本当に見たのか」の繰り返しだ。こんなことをしに、会議を休んで来たのではない。では、何をしに来たのか。ふと考える。しばし考える。時間はまだある。考えて、思い至る。これが一市民としての義務なのだ。そう思おう。
長々と待たされて、やっと出番が来た。
前の人と同じ様に宣誓をして名前を言い、まずは検察側からの質問を受ける。
「証拠物件十七号として、こちらの写真を提出します」
なつかしのデジカメが登場したが、ビニール袋に入れられて遠くから見るしかない。検察は、そこから例の写真を取り出す。
「この写真が示す通り、容疑者がこちらの逃走ルートを使ったことは明白です」
手であくびを隠しながら、検察のトークを聞いていた。その後、まるで台本のように、調書に書いた通り回答し、つつがなく証人としての役目を果たす。
今度は弁護士が質問に立った。前の証人と同じ様に聞いて来る。こちらは台本がない。
「この車を運転していたのは、本当にここにいる被告ですか?」
その質問は聞き飽きた。何度も答えている。弁護士の目を見て、再度答える。
「いいえ」
胸を張り、自信ありげに言う。弁護士もそう答えると思っていたのだろう。頷きながら裁判長の方を見る。
「本当ですか?」
疑うように語尾を上げる。しかし、パッと振り返った。
「え? 見ていないんですか?」
こいつ、耳が遠いのか。薄ら笑いになって、もう一度答える。
「私は、見ていません」
それを聞いて、弁護士はちょっと調子が狂った様だ。
「見ていないんですか?」
なんだこの弁護士は。「はい」でも「いいえ」でも再確認するのか。
「見ていません。写真を撮っただけです」
顔を寄せて来るな。耳が遠い上に、暑苦しい奴だ。
「では、この写真は、本当に、この日時に撮影したものですか?」
「そうです」
質問の意味が判らない。しかし、返事はYESだ。
「本当ですか? カメラの時計を操作することが出来ますよね?」
「出来ません」
何を言っているのだ。撮影すると日時が入るからデジカメで撮っているのだ。弁護士は納得しれくれたようで、頷いた。そして、また裁判長の方を向いた。
「そうであるならば、また元の時刻に戻す事も可能です、よ、ね?」
そう言ってから、今度はゆっくりと振り返る。不思議そうな顔をしていた。
「え? 出来ないの?」
弁護士はまた聞き間違えた様だ。弁護士は、慌てて検察にデジカメの機能を確認する様に言った。言われた検察は、デジカメを操作し、デジカメに時計を変更する機能が付いていることを確認して頷く。
「時計を変更する機能がありますよね?」
弁護士がまた顔を寄せて聞いて来る。台本に、そう書いてあるのだろうか。
「知りません。使いませんから」
「警察に提出するまでに、変更していませんか?」
大きくため息をつく。それから答えてやる。
「刑事の人がその写真を見つけた後、私は、そのデジカメに触れてさえいません。今そのデジカメの時計が正しいのでしたら、正しいですし、狂っていたら、元に戻して下さい」
弁護士は検察にデジカメの日時が正しいか確認したが、正確だった。とても残念そうな顔をしているのが判る。おかしな弁護士だ。
「デジカメの画像を、改竄していませんか?」
話題を変えてきた。首を傾げ、咄嗟に聞く。
「どうやってですか?」
フィルムだったらできるが、デジカメは知らぬ。
「パソコンに取り込んで、加工出来ますよね?」
弁護士も首を傾げている。同じ方向だが、仲良しではない。
「パソコン持っていません」
首を元に戻す。弁護士は、まだ聞いて来る。
「自宅になくても出来ますよね?」
「そうなんですか?」
弁護士と反対側に首を傾ける。
「人に加工を頼むとか?」
思い出せとばかりに聞いてきた。言われて思い出す。
「お店に出すとかですか?」
暫く馴染みの写真屋に、顔を出していなかった。今度行ってみよう。
「そう。そうです」
弁護士は証言台に顔を近づけて来る。こんな店員は、いなかったはずだ。
「私は、現像していません!」
そう言うと傍聴席から笑いが起きた。証言台で見つめ合う二人だけが笑っていなかった。
被告が、この日時に、ここを通過したのを、弁護士はどうしても認めたくないのであろう。しかしそれは、そちらの都合であって、こちらとしてはどうでも良い。車を運転していたのが誰かも、どうでも良い。ただ、一市民の義務として、質問には正確に答えるのみである。
しつこく、今度は運転席に乗っていた人について、尋ねる弁護士。
「もう一度確認します。運転していたのは被告でしたか?」
「判りません」
もう一度答えてやった。弁護士は頷く。
「助手席には人が乗っていましたか?」
「判りません」
弁護士は薄ら笑いをしている。気に入らない奴だ。
「何も判らないのですね。車には、何人乗っていましたか?」
弁護士は証言台にくるりと背を向け、被告と傍聴席の方を見ながら質問した。ちょっとむっとする。解った。この弁護士は、人が、如何に無能であるかをアピールすることにしたようだ。会社にもそういう奴はいる。
「二人ですね」
一人と答えようとしたが、ちょっと考えて二人と答えた。弁護士はいきなり顔を近づけてきて、意地悪く笑顔を見せた。検察の顔は、ちょっと曇った様に見える。傍聴席にいた年配の刑事だけが立ち上がって、叫び声をあげた。
「助手席に人がいたのですか? 運転席も良く見ていないのに、何故二人なのですか?」
弁護士が本当に二人だったのか再度聞いて来た。『こいつは、言い間違いをしている。信用に値しない奴です』と言いたげである。何をおっしゃるウサギさん。そう思って反論。いや、証言。
「後ろの窓から、口にビニール紐をくわえた人が一瞬見えました。ですから、運転手と合わせて、二人は乗っていたはずです」
その瞬間、弁護士の顔は曇り、検察は休廷を申請し、ざわめく傍聴席で、刑事が小さくガッツポーズをするのが見えた。
まだ帰れないのか。そんな雰囲気を感じて溜息をつき、仰ぎ見る。天窓の外には綺麗な夕日が見えていた。今日は、撮影できそうにない。
別の小部屋に案内されると、刑事二人らに取り囲まれる。まず見せられたのは、笑顔の写真だ。卒業アルバムでも引き伸ばしたのだろうか。
「見たのはこの人ですか?」
「そうですね」
とは言ったものの、記憶にあるのは、少なくとも笑顔ではない。
「間違いない? 本当にこの人だった?」
若い方の刑事がもう一度聞いた。そう言われると自信が揺らぐ。しかし、直ぐに確信が持てた。写真を指さして答える。
「はい。間違いありません。この人です。ここにあるホクロを覚えています」
「落ち着いて思い出してください。これ凄く重要なことなんです」
両手を振りながら今度は、年配の刑事が聞いて来る。嬉しそうに笑いそうな表情だが、目が怖い。仕方ない。諦めて、言うしかないか。
「モデル撮影する時に、鼻の角度は重要ですからね。一瞬でも見逃しませんよ」
若い方の刑事が不思議そうな顔をしている。年配の刑事の表情はそのままだ。
「そうですか。他に覚えていることはありませんか?」
嬉しそうに腫れ物に触る。変態か。覚えていることを答える。
「えーっと、口にくわえていたのは、黄色いビニール紐です」
「おおっ」
若い方の刑事がそう言ってから手帳を取り出し、パラパラとページを捲る。そして、指を指して嬉しそうに年配の刑事の方を見つめた。良い顔だ。
「それと、急発進した時、キャベツのダンボールに埋まりました」
「おおっ」
今度は年配の刑事が唸り、持っていた手帳のページを見て、嬉しそうに若い刑事を見つめた。お互いに見つめ合っている。お幸せにとしか、言えない。
「何で覚えているんですか?」
不思議そうに、若い方の刑事が聞いて来た。ちょっと口を尖らせて答える。
「実家が八百屋をやっていまして、とんかつ屋さんに、毎日毎日、納品していましたから。キャベツの量が凄くて」
「なるほど。なるほど」
頷く二人。納得してくれたようだ。吐き捨てるように言葉を加える。
「嬬恋村の秀品でしたよ。今の時期は、高いですよねぇ」
その発言に、刑事二人は手帳を見て大層驚いた。年配の刑事なんて、手が小刻みに震えている。嬬恋村のキャベツがそんなに珍しいのか。そこまで驚く程のことではないだろう。
一応、赤信号を無視して横断歩道を渡ったことを謝罪したが、そのことについておとがめはなかった。それに、渋滞の原因を作った駐車違反車の車種・ナンバー・運転者の特徴も、聞かれなかった。不思議だ。
他に何か覚えているかと聞かれたので、肉まんを買いに行く途中で交番を覗いたが、誰もいなくて報告出来なかったことを伝えた。しかしそれは、調書に書き込まれなかった。
一時間程して再び証言台に戻り、さっき小部屋で聞かれたことを再び聞かれる。まるで、台本があるようだ。
「見たのはこの人ですか?」
「そうです」
「本当にこの人ですか?」
「はい。間違いありません。この人です。ここにあるホクロを覚えています」
「落ち着いて思い出してください。これ凄く重要なことなんです」
「モデル撮影する時に鼻の角度は重要ですから。一瞬でも見逃しません」
まるで茶番だと思ったが、これが正規の手続きであるならば、従うしかあるまい。その時、テレビのリポーターが、農家のお爺さんに名前を聞き「さっき教えたでしょう」と答えたシーンを思い出した。薄ら笑いを堪える。
続いて、奴が、弁護人が質問をして来る。弁護士とは話が合わないだろう。
「そんな一瞬で、人の顔が覚えられるのですか?」
いらつく質問だ。
「はい」
不貞腐れて答える。弁護士は少し笑っている。
「私の顔も覚えられますか?」
ふざけるな。
「それはどうでしょう」
丁寧に答えた。こいつには用がない。お断りだ。
「ダメじゃないですか」
知るか。そもそも撮影対象にならないし、撮影もできぬ。
「カメラ持っていませんから」
いらつく。こんな状態で覚えるもへったくりもない。
「カメラを持っていれば覚えるのですか? そんなことがあるのですか?」
しつこく聞いて来る。カチンと来た。言わせたいのか? 言ってしまうぞ? これでも、人が気を使って言わなかった事実を。大きく息を吐き、答える。
「見ました。間違いありません。横断歩道を歩いている時に見ました。下からニュッと現れて、目とホクロは良いかなと思ったのですが、鼻の角度が悪かったので撮影を止めたんです。鼻の穴が見えた状態でシャッターは切りません。ボツになるだけですから。これは見たというより、評価したんです。NGであると。そういうことです」
弁護士は黙ってしまった。書記のお姉さんが「最低」と言わんばかりにこちらに目を向けた。知らん振りをする。あまり人の顔についてとやかく言うつもりはないが、ねちねちとしつこく聞かれれば、はっきりと言わねばならない。こういう輩は、一度バシッと言ってやる必要がありそうだ。
しかし、やっぱり、本人の耳に入ると申し訳ないので「鼻の角度が悪かった」の所は、書記のお姉さんに削除を申し入れようとした。が、そう都合よく証言を翻すことは無理であると悟った。宣誓、しちゃったし。
幸いだったのは、写真の人物が、この法廷にはいなかったことだ。
裁判が終わって帰ろうとしたら、刑事二人に呼び止められた。
「今日は証言、ありがとうございました」
にこやかな笑顔だ。初めて会った時に見せた、造り笑顔ではない。
「いえ、一市民としての義務を果たしたに過ぎません」
ちょっと自分でもかっこいいセリフだとは思う。こちらは造り笑顔だが、文句はあるまい。呼び止められて聞かされたのは、今後の事務手続きについてだった。一番ショックだったのは、デジカメは結審まで証拠品として保管されると説明を受けたこと。それはまぁ、仕方ないだろう。そんな雰囲気を察してか、年配の刑事が言う。
「すみませんねぇ。夕焼けの写真、まだしばらく撮れませんね」
額に手をあてて眩しい様を再現しながらの謝罪だった。
「しょうがないですよ。お役に立てれば幸いです」
口だけ横に引き、苦笑いで答える。年配の刑事が腕を降ろし、頭を下げる。
「ご協力感謝します」
それを見て、若い方の刑事も頭を下げる。顔をあげた年配の刑事が言う。
「それにしても、今日の夕焼けはとても綺麗でしたが、撮影出来なくて、残念でしたね」
笑っている。本心を突かれて一瞬顔が強張ったが、誤魔化すように、意地悪く言い返す。
「本当ですよぉ」
そして、こちらも笑う。もう、笑うしかない。そんな二人の乾いた笑いを、若い方の刑事が、怪訝な表情で見続けている。うん。お前はもうちょっと、人生について修行して来い。
裁判所を出ると星が出ていた。街の明かりに霞んでしまうだろうが、久し振りに星の撮影も良いかなぁと、思う。何だか、そんな気がしていた。