8・婚約の成立
朝のお役目と朝食を終えてから、レジーナはずっと着せ替え人形にされていた。
「白!」
「黒!」
「流行のビビットカラーを!」
「いつの流行よ、今は淡い色の方が」
「そもそもドレス形だって」
どんよりとしているレジーナを他所に、使用人の激しい議論は終わりを見せない。いつもの通りに天灯す陽時計へ魔力を注ぎ、アランとメイソンと共に朝食を食べた後、いつも通りに束ねの書の所へ行こうとしたレジーナは使用人たちに捕まった。アランたちの気の毒そうな視線を不思議に思いながら付いて行った部屋には、どこからこれだけ集めたのかと問いたくなく程のドレスが吊り下げられていた。かれこれもう数時間、着たり脱いだりを繰り返してレジーナはもうへとへとになっている。
ちなみに仮ではあっても求婚をされた翌日ではあったが、アランの態度は一切変わっていなかった。変わってもらっても困るが何も変わらないというのも、それではどういう風に振舞えばいいのか分かない。内心は未だ動転していたものの、レジーナも極力気にしていないように取り繕った。それもあっての現在であるので、彼女の心労はもう限界を迎えかけている。
「レジーナ様はどのような衣裳がお好みですか?」
「色は?」
「古典的なものもようございますが、新進気鋭のデザイナーが作ったこちらなど」
「そうですね、もう、あの、お任せします」
「何を仰るのです、レジーナ様のお披露目の場の衣裳ですよ!」
「お任せ頂けるのは光栄ですが、やはり最後はこれと決めて頂かなくては」
そう諭されてレジーナは疲労でくらくらしている目を、この数時間で選出されたらしい数十枚のドレスに向けた。選出してまだ数十枚あるのはどうなのだろう。白状をしてしまえばレジーナは流行に疎かった。生国では夜会に呼ばれることなんてほとんどなく、揶揄いの為に呼ばれては当たり障りのない文句で断っていたから当然であった。そもそも生国の流行りを知っていたとして、ヒンメル王国での流行りはまた違うだろう。綺麗な衣装に心躍らない訳ではないが、数時間もの衣装合わせはただただ苦痛である。世の貴族令嬢たちは毎回こんなことをしていたのかと、レジーナは素直に感心した。
「(何かもう、全て同じに見える)」
「パーティーは来月ですが、まずドレスを決めてその次に靴と小物、髪型なども決めていかねばなりません」
「本来ならば一からオーダーメイドしたかったのですが、日付が…」
「今回は既製品ではありますが、多少のアレンジは加えさせますわ」
「本日中に決めるのは難しいかもしれませんが、どのような感じか良いのか教えて頂ければまたその傾向の物を集めますので」
レジーナは既にこの場が面倒で仕方がなかった。けれど一生懸命に自身のことを考えてくれている人々に、そんなことを言ったり思ったりするのは酷い罪悪のように感じられる。うんうんと唸りながらレジーナもそれに応えようと並べられた衣裳を見比べた。けれど彼女の目にはやはりもう全てが同じに見える。同じなのであれば手前の物にでも決めればいいのに、レジーナの持ち前の生真面目さがそれを許さなかった。
ふいに、衣裳部屋の戸が叩かれる。
「まだやっているのですか、もう昼ですよ」
「陛下、メイソン様」
「まだって、むしろこれからですわ!」
「色もデザインも一切決まっていないのです」
「一度 休憩を挟んだ方が良いでしょう。昼ですし」
呆れたような顔でメイソンは並べられた衣裳を見た。大量にあるそれらは、彼らの為に集められた物の比ではない。久しぶりに飾り立てられる女性を与えられて、使用人たちがはしゃぐだろうことは予測していたがこれは中々に大変そうである。中央で萎びているレジーナを見るに楽しんでいる風でもなし、アランは静かに室内に入り彼女を連れ出そうとした。
「それはそうですが」
「あ、そうですわ。陛下はどのような衣裳がお好みですの?」
「む」
「いや、ですから後になさいと」
既に疲れ切っているレジーナの手を取った所で、アランは使用人に捕まった。この類のことで水を向けられたことはそうないので戸惑ったが、アランの目の端に白を基調にした花弁で作ったようなスカートが特徴的なドレスが入り込んだ。特に何か思うでもなくそれを取り、レジーナに合わせる。
「似合う」
「これで行きましょう!」
「各自、小物と宝飾品と化粧髪型に別れて準備を進めますよ!」
使用人たちはアランからそのドレスと受け取ると、元気に掛け声を上げて衣裳部屋から出て行った。三人はそのあまりの素早さに驚き、黙り込む。
「…」
「…」
「…」
「レジーナ様、あちらでよろしかったのですか。連れ戻して参りましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「…」
「本当に大丈夫です。素敵なドレスでしたし、あの、選んで下さってありがとうございます。自分では選びきれなくて…」
アランは黙ったままじっとレジーナを見つめた。おおよそ「本当にあれでいいのか、余計なことをしてしまったのではないか」と言いたいのだろうことはすぐに分かった。本当に分かりやすい人であるとレジーナは苦笑しながらいつもとは逆に手を引いた。
「お昼を呼びに来て下さったのですよね。遅くなってはいけません、参りましょう」
「…ああ」
―――
昼食を終え、さて今度こそ束ねの書がある書庫に行こうとするレジーナを止めたのはメイソンだった。
「ご婚約の件でございますが」
「あ、はい」
「どうしてそんなに怯えるのです、怖いことなんてしませんよ。陛下もそんな目で見ないで下さい、何もしてませんから」
「何もなくて、このように怯えるだろうか」
「昨日の件に関して苦言を呈しただけですよ、原因は陛下ですな。まあそれは置いておいて、同意頂けるとのことでしたのでこちらにサインを」
「ええ、え…? …これは、違いますよね」
「おや、何が」
「婚姻契約書とありますが」
「…」
メイソンがにこやかに差し出した書類には確かに【婚姻誓約書】と古代語で書かれている。重要書類に古代語を使うのは万国共通のようで、ヴィント王国でも力ある言葉としてよく用いられていた。レジーナは魔法を必要としない分野であれば、就職できるかもしれないと古代語の書類作成をする文官に応募したこともあった。書類選考の時点で落ちてしまっていたが、その時に学んだことは覚えている。レジーナはサインをしかけたペンを何とか紙から離し、それを付き返した。アランもその書類を確かめてメイソンを睨むが、彼は笑顔をそのままに固まっている。
「メイソン」
「前期古代語を読めてしまうのですね、そうかあ。ご優秀でいらっしゃる」
「メイソン」
「いや、間違えてしまっただけでございます。いやはや失敬、こちらでしたな」
「…」
「陛下、顔が怖いですぞ」
しれっと差し出されたもう一枚の書類には確かに【婚約誓約書】とあった。古代語には前期・中期・後期が大きく三種類分かれており、使用されるのは後期が多い。そして先程の書類の【婚姻】の文字は後期古代語の【婚約】という文字に似ているのだ。しかし下記文の構成が前期古代語であったので、レジーナは間違いに気付くことができた。一枚の書類に記す文字は全て同じでなければならない。これも万国共通なのだろう。そしてそれをメイソンがわざと書かせようとしたのだろうことまで理解した所で、レジーナの背が粟立った。
「大体ですな、自分たちとしましては国王陛下が意外と手が早かったことに関しての対処法を」
「待て」
「順番が多少前後しようが祝い事であるので良いは良いのですが、順番通りの方がやはり進めやすいこともありまして」
「? あの」
「…」
「おや、ええと。…。では、レジーナ様はこちらにサインを、陛下はその隣に」
レジーナが戸惑いながらサインをしている間、主従は視線だけでやり合った。
「(いや普通、深夜に男女が同じ部屋にいるってそういうことでしょうよ。時間も短くなかったと報告を受けていますよ)」
「(それこそ順番を狂わせてレジーナを傷つけるようなことをする筈がないだろう。見誤るな)」
「(部屋に入れた時点で傷つけるも何もないでしょう。ああは申しましたが我々は祝杯を上げたのですよ。…逆に恥をかかせたのでは?)」
「(心配はいらん、彼女にそのつもりは一切なかった。断言できる)」
「(…)」
「(…)」
「(不憫な)」
「(黙れ)」
貴人にプライベートなどは無い。アランが昨夜、レジーナの部屋を訪れていたことはすぐにメイソンの耳に入った。焚き付けた甲斐があったとメイソンは部下を集めて酒盛りに興じる程に喜んだが、それが早とちりだったことを今知った。まあいいか、とメイソンはそれら全てを飲み込んだ。婚約までこぎつければ後はどうとでもできる、いや、やってみせる。
レジーナさえいれば、天灯す陽時計は継続的に使用が可能である。しかもこの奇跡はメイソンの主人の代で現れたのだ。アランは歴史に大きく名を残すだろう。魔力が突然に無くなるなどという病気もあるにはあるが、あれは早期治療が可能なものであるし医療体制も整えた。問題はレジーナが死んだ後だが、もし彼女が子どもを産み、彼女の特性を引き継いだその子が天灯す陽時計を動かすことができれば。そしてそれがアランの血筋であれば。的が外れたとしても試す価値は十二分にあるだろうとメイソンは笑った。
レジーナが書類にサインし、その横にアランもサインを書いた。誓約書はひとりでにくるくると纏まって、メイソンの手に戻る。
「では、本日この時よりお二人の婚約は成立致しました。おめでとうございます」
「ありがとうございます…?」
「疑問形になさらないで下さい。後ですね、陛下からお聞きしましたがレジーナ様の疑念は一切必要のないことですので、ご心配なさらないよう」
「必要がない、ですか」
「ええ、必要ございません。貴女への不敬行為は陛下へのそれと最早同じ。それでも、もし何ぞあれば必ず、このメイソンにお伝えください。ヒンメル王国騎士団団長であるこのメイソン・ドンナーに」
言外に、もしそんな輩がいるならば叩き斬ると明言されたようで、レジーナの背がまた粟立った。初対面で穏やかで優しそうな垂れ耳の獣人だと思った人は、決してそうではなかったのだとやっと理解が追いついてきていた。
今更ながらレジーナは本当に国王の婚約者となるのだと自覚してきた。昨日打診され、今日もう婚約してしまったがやはり早まっただろうか。しかしレジーナに断る権利も理由もないのは、遅かろうと早かろうと変わらない。王妃になる覚悟や教養やその他諸々のことを端折ってしまっているが、大丈夫なのだろうか。…いや、決して大丈夫ではないのだろう。今更ながら、本当に今更ながら漠然とした不安がレジーナを襲った。それでも生国に帰る訳にはいかないし、帰りたいとも思わない。やるしかないのである、レジーナの前に道は一つしかなかった。
「レジーナ」
レジーナが膝の上で握った小さな拳をアランがそっと包んだ。はっと顔を上げると、心配そうな空気を隠しもしないでこちらを見ているアランがいる。いつも無表情であるが、何を考えているのか分かりやすい優しい人である。あの館の人以外で初めてレジーナの手を引き、求めてくれた人である。そしてここはその人が治めている、レジーナを認めてくれた国である。この人なら、この人とこの国の為なら頑張れるかもしれない。
「一生懸命お仕えしますので、どうぞ末永くよろしくお願い致します」
読んで頂きありがとうございました。