6・特別な雨
天灯す陽時計の小さな椅子に座りながら、レジーナは小さな窓から外を見た。今日はぽつぽつと窓に雨粒が当たっていたが、朝にこうやって外を眺めながら今日は何をしようか考えるのが日課になりつつある。
本来、天灯す陽時計に魔力を注ぐ作業はそんなに呑気な気分でやれるものではない。何時間も座り続けてやっと数十分の砂が溜まるのが、今までの常識であったのだ。レジーナがものの数分で一日分の魔力を注ぎ込むのを、アランとメイソンはいつも何となく複雑な気持ちで見守っていた。
「雨だ」
「雨ですねえ」
「レジーナ、外に行かないか」
「…雨ですよ?」
「ああ、だが、忌まわしい雲はない」
レジーナがこの部屋に入る時は、必ずアランかメイソンのどちらかと一緒でないといけない。本日もそうであるが忙しいであろうに、アランは大体付いて来てはその小窓から飽きずに外を眺めていた。その視線をレジーナに移したアランはそのままじっと彼女を見つめた。まるで「来ないの?」と聞いているような瞳はレジーナの胸を強烈に打った。
「し、使用人の方に雨具の用意をして頂きますね」
アランはやはり表情を変えずに雰囲気を和ませた。
―――
天灯す陽時計であっても、本物の雨雲は避けられない。あくまでも呪いと怨嗟の雲だけを退ける魔道具であるから、自然の雨や雪はそのまま降ってくるのだ。習いたての結界魔法を応用して、その雨を完全に避けながら庭園をアランとレジーナは二人で散策していた。
「あの呪いと怨嗟の雲を潜って落ちてくる雨や雪はあまり良くないものだ」
「触ると、何かあったりするのですか?」
「触ったからとすぐに身が爛れる訳ではないが、瘴気が溜まって病に倒れると」
「…あの雲は本当に大変なものなのですね」
「ああ、だからこの国の者は滅多なことでは雨の日に外出することはない」
だからあんなに大騒ぎになったのかとレジーナは納得した。使用人に雨具を出して欲しいと伝えた所「何てことを仰るのですか!」「危ないのですよ、何かあったらどうするのですか!」と大騒ぎだった。アランが外出したがっていると聞くと、メイソンが走り込んできて「あの馬鹿はどこにいるんです!」と怒鳴った。一国の国王を堂々と馬鹿と罵る騎士団長は彼以外にはいないだろう。
勢いに押されて悲しそうにするアランを見てしまって、急遽援護射撃をしてしまったがそういう事情があるのなら止めておいた方が良かったのだろうか。レジーナは魔法を展開させながらそっとアランを盗み見た。アランは静かに雨に打たれる葉をじっと眺めている。こんなに穏やかな人のどこが怖いのだろう。レジーナは彼を知る度に不思議になったが、所詮は一ヶ月程度の付き合いであることも自覚していた。レジーナの知らない面もまだあるのだろうから決めつけても良くないのであるが、それでも誰かが傍にいるだけで喜ぶような人を彼女は怖いとはどうしても思えなかった。
結局大騒ぎの末にレジーナがきちんと結界を張ることと、絶対に雨水に触れないことを条件に三十分だけ許された散策だった。城の玄関には全身がすっぽり隠れる雨具を身につけた使用人と騎士たちが何やら魔道具とタオルを持って待ち構えている。ヒンメル王国には傘という簡易なアイテムは存在していなかったので、結界の中ではあるがレジーナたちもしっかりと雨具に着替えさせられた。結界の中であるからと帽子の部分は取り払っているが、それにも渋い顔をされた。
「いずれ」
「はい」
「いずれ、あの雲のことを気にせずに過ごせる日が来ればと」
「…」
「感謝している」
「勿体ないお言葉でございます」
レジーナは本心から勿体ないと思った、本当なら自身が御礼申し上げる側なのだと。ヒンメル王国に呼んでもらえなければ、レジーナは今もまだあの国で明日からのことを鬱屈しながら考えていただろう。この国にこれたからこそ、レジーナは初めて人の役に立てた。そしてもう一生できないと絶望していた魔法までも使えるようになったのだ。感謝してもしきれないのはこちらなのだ、どうしたらそれを伝えられるだろうかとレジーナは考えた。
そんな風にレジーナがぼんやりしていたからか、アランがいつの間にか彼女のすぐ傍に立っていることに気付かなかった。レジーナが驚いて距離を取ろうと足を後ろに下げようとしたのと、アランが彼女の腕を掴んで額に口付けたのは同時だった。
「できうる限り健やかであれ」
ほんの僅かに口角を上げたらしいアランの表情に気付いてしまったレジーナは、額を押さえながら口をぱくぱくと開け閉めすることしかできなかった。これは初日にもされたおまじないである。しかし使用人たちがメイソンを通して止めるように伝えてくれていた筈なのだ。アランは動揺するレジーナに首を傾げて「戻るか」と言った。
「も、もう、よろしいのですか」
「満喫した、それに」
「それに?」
「雨水に害はなくとも、冷えてはいけない」
雨具越しに腰を支えられたレジーナは、半強制的に歩くしかなかった。自国ではレジーナをエスコートしてくれる男性は少なかったので、エスコート慣れしていない彼女には自身の振る舞いが正しいのか間違っているのかもよく分からなかった。顔を真っ赤にして俯いているだけなんて、夢を見ている愛らしい少女でもあるまいにとレジーナは自身を嘆いた。こんなことになるのであれば、夜会でもなんでも行ってエスコートされている女性たちをしっかり見て学んでおくのだった。
「レジーナ」
「っ、はい」
「また散歩をしよう」
「…雨の日にですか?」
「雨でも、晴れていても」
アランは朝のようにレジーナをじっと見つめた。やはり「来てくれるよね?」と言わんばかりの瞳にレジーナは小さく笑いながら緊張を解いた。その瞳がどうしても子どものように見えて愛らしいなんて、流石に誰にも言えなかった。
「ええ、勿論。陛下が望まれるならばいつでもお供致します」
アランはその返事に満足したようで、機嫌良く城に戻った。二人は戻った瞬間に使用人たちに捕まえられ浴室に連れ込まれた。入念に入念に洗われた更にその後、レジーナは大事をとって部屋に連れて行かれてしてしまった。
「全く、陛下にも困ったものですわ。何かあればどうするおつもりだったのでしょう」
「お散歩がなさりたいなら、温室なりなんなりありましょうに」
「雨の日の散歩も良いものですよ、靴は少し汚れますが…」
「とんでもないことですわ! …あの恐ろしい雲はありませんが、まだ何があるか分からないのですよ?」
「…あまりご心配をかけないようにしますね」
使用人たちの剣幕にレジーナは、つい先程また散歩に行く約束をしたのだとは言いだせなかった。ヒンメル王国民にとって、空から降ってくるものは全て害あるものなのである。呪いと怨嗟の雲を潜って落ちてくる雨水は放っておけば、大地を汚染し植物を枯らしてしまうのだ。人体にも害を及ぼし摂取し続けることによって、喉が内側からゆっくりと溶けていったなどという症例もある。今となってはそれに対応する魔法、それを中和する魔法薬や魔道具を開発しているので農業も昔よりは楽になったがこの国に住む人々はその歴史を忘れない。
「次に誘われた際にはきちんとお断り下さいませね」
「善処致します」
視線を逸らしつつ、そう言うのがレジーナにとっての精一杯だった。そんな彼女の周りを使用人たちが取り囲む。「陛下を危険な目に遭わせるな」と叱られると思ったレジーナはぎゅっと目を閉じた。
「それはそれとして、どうでした?」
「え? …どう、とは?」
「またまたそんな、誤魔化さないで下さいまし」
「えっと、雨はちゃんと避けましたよ…?」
「違います!」
「雨の日の逢瀬なんて、危険性さえ目を瞑ってしまえばすごくロマンチックじゃないですか!」
「どんなお話をなさったんですか!?」
「陛下は何と? レジーナ様は何とお答えになったのですか?」
「わたくしたちまで緊張したんですから!」
使用人たちはわっと華やかに騒ぎ出した。レジーナは呆然とした。これは、恋バナと呼ばれるそれである。今までの彼女には一切の関りがなかったことだったので、どういう切り返しが良いのかも全く思いつかない。そもそもあれは逢瀬でもない。本当にただのお散歩であったのだ。
「あの、ご期待に沿えるようなことは何も」
「お二人は出会って一ヶ月くらいですが、愛に時間は関係ありませんものね!」
「妙齢の女性には大体怖がられてしまう陛下にやっと春が!」
「お二人がそっと近づいた時には心臓が止まるかと!」
「あ、あれは違います!」
弁明をしようとするレジーナを他所に、使用人たちはきゃあきゃあと喜んでいた。どうだったのか、と聞いたわりには彼女の声など届いていないようであった。これはきっと叱った方が良い案件であった。けれど楽しそうにしている彼女らを止めるのも憚られるし、彼女らの主人はレジーナではないしと迷ってしまい収拾がつけられない。
「はいはい、楽しそうにしている所に申し訳ないが失礼しますよ」
「まあ、メイソン様」
「陛下を叱…陛下とのお話が終わったので、次はレジーナ様とお話致したく。貴女方も仕事に戻るように、あまりレジーナ様を困らせてはいけませんよ」
困りきっていたレジーナを助けたのはメイソンであったが、結局彼女は助からなかった。目を細めて笑うメイソンは一見ものすごく優しそうに見えるが、その後ろに恐ろしい何かを背負っていた。威圧感というものを具現化するのならば、きっとそれは彼の形をしている。
あれだけ楽しそうにしていた使用人たちも即座にその雰囲気を察し、音もなく部屋から出て行った。そんな部屋に残っているのは、出て行った使用人と入れ替わりに入ってきたいかにも役職を持っていそうな人たちばかりだ。レジーナまだ城にいる人々全員の名と役職・役割について覚えていないが、それでも何となく分かってしまうものだった。
「まあそう怯えないで下さい、レジーナ様。ちょっとお話するだけですから、ちょっと」
「…はい」
「困りましたな、大体の方は自分よりも陛下の方が怖がられるのですが」
ははは、と声を出して笑いながらメイソンは、レジーナの前に置かれている一人掛けのソファに座った。レジーナは早くも手に汗をかいていることを自覚して、一刻も早くこの場から立ち去りたかったがそうもできない。仕方がなく彼女はぐっとお腹に力を込めてメイソンを見据えた。
「この国の雨についてはご存知で?」
「はい、先程 教えて頂きました」
「でしょうね、陛下からもそう聞いております。でしたら貴女は被害者だ、陛下がそれを教えずに貴女を連れ出したのですから。この件に関しては不問と致します。そもそも一応許可も出していましたしね」
話が終わったかのような流れであるが、メイソンは席を立つ気がなさそうである。威圧感もそのままだ。つまり、本題が別にあるということなのだろう。レジーナはこくりと喉を鳴らしながら、不問とはされたものの国王陛下を危険に晒したことには変わりなのだから何かしらの刑罰に問われるのでは、いやそもそも謝罪もしていないしまずはそこから、いやしかしでは本題とは。と頭の中でぐるぐると考えた。
「それとは別件で、ですね。お話がございまして」
「(きた!)」
メイソンがこれから何を言いだすのか想像もできず、レジーナは泣きながら指を組んでしゃがみ込みたい衝動を必死に堪えなければならなかった。
「単刀直入に申し上げますと、王妃になる気はございませんか?」
「…」
「…」
「…」
「レジーナ様」
「…え、は?」
「貴女に申し上げているのですよ。後ろには誰もいませんから」
レジーナがメイソンの言葉を理解するのに必要とした時間は、ものの数秒であったが彼女にとっては長い時間 時が止まったかのように感じられた。王妃、王妃とは。レジーナは無意識に後ろを振り返ったが、メイソンの言う通りそこには誰もいなかった。
読んで頂きありがとうございました。