指嗾(しそう)
お待たせしました。
深夜。汗明は、軍の本陣で一人、酒に溺れる賢帥の前にいた。
この日の夕刻、賢帥は父・賢志より、鵬国への援軍の「総大将」を命じられた。だがそれは名ばかりで、実権は副将に握らされるという屈辱的なものだった。歪んだ自尊心を傷つけられた賢帥は、出陣の準備も放り出し、怒りに任せて盃を煽っていたのである。
「これはこれは、総大将閣下。お祝いに駆けつけましたぞ」
汗明の言葉に、賢帥は真っ赤な顔で嘲笑した。
「ハッ! 総大将だと? 笑わせるな。俺は父上に、飾り物になれと言われたのだぞ!」
「……左様でしたか。では、やはりあの『噂』は真実だったのですね……」
汗明がわざとらしく漏らした独り言に、賢帥が食いついた。
「噂だと? 何だ、それは!」
「……斉賢殿が、なぜこの大事に王都に残されるのか。それは、賢帥様を戦地で亡き者にし、その隙に斉賢殿を立太子させようという一派が、国王様を抱き込んだという噂にございます」
「何だと……ッ!」
酒で判断力を失った賢帥に、汗明の毒が回る。狼狽する賢帥の前に、汗明は突如として地にひれ伏した。
「私は、賢帥様こそが次期国王に相応しいと確信しております! 今や兵権は貴殿の手中にあり。ならば、現国王様にはご隠居いただき、穏やかな余生を過ごしていただくべきではございませぬか!」
それは明白な「王位簒奪」の誘いだった。激昂した賢帥が剣に手をかけるが、汗明は肌を脱ぎ、自らの心臓をさらけ出して迫った。
「お切りください! 貴殿が王になれぬというなら、私は生きていても無意味! さあ!」
人たらしの汗明による、命懸けの熱演。もはや賢帥に抗う術はなかった。彼は己の野心を「父への親孝行(隠居勧告)」という身勝手な理由ですり替え、涙を流して汗明を抱きしめた。
賢帥の肩越しに、汗明の口元には、獲物を仕留めた蛇のような冷酷な笑みが浮かんでいた。
◇
一方、崑国の別宅。陽明が固唾を呑んで見守る中、脩璃とオユンが対峙していた。
「修よ、そなた知っておったな。我が北狄が攻め込んだことを」
にこやかな表情を消した脩璃に、オユンはさらに畳み掛ける。
「とぼけるな! お主は商人ではない。一体何者なのだ!」
陽明が割って入ろうとしたその時、脩璃が静かに、だが揺るぎない威厳を纏って口を開いた。
「……私は、元麟国第五皇子にして、現鵬国王。名を、麟脩璃といいます」
沈黙。
陽明が「ああ、ついに言ってしまった……」と言わんばかりに顔を覆う。対するオユンは、狐につままれたような顔で硬直していた。
「嘘ではありません。こちらの方が、我らが主、鵬国王様です……」
陽明の追い打ちに、オユンの顔が痙攣し、次の瞬間。
「ギャァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!」
屋敷の瓦を揺らすほどの絶叫が響き渡った。
あまりの悲鳴に、庭で訓練していた華鳳と阮が、部屋で茶を飲んでいた慧軻が、慌てて部屋に飛び込んできた。
彼らが目にしたのは、困り果てた顔の脩璃と陽明。そしてその足元で、あまりの衝撃に白目を剥き、股を広げたまま仰向けに倒れてピクピクと痙攣しているオユンの無惨な姿であった。
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