撤退に迫りくる危機
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柏陽長城は、北狄と鵬国を隔てる険峻な山脈の切れ目に築かれた、文字通りの要衝である。左右を切り立った崖に守られ、中央には高さ三十メートルの城壁が、敵を拒むように力強く張り出している。
城壁へと至る三キロの道は漏斗状に狭まっており、大軍の展開を許さない。まさに、一夫関に当たれば万夫も開くなからんという難攻不落の要塞であった。
将軍・楊梧桐の執務室には、紫苑が極秘裏に作成させた詳細な地図が広げられていた。牛皮ではなく、麟国から仕入れた革新的な「紙」に描かれたそれは、等高線までもが克明に記されている。
「一同、これより対北狄の作戦会議を開始する!」
梧桐の宣言に、並み居る将軍たちが鋭い眼差しを向けた。
「輜重は?」
「食糧、油、矢。すべて十分です」
「よし。朔北砦からの帰還兵を収容するため、騎兵三千を直ちに出撃させよ。一人残らず長城へ迎え入れるのだ!」
◇
その頃、朔北砦を脱出した三百余名の兵たちは、極限の淵にいた。丸二日の不眠不休。水も食糧も尽き、地平線に霞む柏陽長城が絶望的に遠く感じられた。
「……俺はもう、ここまでだ。先に行ってくれ」
一人の兵卒が膝をつき、そのまま地面に倒れ伏した。周囲の兵たちも、もはや声をかける余力すらない。その時、隊長が倒れた男の胸倉を掴み、問答無用で拳を叩き込んだ。
「痛えじゃねえか! 何すんだ!」
「立て! 俺たちの命は俺たちだけのものじゃない。お前がここで倒れれば、故郷の家族はどうなる! 男は殺され、女は犯される。そんな光景を指をくわえて見ているつもりか!」
隊長の凄まじい形相に、兵たちは再び意識を奮い立たせた。
「……安心しろ。この先に梅林がある。まだ実が残っているはずだ。そこまで行けば水にありつけるぞ!」
その言葉に、兵たちは乾ききった喉に生唾を飲み込み、重い足を再び踏み出した。実際にはそんな梅林などない――それは、兵たちの脳にわずかな水分を分泌させるための、隊長の悲壮な嘘であった。
◇
さらに数時間が経過した。ついに北の空を揺るがすような地鳴りが聞こえ始めた。北狄の騎馬隊が放つ、無数の蹄の音だ。
「隊長……聞こえるか」
最後尾にいたあの兵卒が立ち止まった。隊長もまた、耳を澄まして絶望を悟る。
「……追いつかれたか。おい、お前たちは走れ! 精一杯の速さでここを離れるんだ!」
隊長は一人、敵を迎え撃つべく踵を返した。
「隊長、あんたも急げよ!」
「俺はこの隊の責任者だ。お前たちを逃がすのが仕事だ。いいから行け! そして、俺の分まで生きろ」
死を覚悟した男の顔は、驚くほど穏やかだった。兵卒は目から溢れる涙を拭う暇もなく、隊長の背に一礼し、再び走り出した。
◇
テゥルクの怒りは頂点に達していた。毒酒によって無残に死んだ部下たちの報復、そして自分をコケにした鵬の知略への苛立ち。
「いたぞ……鼠どもめ。千人将、全軍突撃! 一人残らず蹂躙せよ!」
北狄の精鋭たちが、牙を剥いて逃げる小隊へと襲いかかった。
あの兵卒は、もう一歩も動けなかった。石に躓き、仰向けに倒れ、死を待つために目を閉じた。地響きが背中を揺らし、馬の影が通り過ぎていく。
(ああ、故郷のみんな……父ちゃん、母ちゃん……)
覚悟を決めて目を開けた。だが、そこに見えたのは、血に飢えた北狄の兵ではなく、見慣れた鵬国の重装鎧であった。
「おい、しっかりしろ! 生きているな!」
屈強な騎兵が、兵卒をひょいと馬上に担ぎ上げた。
「た、隊長が……後ろに、隊長が残ってるんだ!」
「分かっている! 仲間がそっちへ向かった。安心しろ、今から柏陽長城へ帰るぞ!」
救出の騎兵隊三千が、怒涛の勢いで北狄の先鋒へと突っ込んでいく。逆転の喚声が荒野に響き渡った。
次回の更新は12月15日(予定)です。
作中の梅林の話は、〝梅を望んで渇きを止む〟という故事に題材をとっています。元々は三国志の英雄の一人、曹操孟徳の機転によるものです。




