北狄の王
脩璃が崑国へ向けて発つ少し前。
鵬国の北方に広がる、道なき草原「北狄」の地を、一台の馬車がひたすら北へと進んでいた。点在するゲル(遊牧民の住居)を訪ね歩き、商人が探し求めていたのは、北狄の王「単于」の居所だった。
「ここから馬で二週間。そこが単于のゲルだ」
「恩に切ります。単于様には、ぜひ見ていただきたい秘宝を持って参りまして」
商人は礼を言い、再び北へと舵を切った。
二週間後。大地を揺らす蹄の音が響き、小高い丘から騎馬兵の集団が砂塵を上げて現れた。包囲された商人は、動じるどころか口角をわずかに上げた。
「商人のふりをした鵬国の間者ではないのか?」
隊長の糾弾に、男は恭しく首を振った。
「とんでもございません。私は戦いなどできぬ身。ご覧ください、このように左腕がございませぬ」
男は空の袖を見せ、馬車から一つの木箱を取り出した。隊長が中を確認すると、そこには陽光を浴びて煌めく「瑠璃の皿」があった。
「……ほう、これほどの品は見たことがない」
◇
騎馬兵に連れられ、商人は巨大な王のゲルに辿り着いた。
中から現れたのは、白い毛皮を纏った浅黒く屈強な男。北狄を統べる単于である。
「お前か。美しい皿を持ってきたという商人は」
単于が手にとった瑠璃は、草原の強い光を透過し、幻想的な輝きを放った。
「これは鵬国で新たに作られるようになった瑠璃という宝にございます。単于様にこそ相応しいと考え、参上いたしました」
「鵬国だと……?」
単于の隣にいた息子のテゥルクが耳打ちした。「父上、こ奴はただの商人です。怪しい点はありませぬ」
単于は不敵に笑い、金貨を数枚、商人の足元に投げ捨てた。
「代金だ。受け取って失せろ」
「そ、そんな! これでは大損でございます!」
食い下がる商人の首筋に、テゥルクが即座に刃を突き立てた。
「命より大事なものがあるのか? 今ならまだ、生きて鵬へ帰してやるぞ」
商人は腰を抜かし、無様に地面を這いずった。その姿を見た北狄の戦士たちは、腹を抱えて大笑いした。
「臆病者め! 二度と来るな!」
商人は慌てて馬車に飛び乗り、背後の笑い声を逃れるように走り去った。
だが。
見えなくなるまで遠ざかった時、商人の顔から恐怖の色が消えた。
その口元には、冷徹な、不敵な笑みが浮かんでいたのである。
一方、ゲルの中。
「美しいな、この瑠璃は。テゥルクよ、お前ならどうやってこれを手に入れる?」
「……奪う。それ以外にございません」
「ふふ、久々に鵬を荒らしにいくか。女たちへの土産にも良かろう。戦の準備だ!」
魏封が放った「餌」は、見事に飢えた狼を呼び寄せた。北狄の侵攻が、静かに始まろうとしていた。
◇
その頃、脩璃一行は玄河の水運を利用し、東へと進んでいた。
太原を出て一週間。到着したのは、水運の中継都市・臨光である。かつては汚職と悪徳商人が跋扈していたが、脩璃が任命した新たな尹(長官)・斉門瓢によって、劇的な変化を遂げていた。
斉門瓢を象徴する事件がある。
かつてこの街では、「玄帝」なる水神を鎮めるため、乙女を生贄として川に投げ込む悪習があった。それを執り行っていたのは、三人の老婆たち。
「生贄が必要なら、あなたたちが直接神に聞いてきなさい」
門瓢はそう言い放つや、老婆たちを次々と玄河へ投げ込んだ。
「どうやら、神は老婆たちがお気に召したようだ」
一滴の血も流さず、門瓢は悪習を根絶した。調査の結果、老婆たちが生贄を免れる代償として親たちから大金を巻き上げていたことが発覚し、街の膿は一気に掃き出されたのである。
そんな正義の気風が満ちる臨光の街で、脩璃たちは長旅の疲れを癒やすべく宿を求めたのだが――。
本話の後半で書きました斉門瓢の話は私の創作ではなく、司馬遷の史記に記載されている中国戦国時代の西門豹という人物の話を引用したものです。
また名前の言い換えに関しては、以前に秦明様よりいただいたアイデアを使わせていただきました。




