母は強し
太原から馬を走らせること二日。奉師は、懐かしき故郷の山道を辿っていた。
険しい峠を越え、くねくねと曲がる山道を振り返る。かつて志を抱いて都へ向かった時と変わらぬ風景が、そこにはあった。
「おい。お前は、奉師か?」
背後から響いた、聞き覚えのある野太い声。振り返れば、そこには農夫と見紛うような、五十半ばの男が立っていた。
「父上。ただいま戻りました」
奉師は深く揖礼した。
「……本当に奉師なのか。お前がここへ来るということは、とうとう官吏を辞したか?」
「いえ。相変わらず、相国のままです」
奉師の声に、いつものふざけた調子はない。あの「食えないしゃべり方」は、かつて明鵠一派の目を逸らすために演じ始めたものだった。父の前でだけは、真面目な息子に戻るのである。
◇
十五年ぶりの帰宅。藁ぶき屋根の家の前で、父が「かあさん、奉師だぞ!」と声を上げた。飛び出してきた母は、立派になった息子の姿に、言葉にならぬ涙を流して彼を抱きしめた。
家の中に入り、お茶を囲んで向き合う父子。口火を切ったのは奉師だった。
「先王・紫明様が崩御されました。今は麟国の第五皇子、麟脩璃様が入婿され、新国王となられています」
父・玄李志は目を閉じ、言葉を詰まらせた。
「お労しや先王様。お体が丈夫であれば、明鵠の専横など許さなかったものを……」
「父上。その明鵠も、十日ほど前に死にました。新王に謀反を起こし、敗れたのです」
「何……! 十歳の子供と聞いていたが、それほどの英傑なのか?」
驚く父に、奉師は脩璃がいかにして戦を制し、今まさにこの国を豊かにしようとしているかを説いた。
「王は今、新産業を統括する志ある者を探しておいでです。……父上、力を貸してください」
「私がか!? 私は中央の権力争いに嫌気がさし、地方役人を辞した身だ。今さら世俗に関わるつもりはない」
突っぱねる父に、奉師は真っ向から挑んだ。
「学問は民の中にある――そう教えたのは父上ではありませんか! 銀盤宮が泥にまみれていたのは過去のこと。今の王は、自ら泥を掻き出し、蓮の花を咲かせようとしています。清廉を気取って隠居し、民の苦難を見捨てる。それが父上の言う学問ですか!」
「……」
反論できぬ父に、母が家の奥から一着の装束を持ってきた。かつて父が着ていた地方役人の古びた服だ。
「あなた、あなたの負けですよ。老いては子に従うものです」
母がその装束を父の肩に掛けると、李志はフッと自嘲気味に笑い、椅子から立ち上がった。
「……承知した。玄相国。私、玄李志は国王・脩璃様のもとへ参陣いたそう」
◇
一週間後の銀盤宮。奉師に連れられ、李志は脩璃の前に立っていた。
「このたびぃ~新事業を監督する人材をお連れしましたぁ~」
都に戻った途端に始まった息子の奇妙なしゃべり方に、李志は頭を抱え、ソワソワと落ち着かない。脩璃が「どうかしましたか?」と尋ねると、李志は申し訳なさそうに言った。
「いえ……不徳な息子の言動に、少々目眩がいたしまして……」
「アハハ! 父上は真面目すぎますねぇ~」
奉師が父の経歴と、なぜ彼が適任なのかを説明した。民の心を知り、先入観なく新しい技術を広められる男。陽明も「彼なら適任です」と太鼓判を押した。
「玄李志殿。民のため、この大役を引き受けてくれますか?」
脩璃の威厳ある問いかけに、李志は迷いなく平伏した。
「承りました! この命、民と鵬国のために捧げます!」
「では、そなたを新たな官職『撫育祭酒』に任じる。これを授けよう」
陽明が差し出したのは、黒く染められた「木綿」の官服だった。袖を通した李志は、その軽さと肌触りの良さに驚愕した。
「これこそが、あなたが広めるべき新しい布――木綿です。脩璃様が自ら開発されたものですよ」
「……素晴らしい。必ずや、この布を鵬国の隅々まで定着させてみせます!」
◇
その頃。北の辺境、柏陽長城。
相俊はようやく目的地に到着していた。
「国王様からの勅書をお持ちした! 大司馬・岳紫苑殿に取り次げ!」
案内された部屋には、十人ほどの将軍が並び、その上座に六十ほどの老人が座っていた。彼こそが鵬国の軍の柱、岳紫苑である。
手渡された「紙」の手紙を珍しそうに眺めていた紫苑だったが、その内容を読んだ瞬間、ニコニコしていた目が見開かれた。
「……皆の者、静まれ! 明鵠が死んだぞ!」
その一言で、長城の静寂は怒濤のような騒然へと変わった。




