敵の名将
薛城の内は、狼狽に包まれていた。来るはずがないと高を括っていた新王の軍が、電光石火の速さで姿を現したからだ。
「クソ、あ奴め。なぜこれほどの速さで軍を出せたのだ!」
明鵠が盃を床に叩きつける。有能な者であれば「背後にどれほどの組織力が隠れているか」を危惧する場面だが、彼にそれを望むのは酷というものだった。
そんな主を宥めるように、圭角が言葉を添える。
「ご安心を、明鵠様。付け焼き刃の軍など、動かすことすらままなりませぬ。こちらには、あの稜厳殿がおりますれば」
その名を聞き、明鵠の顔に卑屈な笑みが戻った。
「そうであった。稜厳であれば、あのいい気になっているガキどもを一挙に滅ぼせよう!」
欧稜厳。四十歳手前、身の丈百八十センチを超える偉丈夫であり、北方の蛮族を幾度となく退けてきた鵬国屈指の名将である。
群衆を割り、頭一つ抜けた巨躯が歩み寄る。
「稜厳。あの軍をどう見る?」
仰々(ぎょうぎょう)しい明鵠の問いに、稜厳は膝をつき、冷静に答えた。
「決して侮れません。編成の迅速さ、そして我々の拠点を特定しているその情報網……注意が必要です」
「なに、慎重すぎますな」
圭角が鼻で笑った。
「名将と名高い貴殿が、子供相手に負けるとでもおっしゃるのか?」
「……負けるとは申しておりませぬ。警戒せよと言っているのです」
脩璃を好敵手と認めるような稜厳の物腰に、明鵠はいらだちを爆発させた。
「ええい、能書きはよい! 稜厳、直ちに出撃せよ。あのガキに一泡吹かせてまいれ!」
「……承知いたしました」
稜厳はそれ以上何も語らず、静かに退座した。
広場へ向かう稜厳に、若い武将が軽薄な足取りで近づいてきた。
「兄貴、浮かない顔っすねぇ?」
「相俊。お前は呑気でいいな」
一見チャラそうなこの男は、かつて稜厳が拾った孤児であり、今や彼の右腕を務める猛者だ。
「ゲッ、兄貴。また貧乏くじ引いたんでしょ?」
「……うるさい。さっさと軍をまとめろ」
稜厳がこの反乱に加担したのは、忠誠心からではない。度重なる国境警備で火の車となった欧家の財政を支えるため、明鵠から多額の借財をしていたからだ。武人としての矜持と、台所事情という無情な現実の間で、名将は苦い汁をすすっていた。
◇
城門が開き、稜厳の軍が姿を現した。
馬上の脩璃は手を額にかざし、遠くを見つめる。
「……華鳳。あれをどう見る?」
「羊が牧羊犬に追われているようなもんだな。歩兵が仕方なく歩かされている」
「言い得て妙だね。だが……それこそが敵の策略かもしれない」
慎重な脩璃に対し、華鳳がニヤリと笑う。
「『兵は拙速を貴ぶ』だ。小手先で勝負するより、正攻法でいこうぜ」
脩璃は二千の歩兵を横隊に配置し、ゆっくりと前進を開始させた。
ドッドッドッ、という地響きのような足音が、稜厳の軍を威圧する。十分な訓練を受けていない明鵠の歩兵たちは、その気迫に呑まれ、次第に後ずさりを始めた。
脩璃がさらなる警戒を強めた次の瞬間――。
稜厳の歩兵たちは蜘蛛の子を散らすように中央から割れ、一目散に城へと逃げ帰っていった。
「あら……?」
脩璃が間の抜けた声を漏らす。
「王様、追撃のお許しを!」
騎兵の将軍が身を乗り出すが、脩璃はきっぱりと拒絶した。
「だめだ。深追いは罠の可能性がある。陣を『くの字』に広げて待機せよ。敵を逃がしてやるんだ」
城門が閉ざされ、静寂が戻った。
最後まで殿を務めた稜厳は、追ってこない脩璃の陣容を見て、一つ息を吐いた。
「……敵は乗ってきませんでしたね。賢明なことだ」
相俊の言葉に、稜厳は複雑な表情で頷いた。
城内に戻った稜厳を待っていたのは、明鵠の罵声だった。
「稜厳! なぜ戦わなかった!」
「……恐れながら、敵の器を探らせていただきました。その結果、申し上げます。この戦、こちらの負けにございます」
大勢の前で言い放たれた言葉に、明鵠の怒りが沸点を超えた。
「このたわけ者が! 我が陣に臆病者はいらぬ。誰か、この男を牢へ叩き込め!」
両腕を抑えられながら、稜厳は抵抗することなく冷えた牢獄へと引き立てられていった。
名将を失った城内に、暗い影が落ち始める。




