奉師の覚悟
奉師が投獄されてから、十日余りが過ぎた。
暗く冷たい牢内でじっと座り続ける中、彼はこれまでの自身の半生を静かに反芻していた。
幼き頃、父は出世に無縁な地方役人であった。だが父は無学どころか、国で一、二を争う学識の持ち主だったと奉師は今でも確信している。竹簡も見ずに経典をそらんじる父の言葉を、奉師は「素読」によって心に刻み込んでいった。
十二歳で太学に進み、主席となった奉師は、ある時自信満々に父へ学問の進歩を自慢した。しかし、庭の草取りをしていた父は一瞥もくれず、吐き捨てるように言った。
「奉師。お前の言う学問は、ただの知識の寄せ集めだ。己の自慢にしか使わぬそれは、竹簡の文字に縛られた奴隷に過ぎん」
呆然とする奉師に、父はさらに言葉を継いだ。
「学問は文字の中だけにではない。庭の草、川の流れ、風の息吹……そして何より、民の生活の中にこそ生きた学問がある。それを見つけられぬ者に、国を語る資格はない」
その言葉に撃たれた奉師は、一から学問をやり直す決意をした。今の彼があるのは、あの日の父の叱咤があったからこそだった。
「……生きた学問、か。少しは近づけたでしょうか、父上」
そんな折、牢の鍵が開く乾いた音が響いた。「出ろ」という獄吏の短い命令。長い拘束で麻痺した足を引きずり、奉師は強引に外へと連れ出された。
◇
処刑場となる広場には、木造の巨大な断罪台が設えられていた。その脇には巨大な斧を手にした処刑人が立ち、台の上からは明鵠が勝利を確信した笑みで奉師を見下ろしていた。
太鼓の音が止み、明鵠が嫌味たらしく声をかける。
「玄奉師よ。最期に言い残すことはあるか?」
「明鵠様。どうか一言だけ、皆に申し上げたい……」
奉師の懇願に、明鵠は余裕を見せて縄を解かせた。
その瞬間、奉師の瞳に鋭い光が宿った。彼は明鵠に背を向け、下に集まった官吏たちへ向かって咆哮した。
「諸君! 明鵠のごとき愚か者に、この鵬国は屈せぬ! 私が死しても新たな義士が立ち、いずれ正義がなされるだろう。明玉様と、その伴侶たる新たなる王によって、鵬国は必ず再興する! 私はそれを天から見守らせてもらう!」
罵倒する者もいた。だが、多くの官吏が拳を握り、涙を堪えてその言葉を胸に刻んだ。
激昂した明鵠が処刑を命じる。獄吏の手を振り払い、奉師は泰然と処刑台に首を横たえた。
「古より誰か死なからん! 丹心を留めて汗青を照らさん!」
(昔から死なぬ者などいない。私の真心を歴史に刻み、後世を照らそう)
処刑人が斧を振り上げた、その時――。
「その処刑、お待ちあれ!」
群衆を割り、一人の男が台へと駆け上がった。獄吏を瞬時に投げ飛ばし、奉師の傍らに立ったその男は、「破玉の赤」であった。
「お主は何者だ!」
明鵠の叫びを遮るように、赤は脩璃から預かった勅書を高く掲げた。
「私は、鵬国王の使者! 玄奉師殿を解放しに来た!」
詰め寄った官吏が「間違いありません、本物の国璽です!」と叫ぶと、広場は騒然となった。
「デタラメを言うな、国璽はここにある!」
逆上した明鵠が懐から偽造した璽を取り出した。赤はここぞとばかりに畳みかける。
「自ら正体を現したな、明鵠。簒奪者がなぜ璽を持っている? それが偽造である証拠だ!」
群衆から石が投げられ、場は混乱の渦に包まれた。赤は奉師に肩を貸そうとする。
「今です、奉師殿。この混乱に乗じて脱出を!」
しかし、奉師はその手を静かに、だが力強く振り払った。
「お若い方。お名前は?」
「……赤。新国王となられる、麟国第五皇子・脩璃様の臣にございます」
奉師は満足げに微笑み、再び断罪台に首を置いた。
「ならば皇子にお伝えください。――鵬国の未来、しかと受け取った。あとはお任せする、と。……私がここで死ぬことで、明鵠の罪は永遠に贖えぬものとなる。それが、私がこの国に残せる最期の『生きた学問』なのです」
男の覚悟に、赤は息を呑み、動くことができなかった。




