明玉の決意
銀盤宮の紫明の寝室には、血の匂いと薬草の香りが混じり合い、侍医たちが慌ただしく出入りしていた。明玉は父の手を握りしめたまま、微動だにせずその傍らに寄り添っていた。
一方、執務室の奉師は、眉間に深い皺を刻み、腕を組んで唸っていた。
昨夜、侍女が運んだ水を一口飲んだ紫明が、突如として血を吐き、意識を失った。毒である。侍医の迅速な処置で一命は取り留めたものの、犯人の侍女はその混乱に乗じて姿を消し、のちに毒をあおって死んでいるのが発見された。
「……私の想定が甘かったか」
奉師は唇を噛みしめた。余命幾ばくもない王を、これほど安直な手口で仕留めに来るとは。明鵠の凶行は、奉師が描いていた「二年半後の入婿」という計画を根底から突き崩した。
幸い、紫明の容体は安定した。真っ赤に目を腫らした明玉が寄り添っていると、紫明の唇がかすかに動いた。彼女はそっと父の口元に耳を寄せる。
「………………」
その言葉を聞いた瞬間、明玉の瞳が大きく見開かれた。だが、彼女はすぐにいつもの氷のような冷静さを取り戻し、父の手をそっと布団の中へ戻した。
部屋を出た明玉は、その足で奉師のもとへ向かった。
「奉師、相談があるのだけれど」
「王は、なんと?」
奉師が薄く目を開ける。明玉は無言で、握りしめていた右手を開いて見せた。
(――それは、国王の璽……!)
紫明は、自らの命に限界を感じ、歴代国王のみが所持を許される王の証を密かに娘に託したのだ。
奉師は再び目を閉じ、深く思考を巡らせた。そして、静かに問いかけた。
「……明玉様。麟国へ行くおつもりですね?」
明玉は溢れそうな涙を堪え、静かに、しかし決然と頷いた。
「分かりましたぁ。後のことは、この私がどうにでもいたしますぅ。お供は、信と貫が適任でしょうねぇ」
奉師の優しい微笑みに見送られ、数日後の深夜。銀盤宮から三つの影が忽然と姿を消した。
◇
一方、麟国では慶事が続いた。皇太子・秀史に長男が誕生したのだ。
祝宴の喧騒がようやく落ち着いた頃、脩璃は陽明を伴って兄のもとを訪れた。
「可愛いですねぇ。兄上もついに父親ですか」
眠る赤子を眺めて頬を緩める脩璃に、秀史はいたずらっぽく笑った。
「そうだな。だが脩璃、お前もすぐだぞ。二年後には、お前も嫁をもらうのだからな」
「……え、僕が、嫁を?」
赤子に気を取られていた脩璃の思考が停止した。数秒後、その意味が脳内に浸透すると同時に、彼は椅子から飛び上がった。
「えぇぇぇぇぇ!? 兄上、どういうことですか!?」
慌てふためく弟に、秀史は表情を引き締めて説明を始めた。
「相手は鵬国の長女だ。鵬国はいま、存亡の危機にある。……父上も私も、あそこを救えるのはお前しかいないと考えている」
前世も含め、「結婚」という二文字に全く縁がなかった脩璃は、当初はソワソワと浮き足立っていたが、話が進むにつれ、それが「血の通わぬ政略」であることを悟り、顔を曇らせた。
「……だが、鵬国で苦しむ民のためだ。これも麟国の皇子としての務めだと思ってくれ」
兄の言葉に、脩璃はかつての「自分にできることを行う」という覚悟を思い出した。彼は不安げに陽明を振り返る。
「陽明……一緒に、来てくれるかい?」
「もちろんですとも、脩璃様」
変わらぬ笑顔に勇気をもらい、脩璃は海を越えた先にある未知の国、鵬国への準備を始めた。
◇
その頃、銀盤宮。明鵠は奉師を呼びつけ、苛立ちを露わにしていた。
「玄相国! 明玉が姿を消したと聞いたが、どういうことだ!」
「おやおやぁ、また城外へ視察に行かれたのでしょう。あの方は活動的ですからねぇ」
「兄上も兄上だ! 早く儂に実権を譲れば、毒など盛られずに済んだものを!」
明鵠の不用意な発言に、奉師の瞳から「殺気」が漏れた。
「……それは聞き捨てなりませんねぇ。相国の目の前で、不穏なことをおっしゃる」
その冷徹な迫力に気圧され、明鵠は「失言であった」と顔を引きつらせて引き下がった。
◇
銀盤宮から南へ三十キロ。
脱出した明玉たちが目にしたのは、山賊に襲われ、骸が転がる凄惨な村の跡だった。かつて故郷で家族を殺された信と貫は、静かに拳を握りしめる。
絶望的な光景に、明玉の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……絶対にお守りする」
信と貫は、自分たちのために泣いてくれるこの気高き王女を、死んでも守り抜くことを改めて誓った。
荒廃した大地に、一陣の風が吹き抜ける。それは、滅びゆく国が、のちに救世主となる少年へ送る「導きの風」のようであった。




