国書と涙
麟国で脩璃が応明の私塾に通い始めた頃。北方の鵬国――その都・太原にある「銀盤宮」の廊下を、一人の少女が風を切って歩いていた。すれ違う侍女たちの会釈にも目もくれず、彼女はある一室を目指していた。
「父上、失礼します」
承諾を待たず扉を開けた。広い寝所の奥、医師たちに囲まれ、青白い顔で横たわっている男がいた。鵬国王・鵬紫明である。
少女はその枕元に膝を突いた。
「父上、お呼びによりただいま参上いたしました」
声をかけたのは、紫明の愛娘・鵬明玉。透き通るような白磁の肌に、理知的な光を宿した瞳。国中の者が「将来は天下を揺るがす美女になる」と噂する美貌の持ち主だが、彼女の本質はその容貌ではなく、辣腕な頭脳にある。病床の父に代わり、相国・玄奉師と共に、崩壊の淵にあるこの国を支える最重要人物であった。
紫明は医師たちを下がらせると、震える手で一通の手紙を差し出した。
「これを見よ。麟国から返書が届いた。……皇子の入婿が、正式に受諾された」
「それは……真でございますか」
差し出されたのは、竹簡ではない。初めて見る、白くしなやかな「紙」というものだった。明玉は流麗な筆致で綴られた国書を読み進めるが、ある一節でその視線が凍りついた。
「麟国の皇子・脩璃。……この『紙』という代物を、わずか五歳で発明した不世出の神童、とありますわ。父上、これは麟国の誇張ではございませんか?」
「余もそう思いたい。……だが、たとえどのような男であろうとも、今の鵬国には彼が必要なのだ。明玉よ、あやつが神童なら共に手を取り、この国を救え。もし……無能な器ならば、軟禁してでもお前が国政を握り続けろ」
消え入りそうな声で、紫明は娘の手を握った。
「お前には苦労をかける。恨むなら、この無能な父を恨め……」
「父上を恨むなど……。私の故郷はこの鵬国。この国を救うためなら、私は何者とも手を結びますわ」
その言葉に安堵したのか、紫明は再び眠りに落ちた。
部屋を出た明玉の頬を、一筋の涙が伝う。だが、感傷に浸る時間は与えられなかった。
向こうから、贅を尽くした衣服に身を包んだ恰幅の良い男が、傲岸な態度で歩いてきた。叔父の鵬明鵠である。
「おお、明玉か。聞いたぞ、麟国のガキを婿に迎えるそうだな。まあ安心せよ。兄上が動けぬ間、この叔父が国を支えてやる、ハッハッハ!」
明玉は表情を殺して深く頭を下げ、立ち去る男の背中を見送った。その唇は、屈辱のあまり白くなるほど噛み締められていた。
この明鵠こそ、鵬国を廃墟寸前まで追い込んだ元凶である。王族の権威を盾に私腹を肥やし、諫言する忠臣を惨殺し、阿諛追従する佞臣のみを重用した。現在の明玉に、真っ向から彼と戦う力はない。
この「入婿」という一手こそ、叔父の専横を止めるための、最後にして唯一の賭けであった。
◇
自室に戻った明玉は、麟国からの国書を火に翳し、再び読み返した。
『――皇子・脩璃、齢七歳につき、入婿の執行を五年後とする。よろしく準備万端整えるべし。』
「七歳。……五年後でも、わずか十二歳……」
明玉は深いため息をつき、夜風の吹き抜ける窓の外を見つめた。
期待と、それ以上に深い不安。五年の猶予は、この国が持ち堪えられる限界の時間でもあった。
「神童……。異国の少年よ。あなたは本当に、この闇を照らす光となってくれるの?」
遥か南、麟国の空を見上げる彼女の横顔には、国を背負う者特有の、深く暗い陰影が落ちていた。




