懐かしの味
「そうだ、今日は庖厨所に行かなきゃいけなかった! 梅花、行くよ!」
脩璃は両頬をパンと叩いて気合を入れると、梅花を引き連れて走り出した。
道中、すれ違う官吏たちが一斉に仰々しく頭を下げる 。「さすが皇子、立場ってのは凄まじいな。前世の取引先の専務より腰が低い」と、かつての課長時代には考えられなかった光景に苦笑しながら、二人は目的の場所へと到着した 。
「おーい、万福はいるか?」
声を上げると、奥から猛烈な勢いでこちらへ突進してくる少年がいた。
十四、五歳 。布袋様のようなふっくらとしたお腹を揺らし、丸顔を汗で光らせた少年――万福である 。一年前、下働きだった彼の中に「絶対味覚」の才能を見出したのは脩璃だった 。今や彼は、料理長公認の「脩璃様専用・料理担当」である。
「ゼー、ハー……お待たせ、しました、脩璃様っ!」
息を切らしながらも、万福は満面の笑みで出迎えてくれた 。
脩璃が彼をここまで重用したのには理由がある。この世界の食事に対する、切実な不満だ。
麟国の料理は、素材は良いが味付けが単調すぎる。塩か、酢か、あるいは「味噌」と称する塩辛い豆の塊か 。初めてその「味噌」を口にした時の絶望感といったらなかった 。
(日本人の舌を舐めちゃいけない。無いなら作る。それが商社マンの、いや、転生者の意地だ!)
「脩璃様、ついに完成しました。……これです」
万福が恭しく甕の蓋を取った。
白い小皿に注がれた、透き通った茶褐色の液体。脩璃が鼻を近づけると、ふわりと、それでいて力強い「あの」香りが立ち上った。
(……これだ。日本人なら誰もが抗えない、遺伝子に刻み込まれた香り)
大豆が発酵し、熟成した芳醇な香り――間違いなく、本物の醤油だ。
「……いい香りだ。味はどうだ?」
指を浸し、舌に乗せる。
鋭い塩気のあとに、じわりと広がる濃厚な旨味。
「うん、うまい! これだ、万福、最高だ!」
脩璃が万福の肩を叩いて喜ぶと、万福の丸い顔がこれ以上ないほどに綻んだ。味見をした梅花も「まあ、なんて複雑で深いお味……」と目を丸くしている。その驚き顔の美しさに、万福が顔を赤くしているのが微笑ましい。
「よし。これがあれば、ようやく『あれ』が作れるな」
「……えっ、醤油を作るのが目的ではなかったのですか?」
「甘いぞ万福! これはまだ『最強のタレ』を構成する一つのパーツに過ぎない。さあ、次の材料を揃えてくれ!」
脩璃の指示で、調理台に次々と食材が並ぶ。 ニンニク、胡麻油、胡麻、リンゴに似た果実、玉ねぎ、蜂蜜、生姜。
それらをすり潰し、醤油と共に鍋で火にかける。
しばらくすると、食欲を暴力的に刺激する香ばしい匂いが庖厨所いっぱいに充満した。仕事帰りの駅前で嗅いだら、抗わずに店へ吸い込まれるあの魔力だ。あまりの「良い匂い」に、料理長までもがふらふらと吸い寄せられてくる。
「脩璃様……これはいったい?」
「まあ見ててよ、料理長」
煮詰まったドロリとした茶色の液体を、小皿ですくって冷ま。
確信を持って、それを口にし。
「……これだ!!」
これこそが、宇都宮隆が前世で母から教わった、実家秘伝の「焼肉のタレ」の味だ。
驚愕の表情でタレを舐める料理長、万福、そして梅 。
「これは……肉料理の歴史が変わるかもしれません……!」
料理長が震える声で呟いた。
のちに宮廷内で一大ブームを巻き起こし、多くの人々を虜にする「魔法のタレ」。
だが、食生活を豊かにしようと奔走したこの発明が、のちに国家を揺るがす「ひと騒動」の引き金になるとは、今の脩璃はまだ知る由もなかった。




