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単色の虹(リライト版)

作者: 一兎

白黒の映画がそうであるように、黒という色から我々はさまざまな色を想うことができる。しかし、赤や、青の色から他の色を想うことはむずかしい。

―― 安野光雅「空想工房」


 今日は学校へ行くのは止そう。私は玄関のドアを閉めた。外は雨が降っている。私は生物ように靴下へとはい上がってくる水の冷たさを想起した。

 部屋には澱んだ臭気が漂っている。なんてことはない、動物を飼っていれば、悪臭がするのは当たり前。その動物はもう死んでしまったが、私は心から愛していた。雄のハムスター、空のケージはいまだに部屋に置かれたまま、ただ佇んでいる。私は髪をほどき、制服にしわがつかないようにクローゼットに掛けた。

 母が部屋のドアをノックせずに開け放つ。

「学校は?」

「風邪気味だから」

 聞く耳を持たない母に促され、食卓に引っ張り出される。「薬を飲んで寝なさい」だって。仮病だよ、気づいているだろうにいやらしい。母は作業的に私の面倒を見る機械、父の言いなり。父は私に要求ばかりし、失敗には手痛い罰、拳を振りかざす。たまには褒めてみろよ。学校に「行かされている」身にもなってみろ。唾がフローリングを汚す。自分の衝動的な行動に呆れながら、ティッシュを一枚引き抜き、床を拭いた。

 母が言うには、空っ腹に錠剤を飲むと胃がやられるらしい。食欲の無い体に食パンを詰め込んでいく。錠剤を飲むにはこの作業をしなければならない。千切ったパンを口に詰め込む際、指先が唾液で濡れる。

 私は食事を終え、頬杖をつきながら俯いていた。母は早く退けと言わんばかりにテーブルを布巾で拭き始める。興味のない映画を見るような目をした母。目を逸らすほかない。錠剤の入ったビンを手に取り、立ち上がる。

「水」

 愛想のない声と共に母はコップを差し出した。私は無言で受け取る。錠剤のビンを口に含み傾け、大量の薬をこれ見よがしに水で流し込んだ。コップを流しへと運び、部屋に向かう。何も言わない母。


 薬が眠気を誘い、体はのろのろと重い。そのくせ胃は活発に弛緩を繰り返し蠕動、胃液が揺れる音が聞こえるようだ。気だるさ、顔が火照り、耳鳴りがする。ベッドでのたうつ。胃からこみ上げてくる熱い痛みを紛らわすために性器を撫でてみた。性的欲求はなかったはずなのだが、もうどうでもいい。嘔吐感と快感が交錯し、目が垂れてくる、口をだらりと開ける、涎。指が濡れる。


 母に頼み込んで買ってもらったハムスター。飼い始めた当初はリビングで飼っていたのだが、父が嫌悪するので、私の部屋で飼うようになった。あるとき、ハムスターに没頭している私を見て、父が皮肉な口調で「獣医にでもなるか」と言ったのを覚えている。私はあなたがなぜそこまで医者に固執するのかは分からない。

 すすんでなりたい職などない。あなたが敷いたレールに沿って進むことは容易い。「何をしても面倒」が持論。学校では頭の悪い教師が誰でも知っているようなことをグダグダと黒板を汚しながらしゃべるだけ。

 雨、少し肌寒い部屋。悪臭が充満しているが、換気をためらう。私は布団にもぐった。


 外がやけにうるさい。窓を激しく打つ音がする。豪雨? 目をやると、プツプツと黒い湿疹のような斑点が窓に出来、点は下方に線を引いていく。私はそのとき散漫になっている聴覚から確かに虫の羽音を聞いた。虫だ。知能が無いのか虫は次から次へと窓に衝突し、粘着質な体液をぶちまける。蛆なのか蝿なのか、虫なのかすら不明。その黒い〈虫〉が部屋に唯一の窓を覆っていく。

 窓が割れる。私は布団の中に逃げ込んだ。布団越しに体中を這う〈虫〉。おぞましい量の〈虫〉が体を覆っているのかと思うと全身が痙攣し始める。ベッドを飛び降りると、足にべとついた感覚。〈虫〉を踏んでしまった。

――〈虫〉を殲滅せねば。

 直感的指令に操られた私はあたり構わず〈虫〉を踏み殺していく。踏むたびに液に変わっていく〈虫〉。踏みつけた足が床を砕き貫通した。壊れた床下にはハムスターの死骸、腹を〈虫〉に食い破られ、<虫>が集っている。〈虫〉は交尾しては卵を産みつけ、孵化。増える〈虫〉。殺しきれねぇよ。


 「虹」って何で虫へんなの? わけわかんないよね。よね? 漢字ってわけわかんないよね。よね? 漢字って嫌いだなぁ覚えるのってだるいなぁ言葉ってだるいなぁコミュニケーションってだるいなぁうざいなぁ死にたいなぁ、なんで? 死にたくないなぁ、なんで? お前は死んだ後どうなるのか分かるのか? 気安く死ぬとか言ってんな。テストって何を測ってんの? パラメーターが全てか? パラメーターは愛か? もう何もしたくないよ。何も出来ないよ。なんで行動するの? 「何をしても面倒」、ホントどうしたいんすか? お父さん、なんで人の命なんか救ってんの? 人の命の前に娘なんとかしろよ。存在を、アイデンティティを、両親とのディスコミュニケーションを、受け入れてくれない親への無償の愛の欲求不満をどうにかしろよ。見殺しですか? 

 虫って嫌いだな、見てると不安になるから。なんで足いっぱいあんの? 多くて四本で明らかに足りるでしょ。

 君たちは交尾することしか考えられない点、蛾と同じだね。知ってる? 雄の蛾って脳が単純だから、食べる・メスを探す・交尾する、しか考えられないんだって。それは火にも飛び込むよ。でも、ある意味ロマンチックだよね、雌を探すために生まれてきたんだって言ってるようなもんだからさ。雌は雌で雄を誘う臭いを出すだけだしね。私もそのぐらい単純でよかったなぁ、高度な精神ってやつは無駄なんじゃない? そんなのがあるから鬱になって自殺とかすんだよ。人間ぐらいだよ、そんなの。子供生んで育ててそれでいいんじゃない? 「万物は皆大らかに交わっとる。人間だけだぞ、貞操を気にするのは」って肝臓先生も言ってたしね。交尾した責任取れバカ親が。


 私は布団を跳ね除け、ベッドから出ると窓を開けた。空は晴れ、空気が青く澄んでいる。

 「何をしても面倒」なのではない、そう思った時点で「何もしなくても面倒」。

――何もしないことは不可能だから。

 気だるさは消えていた。何かをしなければならない。休んで寝ていたって何も解決しないことが判明した今。

 それにしてもひどい寝汗、薬の作用なのだろうか。


 私は漠然と外に出た。

 空を見上げる、二本の虹。

「虹ってなんで虫へんなんだろ」

 私は笑った。文字を生み出した人間はすごい、「赤」とあれば赤を、「虹」と書かれれば、七色を頭に浮かべることが出来る。

 「単色の虹」、そう言われて頭には何が浮かぶ?


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