旅立ち[7]
サウルは、父の居室に向かっていた。シメオンに頼まれ事をされたのだ。
ここ数日、シメオンは何かにつけてサウルをエフラムに会わせようとする。……出陣前に後腐れがないよう、父との関係を好ましい方向に持っていきたいのだろう。
しかし、サウルの心は決まっていた。エフラムが遠征の指揮をサウルに譲らない限り、この決意は揺らぐことはない。
サウルはエフラムの居室の扉をノックした。今回は約束していた訳ではないので、従者も席を外しているのか、扉は開かず、代わりに父の「構わん、入れ」という弱々しい声が聞こえてきた。
「――サウルか。何の用だ?」
「……宰相からの預かり物です。滋養強壮に効く薬だとか」
「シメオンめ、余計なものを……。そこに置いておけ」
サウルはベッド脇のテーブルに包みを置き、……だが立ち去らなかった。ベッドに横たわる父を、静かに見下ろした。
エフラムは、勅使が来たあの日から、また痩せたように見えた。気力で動いてはいるが、日々衰弱しているのは誰の目にも明らかだった。
だが、落ち窪んだ目だけは爛々と鋭い光を発していた。その目をギロリとサウルに向けた。
「まだ何か用か?」
「……たまにはゆっくりと話をしたい。息子として、いけませんか?」
遠征の支度で泊まり込みが続き、数日振りにトバルカインが家に帰ると、家中に何ともいえない匂いが充満していた。
――まさか!
台所を覗くと、案の定、ヨシュアが鍋をかき混ぜていた。
「貴様、また勝手に上がり込みやがって……!」
しかしヨシュアは悠然と言い放った。
「無用心だから留守番をしてやってたんだ」
「……まさか、今日だけじゃないのか⁉︎」
トバルカインは追求を諦めた。ため息をついて疲れた身体を椅子へ身を投げ出すと、ヨシュアが水を差し出した。料理を勧めてきたが、トバルカインは断固として拒否した。
「……俺の手料理が食えるのも今日までだぞ。明日には発つ」
トバルカインは驚いた。
「遠征に同行するんじゃなかったのか?」
「俺が頼まれたのは、サウル様の後見としてだ。エフラム様じゃない。――それに、あの方は、俺の顔を見たくもないだろう」
「……そうか」
だからといって、ヨシュアの手料理を味わおうという気には全くなれず、棚から酒瓶を取り出した。
だが、会話は弾まず、互いに酌をしながら黙々と飲んだ。しばらく飲むと、例の如くヨシュアが先に寝ると言い出した。いつもなら文句のひとつも言うところだが、明日は非番となっているため、今日は譲ることにした。
ヨシュアは立ち上がり、思い出したように、
「前に渡した銃だが、くれぐれも失くすなよ」
と念を押してきた。
「……使えないようなモンを俺に持たせるとは、どういうつもりなんだ?」
「今に分かる。それまで持っていてくれ」
ヨシュアは言い残し、寝室に消えた。
「――何なんだ、これは?」
トバルカインは、ベルトの金具にぶら下げた小さな銃を手に取ったが、冷たく光るだけで、何も答えはしなかった。
しかし、翌日、ヨシュアが旅立つことはなかった。
深夜、エフラム逝去の急報が届けられたからである。
サウルは、力尽きた父の亡骸を見下ろしていた。
病で弱った人の息の根を止めるのは容易かった。最期はほとんど抵抗せず、息子に命を差し出した。
顔に置かれた枕をそっと外す。――現れたその死に顔は、穏やかですらあった。
少々息は乱れているものの、サウルの心は乱れることはなかった。父は最後まで、懺悔の言葉は口にしなかった。――サウルをここまで追い詰めた、その贖罪をの気持ちなど、聞きたくもなかったが。だからこそ、心置きなく実行できた。
――しかし、人の死に顔というのは、これほどまでに穏やかなものだろうか?
不意に、父がこのまま目を開いて、何事もなかったかのように起き上がるのではないかと、錯覚を覚えた。
サウルは、自分の行った行為を確認するため、ベッドにひざまずき父の手首の脈を取った。――指には、何の反応も感じなかった。
……その時、扉がノックされ、従者の男が入ってきた。
サウルの様子を見て、状況を飲み込むのに数瞬かかったようだ。悲鳴に近い声を上げ、部屋を飛び出していった。
間もなく、従者がシメオンを伴って入ってきた。シメオンはベッドに駆け寄り、
「何ということだ……」
と言葉を詰まらせた。
サウルはここで、もうひとつの計画に出た。
ガクンと頭を垂れ、消え入りそうな声を絞り出した。
「……急に、苦しみだして………、人を呼ぼうと思ったのだが、父の、今際の際を、見届けようと………」
――決して「父殺し」であってはならない。父は、病で死んだことにしなければならない。そのために、あの日から、この時のことばかり考えていた。
実行方法も、できるだけ自然に見えるよう、いろいろ考えた。もしもうまくいかなかった時のために、シメオンからの預かり物の中身も、毒薬にすり替えておいた。しかし幸い、それは使わずに済んだ。
それだけの労力を、水の泡にはできない。ここからが、一番の勝負だ。
サウルはベッドに突っ伏し、泣き崩れた。
シメオンは震えるサウルの肩にそっと手を置いた。
「……お辛いでしょう。少し、お部屋でお休みを。後は、私どもにお任せください」
そう言ってサウルを立ち上がらせ、従者に部屋まで付き添うよう合図した。
促されるまま、サウルは扉へ向かった。
……シメオンの目さえ誤魔化せたら、俺の勝利だ。
扉へ近付くにつれ、勝利が見えてきた気がして、サウルは演技をするのに苦労した。
俯いた先で、勝利の笑みがこぼれそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死で耐えた。
しかし、扉を出る際、どうしても勝利を確認せずにはいられなかった。横目でちらりと振り返ると……。
シメオンは、亡骸の傍に立ち、枕の様子を気にしているようだった……。
続く