旅立ち[6]
「………父上」
ヨシュアは焦り、慌てて本を戻した。しかし、シメオンは勝手に出入りしていた事を咎める気は全くない様子で、
「読者の邪魔をして、悪かったな」
と、ゆっくりと中央のテーブルに座った。
「……いえ。………父上は、どんなご用でここに?」
「私もこの場所が昔から好きでな。ここに座っているだけで落ち着くのだ」
「そうですか……」
勝手な行いを咎められずに同調された方が、逆にバツが悪い。ヨシュアは気まずい思いを隠しきれないまま、向かいに腰を下ろした。
「こうして本の匂いに囲まれながら、独り言を呟くのが、私の楽しみなのだ。だから、おまえは好きにしていればいい」
そうは言われても、とても読書に集中できる雰囲気ではない。ヨシュアはテーブルに腕を置き、見るともなしに義父の横顔を眺めることにした。
「……サウル様のご様子が、どうも気になるのだ」
シメオンは、ヨシュアに話しかけるのと変わらない声で、「独り言」を始めた。
シメオンは、ヨシュアが一緒に住んでいた当時から、仕事の話を他では一切しなかった。仕事と私事のけじめを大切にする姿勢からだ。そういう生真面目さが信用され、長年にわたり宰相の役職を任されているのだ。……もちろん、それだけではないのだが。
しかし、そのシメオンが、今は他人同然のヨシュアに仕事の話を聞かせるというのは、ただ事ではない気がした。
「エフラム様はサウル様を大切に思われているが故に、厳しい姿勢を示しておられるのだが、どうもサウル様には伝わっておられない。
今回の遠征も、エフラム様は病を押して自らご出陣なされると言われている。私は何度も説得させていただいだが、一度決められた事は曲げないお方だ。……それを、サウル様は信用されていないとお感じのようだ。――何事もなければ良いのだが……」
ヨシュアは黙って聞いていたが、ふと思いつき、ある本を手にした。
「……私も、本を見ながら独り言を言う癖がありまして。気にしないでください。
――ある神話の話です。とある男が、年上の美しい女性に恋をします。しかし、彼女は既婚者でした。その男は、彼女の夫を恋敵として殺してしまいます。……ところが、その女性というのは、幼い頃生き別れた母であり、彼が殺したのは、自分の父親だったのです。
この話は、その後の心理学で例え話に使われるようになります。……要するに、子供の成長の過程で、母への愛着に対し、父親を越えるか、それとも服従するかという葛藤を、必然的に抱くことになるというものです。
サウル様は、幼くして母君を亡くされ、その愛を知りません。しかし、心の中では、強く求められていたはずです。実際に会えないという満たされない欲求により、心の中の存在は、想像を超えるほど大きくなっていたかもしれません。……それが、父君への感情を、こじらせてしまっている要因かもしれません」
シメオンは腕を組み、頭を振った。
「そうだとするならば、我々にできる事は何もないのだろうか?
……正直、この遠征が最期の別れになるのではないかと思っている。考えたくはないが、エフラム様のご容態では、それも考慮に入れねばならん。
せめて、出立前には、良い形でお見送りできたらと思うのだが……」
「そうですね……」
ヨシュアも腕組みをしてみるものの、こればかりは、明確な回答を提示するのは不可能に思えた。
「……心の問題を解決する薬は、時間しかないと聞きます。せめて、出立までに少しでも多くの親子の時間を作って差し上げる、これしかないのではないでしょうか。
サウル様にはマハナイムに来る途中でお会いしましたが、とても勇敢で聡明なお方とお見受けしました。きっと、乗り越えられます」
「そうか。……そうだな」
シメオンはゆっくりと立ち上がった。
「……年を取ると、どうも独り言の声が大きくなるようだ。もし聞こえていたとしたら、忘れて欲しい」
「私も、独り言が大きいとよく言われます。もし聞こえていたとしても、流してください」
シメオンはフッと笑い、扉へ向かった。しかしその途中で足を止め、
「他にも、言っておきたい独り言はないだろうな?」
と言った。
「………いいえ、特に」
「そうか。なら良いが。――我々親子も、これが今生の別れとならないよう、祈りたいものだ」
部屋を去るシメオンの後ろ姿を見送るヨシュアの背には、冷たい汗が流れ落ちていた。
――全て見抜かれている。
その上で、ヨシュアにマハナイムの命運を託そうとしているという事は……。
あまりに重い責任を今さらながらに痛感し、ヨシュアは椅子に崩れ落ちた。
続く