旅立ち[4]
エフラムの言葉に、サウルは硬直した。
かねてよりの野望を実現する絶好のチャンスを、父の一言が打ち砕いた。
心が一気に凍りついたサウルに、エフラムはさらに氷の楔のような言葉を突き刺した。
「サウルのような未熟者に、とても軍を任せることなどできん。這いつくばってでもわしが行く。サウル、おまえは留守を守れ」
エフラムの背を支えながら、サウルは腕の震えを抑えるのに精一杯だった。絶望は怒りに変わり、それは事態を飲み込むほど激しさを増し、殺意に近いものになっていった。
すぐ目の前にある、弱々しく痩せ細った首を、この腕でへし折ってやろうか。そんな衝動にも駆られたが、シメオンの前で取り乱すことはできないと、必死で抑え込んだ。
「しかし、ご無理はお身体に障ります。ここは、サウル様をご信用なさって……」
シメオンが言うが、エフラムは聞く耳を持たなかった。
「この出来損ないに、マハナイムの命運を託せと申すか。そなたの申したような一大事なら尚のこと。三十万の民の命が懸かっておるのだ。わしが片を付ける。それまでは死なぬから安心せよ」
サウルは目を伏せた。肩が細かく震えているが、どうにもできない。無感情を決め込むにも限界があった。
シメオンは、サウルの様子を心配するように顔を向けたが、それ以上は何も言わず、深く礼をして部屋を去った。
その場に残されたサウルは、何も考えられず、父の背中を支えていた。
「……いつまでそうしておるのだ。わしは休む。そのくらい気が利かぬのか」
「………はい」
サウルはゆっくりと、父をベッドへ寝かせた。
必死で抑え込んだ激しい怒りは、いつの間にか虚無感に変わっていた。
――俺は、この男の隷属から、一生逃れられないのだろう――。
サウルは力のない目で、父の浮き出た鎖骨を眺めた。
すると、エフラムはサウルに光のない目を向けた。
「休むと言っておろう。さっさと自分の部屋へ戻らぬか。それとも、何か言いたいことでもあるのか」
「………いえ」
サウルは操り人形のような動きで、一礼を残し部屋を後にした。
扉の外には、シメオンが待っていた。
「……サウル様、少々お時間をよろしいでしょうか」
シメオンはサウルをテラスへ続く廊下へ導いた。
霧のため窓は開けないが、ガラス越しに、霧に曇りながらも朝日を浴びて白く輝く街並みが一望できた。
「サウル様。改めて申し上げますが、父上様を誤解されませんよう」
サウルは、そのガーネットの瞳をシメオンに向けた。力のないその色を見て、彼は優しく微笑んだ。
「エフラム様は、サウル様を心より愛しておられます。サウル様を心配されるあまり、ご自分で戦火へ向かおうとなされているのです。
口では厳しい言い方をされますが、それもサウル様のご成長を願ってのこと。長くお付き合いをさせていただいておりますが、昔からそういう御方なのです」
サウルは黙って聞いていた。
「しかし、あのご様子では、長くの遠征は難しいでしょう。
私より、もう一度、説得をさせていただきますので、サウル様はお心づもりをお願いいたします」
「……分かった」
彼にとってうれしい申し出のはずだったが、この時のサウルは何も感じない様子で、その場を立ち去ろうとした。
そして、ふと足を止めた。
「………ヨナが羨ましい」
「……は?」
唐突なサウルの言葉に、シメオンは戸惑った。しかしサウルは、そんなシメオンの様子すら見ていなかった。
「あんなに仲の良い兄がいて、自分を信じてくれる父がいて」
サウルはシメオンを振り返った。その顔には全く表情がなく、シメオンは背筋が寒くなるのを感じた。
「……俺も、あなたみたいな人の子供に生まれたかった」
サウルはそう言い、廊下を奥へと消えていった。
シメオンは何も言えず、ただその後ろ姿を見送るしかなかった。
聖都からの勅使がマハナイム城へ到着したのは、その三日後だった。
続く