旅立ち[3]
半鐘が鳴り響く城内を、サウルはひとり歩いていた。父エフラムに呼ばれたのだ。
いつもならヨナが付き従っているところだが、母の命日のため墓参したいと聞いていた。
エフラムは、ここ一年ほど体調を崩している。この頃は、床に伏している時の方が多い。しかし、剛健な気質のため、病が重篤であると知られたくないのだろう、重要な公務には無理を押して顔を出していた。
だが、サウルは知っていた。――死期が近いことを。
マハナイム城の最も奥まった建物の最上階に、父の居室がある。軽くノックをすると、待ちかねたようにすぐさま扉が開いた。
「……遅かったではないか」
エフラムはベッドにもたれかかるように身を起こし、落ち窪んだ目でこちらを見ていた。
傍に、宰相シメオンの姿もあった。シメオンはサウルに深く頭を下げた。サウルはその脇を通り、ベッドの横にひざまずいた。
「申し訳ございません。就寝中でしたので、身支度に時間がかかりました」
「だからおまえは未熟なのだ。いつ何が起きようとも、直ちに公務に入れるよう心構えをしておけと、常に言っておろう」
「……申し訳ございません……」
「いや、このような時に役務を怠った我が愚息が悪いのです。どうか、サウル様をお責めになりませんよう」
シメオンがすかさずフォローに入ったが、エフラムは厳しい目をサウルに注いでいた。サウルはそれを頭上に感じながら、ただ顔を伏せた。
エフラムは、特にサウルにとって、非常に厳しい人物だった。
立派な領主になれるよう、という意識は嫌というほど感じるが、それすらも、サウルには重かった。やる事なす事いちいち口を出され、時には人前だろうと棒で殴られた。サウルにとって、父という存在は苦痛でしかなかった。幼い頃に母を亡くしているため、母という逃げ場もなく、サウルは常に追い込まれ、神経をすり減らして生活していた。
――父の奴隷。サウルは自身をそのように解釈していた。
そんなサウルを、周囲は理解してくれなかった。領主の後継ぎだから、厳しく教育されて当たり前。時折、父に反発したり逃げ出したりする事もあったが、それはサウルの我が儘だと、冷たい目で見られた。
そんな中、唯一、宰相シメオンだけが理解してくれた。しかし、シメオンとて、サウルの現状をどうにかできる訳ではなかった。
そこで、歳が同じ息子のヨナを彼に会わせた。子供同士、彼らはすぐさま意気投合し、サウルは時を、現実を、忘れて遊んだ。
ヨナは何も言わず、常にサウルに寄り添い、時には一緒になってエフラムに叱られることもあった。そんなヨナは、サウルにとって、唯一の心許せる精神的な支えであり、なくてはならない存在になっていった。
一方で、父エフラムはサウルの成長に従い、さらに厳しい目で彼を見るようになっていた。質実剛健、清廉潔白な人柄で、世間では名君と讃えられていたが、サウルは反発を強める一方だった。しかし、領主の跡継ぎという立場から逃げられないことも、サウルは歳を重ね悟っていった。
父子は、顔を合わせても、目を合わせることはなかった。父は常に上から息子を評価し、息子は心を閉ざして、父の視線が頭上を通り過ぎるのを待った。
それは、父が病床に伏してからも同じだった。
エフラムは、そんな息子の心情を知ってか知らずか、冷たい目をサウルに落としたまま言った。
「シメオン、そなたの言う通りサウルを呼んだ。どのような話だ?」
シメオンはサウルに向き直り、再び深々と礼をした。
「このような早朝にお呼びだていたしまして、申し訳ございません。
……実は、昨夜、我がもうひとりの愚息が突然帰郷しまして。重大な情報を持ってまいりましたので、いち早くご報告をと」
――もうひとりの愚息。昨夜会ったあの旅人、ヨナの兄ヨシュアに違いない。
ヨシュアがシメオンに伝えた情報というのは、驚くべきものだった。
「………要するに、グシュナサフで起こる反乱が、大陸中に伝播し、皇国は存続の危機に陥る、と」
「はい、エフラム様」
エフラムはわずかに身を乗り出すが、支えきれない様子だった。サウルが手を貸したが、エフラムは彼を見向きもせず続けた。
「そなたを疑うわけではない。しかし、その話に信憑性はあるのか?」
「……愚息がエフラム様のご厚恩に背いたことは、私にとっても一生の悔恨でございます。不心得者の愚息ではありますが、私に嘘だけはついたことがございません。
間もなく、皇国より出兵要請の勅使が来るという話です。事は、それにて明白になるかと存じます」
エフラムはゆっくりと息を吐き出した。
「……テラ神に仕え、皇国を支えるのが、セント・マグス教教徒の使命であろうに。神に背く行為がどんな結果をもたらすのか、思い知らせてやらねばならん」
エフラムは敬虔なセント・マグス教信者だった。そのため、サウルへの教育にも、その教えが深く盛り込まれていた。……だが、その聖なる言葉のひとつひとつが、サウルの心には全く響かなかった。むしろ、父への反発と相まり、教典へ嫌悪感を抱いていた。
始祖ラルヴァンダードは詐欺師であり、教典はまやかしに過ぎない。サウルはそのように考えており、それを熱心に信奉する父には、侮蔑の念すら持っていた。
しかし、そのような感情は一切表には出さない。ひたすら無感情に、サウルはシメオンの話を聞いていた。
その無感情の仮面の奥底で、だがサウルは、煮えたぎるように熱い感情を抱いていた。
――世の流れが、皇国を滅ぼそうとしている。この機を逃してどうする。
父の病状では、長期の遠征は困難。必然的にサウルがマハナイム軍を率いることになる。それさえできれば、この流れに乗じ、聖都に攻め入り、掌握するのは困難ではない。
しかし、ただ皇国が瓦解すればいいというものではない。最終的な勝者にならなければ意味がない。マハナイム軍は、トバルカイン将軍をはじめ、名だたる強者が揃い、その武は大陸中に知れ渡るところである。この武力をもってすれば、大陸再統一も夢ではない。
サウルは心を隠すのには慣れていた。しかしこの時ばかりは抑えられず、顔を伏せてニヤリと口角を上げた。
「これから、未曾有の事態が数多く起こることでしょう。お若いサウル様なら尚のこと、判断に迷われる時が出てくるやもしれません。さしでがましいとは存じますが、出兵の際には、我が愚息ヨシュアを同行させましょう。あれは、大陸各地を旅して回り、世の情勢に明るくございます」
シメオンの申し出に、だがエフラムは首を横に振った。
「いや、それには及ばぬ。……わしが行く」
続く