3.「反攻」
剣を鞘に納めたカンジは、体を折ってゴホゴホと激しく咳きこみはじめた。カンジが咳き込むたびに、カンジの喉元から点々と赤い滴が周囲に飛び散ります。
「カンジ!」
わたくしは、カンジに駆け寄りました。
「静かに、安静にしてください。
今から、治癒魔法をかけますから……」
ここにいたってわたくしは、ようやく我が身の硬直を解き、呪文を詠唱しながらカンジに駆け寄ります。
しばらく咳き込んでから、カンジは、地べたにぺたんと尻餅をついた姿勢でおおきく喘ぎはじめました。
目尻にうっすらと涙を浮かべ、呪文を詠唱するわたくしに、なにかを懇願するような目で見やります。
「静かにしてください。
失われた血はすぐには戻りませんが、傷口だけならいくらもせずに回復するはずですから」
詠唱の合間に、わたくしはカンジを落ち着かせるためにそのように囁きかけました。
カンジは、わたくしの言葉を理解したのか、ゆっくりとかぶりをふって衣服のどこかから白い手巾を取り出して、喉元を無造作に拭いました。
手巾にはべっとりと鮮血が付着しましたが、かわりにカンジの喉元は、本来の肌の色を取り戻し……わたくしは、そこにあるべきではないはずのものを認めて、おもわずマジマジと凝視してしまいました。
そこを貫いてた枝のような魔族の体は、すでに崩れてなくなっていました。
同時に……そこに開いているはずの傷も、きれいさっぱり失われていました。
わたくしの治癒魔法が効果を現すまでには、まだまだ時間がかかるはずです。どのような魔法でも、あれだけの大穴を瞬時に治癒することは出来ません。
わたくしの不自然な視線の先に気づいたのか、喉元がまた血糊で汚れるのにも関わらず、カンジは指先で傷があるはずの場所をまさぐりました。
「……は……はは」
そこの傷がなくなっていることを確認したカンジは、喘ぎ声にも似た笑い声をたてはじめたのでございます。
「なん……だよ、これ……。
てっきり……致命傷だと、思ってたのに……」
続いてカンジは、顔を下に向け、自分の胸もまさぐりはじめます。
「ここも……直っている。
……これって……お姫様の魔法のせい?」
「いいえ」
わたくしは、ゆっくりと首を振りました。
「幾分かは、わたくしの魔法が効いたのかも知れませんが……通常の治癒魔法は、こんなにはやく効果を顕すものではものではございません」
「じゃあ……おれの、体質……ってわけか。
はは。
勇者ってやつは……うっかり死ぬことも出来ないらしい。
その前に、働くだけ働けってことか?」
「体質だとすれば……極端に治癒魔法が効きやすい体質なのか、それとも、カンジの体がもともとそういう風に出来ていたのか……」
「後のは、ありえない。
おれは、向こうではごく普通の体だったし……この間風邪をこじらせたときだって、完治するのに一週間もかかったんだよ。
それに、おれ、基本的に運動やスポーツが苦手だし嫌いだった。
剣自体、それこそ、竹刀や木刀だって握ったことがないくらいだったし……さっきみたいな動きが、おれに出来るはずはないんだ」
「でも……身を挺してわたくしの危難を救い、百人でもかなわぬはずの魔族をあっという魔に滅したことは事実でございます。
ほかならぬこのわたくしが、この目で見ておりましたから」
「それなんだよなあ……」
カンジは、深々とため息をつきました。
「どうやら、おれが勇者であるって線は、これで確定したらしい。
しかも、使命とやらを完遂しなけりゃ、おちおち死ぬことも出来ないときた。
はは。
こりゃ……逃げようっても、逃げられない仕様なようだね。
さっきは、自分の血が気管にどっと流れ込んできて、あやうく窒息死しかけたけど……。
……あれ? ってことは、おれ、窒息死は出来るのかあ?」
「……かなり出血しておりましたが、痛くはありませんでしたか?」
「……んー……。
痛い、というより、熱かったかな?
動いているときは、頭に血が昇ってそんなことを感じる余裕もなかった。
さっきの……魔族?
あれが灰になって、それからだね。
普通の感覚が戻ってきたのは。
痛くて熱くて……そりゃーもう、泣きたいほど苦しかった」
勇者としての加護は、痛覚を遮断するほど便利なものではないようでした。
「しかし……まいったなあ……。
着替えもないのに、制服が血でぐちゃぐちゃだ。
こんな有様で町中に出たら、無駄に騒がれそうだし……」
「ずいぶんと冷静なのですね、カンジは」
「いや、ここまで滅茶苦茶だとね。
流石に、あわてる気にもなれないっていうか……」
「もうしばらくすると、練兵場へ行く兵たちがここを通りかかります。
わたくしが取りなしますので、カンジはそのまま彼らに合流してしまいなさい」
「そんなこと、出来るの?」
「わたくしの顔を見知っている兵士がいれば、あるいは。
それでなくても、わが軍は深刻な人材不足です。
多少胡散臭くても、単独で魔族を倒した人間を欲しないわけがありません」
「……お姫様は、おれにもっと何度も死ねっていうわけか?」
「他に、なにかよい方策でも?
それにカンジの心得次第では、死ぬ回数はかなり減らせることと思いいますが?」
カンジは、これで何回目でしょうか。
また深いため息をつきました。
「かわいい顔をして、にっこりと微笑みながら、えげつないことをいってくれるよな、このお姫様は……」
「勇者としての役割から逃げられないのであれば、少しでもよい待遇を求めた方が懸命だと思いますけど。
軍の中にある限り、武勲をたてさえすれば、あとはやりたい放題になりますよ」
今の軍はあちこち刃こぼれしている有様ですので、実力さえ証明すればいくらでも出世出来るはずなのでした。
「……そういう考え方もあるのか」
そういってカンジは、キョロキョロ周囲を見渡した後、少し先まで歩いていってそこに落ちていた円筒形の物体を拾い上げました。
「なんですか? それは?」
「卒業証書。
こっちでは無用の長物だけど……お姫様。
よかったら貰って。邪魔なら、捨ててもいいし」
その円筒形の物体は紙筒であり、見知らぬ異国の文字が書かれた紙が入っておりました。
上等な紙質といい、金色の縁取りといい、堂々とした書体といい、どうみてもかなり重要な書類に見えます。
「カンジの、大事なものなのではないのですか?」
「大事、というか……それを貰えるまでの課程が重要なんあって、それ自体は単なる紙きれだよ。
今はなにも持っていないんで、そんなモノしかあげられないけど……」
血塗れになりながらも、そんなのんきなことをいう……この人は、ずいぶんととぼけた少年なのだなあ……と、今さらながらに、わたくしは思いました。
「ご入り用ではないとおっしゃるのなら、しばらくお預かりしています。
代わりに、その剣を差し上げます」
「この剣を?
いいの?
なんか、よく見ると鞘とか柄に浮き彫りがしてあって、いかにも高級そうに見えるんだけど」
「いいんです。
それは我が家に昔から伝わる……えーと、由緒正しい剣ですから、くれぐれも大事にするように」
呪われているという噂がたって、長いこと宝物蔵の中に打ち捨てられたものであるとはいえませんでした。
「へぇ。
伝家の宝刀ってわけか。
……ひょっとして、なんかの魔法とかかかっていたりする?」
「そういう言い伝えも、あることはあります。
しかし、確実なところはよくわかりません」
呪いも、魔法の一種ではありましょう。
それに、死ぬに死ねないカンジの体質や先ほどの剣技が、その剣によってもたらされた可能性も大きい……と、そのときのわたくしは考えておりました。
バハムの魔剣は、カンジとともにあるべきだと思ったのです。
仮にわたくしがこの剣をカンジに渡したことが発覚したとしても、王宮の者たちもいいやっかい払いが出来たと安堵することさえあれ、わたくしを責めることはないであろう、という計算もありました。
「……まあ、お姫様がいいっていうんなら……ありがたく、受け取っておきます」
カンジは、わたくしの顔をしばらく凝視してから、ようやくそう結論いたしました。
どうやら、本当にこの剣を持ち出しても、問題はないらしい……と、わたくしの顔色を読んだ上で判断したようでした。
そうしたカンジの態度に、どこかとぼけている癖に、妙なところで気を使う人だな、と、わたくしは思いました。
そんなやりとりをするうちに、練兵所へ向かう兵の一団が通りかかります。
わたくしが両手を広げると、兵たちは足を止めました。
「こんな朝早くから、どうした!
王宮近くとはいえ、子どもが出歩くような場所ではないぞ!」
「我が名はユエミュレム・エリリスタル!
この者を、軍に推挙したくこの場で待ちかまえておりました!」
ここぞとばかりに、わたくしは大声をはりげます。
「この者、わたくしをかばい、たった一人で魔族を滅した剛の者……勇者なり!
故あって軍に加勢したいとのこと、ゆめゆめ粗略に扱うことなかれ!」
兵たちはしばらく雑然としていましたが、隊の何名かがわたくしの顔を見知っていたこと、それに、
「たった一人で魔族を滅した」
という部分が兵たちの気を強く引いて、カンジの身柄を快く引き受けてくれることになりました。
わたくしがそんな嘘をいってもなんの益もありませんでしたし、本当かどうかはこれからカンジが行う戦場働きで否が応でも証明されるからです。
見慣れない服装を真っ赤に染めていたカンジのいでたちも、わたくしの言葉に信憑性を与えておりました。
すぐにはなしはまとまり、カンジは兵たちに混ざって練兵場へと進み、わたたくしは王宮へ帰るために進むことになりました。
この別れ以降……何年か、わたくしはカンジと直に顔を合わせる機会を失うことになります。
わたくしは末子とはいえ王家の血を引くものとして王宮で受けなければならない教育というものがございましたし、そうでなくとも王族というのは我が身の自由がそうそう効かないものでございます。
気軽に国軍の一兵士に面会を……というわけにも、いかないのでございました。
しかし、カンジについての噂は、王宮にいるわたくしの耳にもすぐに入ってくるようになりました。
なにしろ、やられる一方であったわが軍が久々に魔族を押し返す欣喜事です。その軍功がおおむねたった一人の若者によってなされている……と知れるのに、さほど時間はかかりませんでした。
軍全体が、カンジただ一人の働きに頼り、カンジを中心として作戦を組み立てているのです。
魔族を相手にする限り、カンジ以外の者が攻撃に与するのは効率的ではない。
そればかりではなく、無為に命を散らすだけの結果に終わる……という結論を得るのに、軍はさほど時間を要しなかったのです。
魔族を撃破する異相の勇者、カンジの噂はまたたく間に国中に広がりました。
カンジは、この国の者にはない黒い髪と目を持っています。
その色合いを不吉なものとする人も少なくはなかったのですが、カンジの功績はそうした懸念を吹き飛ばして余りあるものでございました。
魔族により故郷を追われた流民はもとより、以前よりも窮屈な生活を強いられた他の民や、威厳が目減りした王侯貴族も、おおむねカンジの活躍を歓迎いたしました。
とはいえ、魔族に対して有効な打撃を与えられるカンジは、たった一人しかいません。
カンジとカンジを補佐する部隊は、魔族が侵攻した土地に赴いてはあちらで一月、こちらで二月と行った具合に時間をかけて王国の領土を取り戻していきます。
カンジの部隊が次にどの土地に赴くのか……という決定権は、どうやら王宮内で領主同士の駆け引きによって決定されるようでした。
こういってはなんですが、当時国中を熱狂させていた異相の勇者カンジも、門閥政治の都合によりいいように翻弄される駒でしかなかったのです。
この時期のカンジがなにを考えているのか、当時のわたくしには知る術がございませんでした。
遅々としたカンジの反攻はこうして何年も続き、王国は徐々に往事の勢いを取り戻しはじめました。
カンジが取り戻した土地には以前住んでいた者が帰り、それ以外の者たちも流れていき、共同して荒れた村を復興して土地を耕しはじめました。もちろん、だからといってすぐに以前通りに作物を収穫できるというわけでもありませんでしたが、たとえ二年先、三年先であっても、将来に十分な収穫を望めるのであれば、人々は喜んで働きました。
そうした復興しはじめた村々を巡り、商人たちが忙しく往来しはじめます。
領主たちも、一時的に税を免じ、なけなしの蓄えを解放し、復興に携わる民をよく助けました。
彼らとて、このような非常時にまで搾取する一方では、自分たちの足場がますます危うくなることを十分に弁えていたのでございます。
食料や物資はいぜんとして不足しがちではありましたが、カンジの出現以前と以後とでは、大きく事情が異なるものがございました。
希望、でございます。
カンジによる魔族への反抗は、それまでの八方塞がりな状況を打破するものでございました。
当時のカンジは、王国の希望であったといっても、決して過言ではございません。
カンジがひとつの土地、ひとつの村を魔族の勢力圏から解放するたび、国を覆う暗雲は薄らいでいき、民の表情も明るくなっていきました。
そして、わたくしとカンジとの邂逅から数えて十二年の後。
ちょうど二十歳になったわたくしは、国王である父に呼び出されたのでございます。
〔次回: 「王女」〕