ちぐはぐな二人
「ハヤトって、いる?」
廊下から響いてきた声に、早戸ちぐさは微かに反応した。ハヤトは彼女の名字である。しかし聞き覚えのない声だったので、自分を呼んでいるわけではないのだろうと顔を上げることすらしなかった。
彼女は目下予習中だった。次の英語の授業で当てられるというのに、昨晩はドラマを観て英語のことなど頭から抜け落ち、そのまま床についてしまった。
だって不器用で乱暴なヒーローが風邪をひいたヒロインのためにお粥をつくってその上眠ってるヒロインにこっそり告白したりなんかしてそれどころじゃなかったの、これってギャップ萌え? などと手も止めて彼女は物思いに耽る。
「隼人、呼んでるー」
廊下で尋ねられた生徒が、教室の中へ声をかける。一人の男子生徒がぬっと立ち上がった。
彼の名前は千種隼人。百八十センチを超える身長に強面、がっしりとした体型のせいで、立ち上がっただけで周囲に威圧感を与える。
隼人はちらりとちぐさを見遣ってから、大股で廊下に出た。取り次いだ生徒は入れ替わるように教室に戻る。
「何か用?」
無表情で隼人は問う。
呼んだはずの男子生徒は隼人を見て一歩下がった。そして表情に困惑を浮かべる。
「ハヤト……?」
「隼人だけど」
「……えーと、確かチグサって名前の子なんだけど」
「千種だけど」
千種隼人は嘘は言っていない。誤解を解こうとしないだけで。
「え? 昨日名前聞いたときは確かにそう言ってたし、B組だって聞いたんだけど……」
そう言って彼は教室を覗こうとした。すかさず隼人は遮るように立ちふさがり、心持ち声を低くして告げる。
「学校でナンパまがいのことするから偽名使われたんじゃないの?」
軽蔑のまなざしも忘れない。
千種隼人は百八十センチを超える身長に強面、がっしりとした体型である。そんな人物に冷ややかに見下ろされて、彼は顔を引きつらせた。
「悪い、勘違いだったみたいだ」などと情けない謝罪を残して、そそくさと逃げ帰る。なぜナンパまがいなどと断言されたのか、疑問に思う間もなく。
彼の姿が見えなくなるまで、隼人は番犬のように教室の前に立っていた。彼が振り返っていたら悲鳴をあげ、さらに情けないことになっていたかもしれない。
ともあれ無事に追い返し、隼人は一つため息をつく。
向こうは隼人を知らないが、隼人は彼に見覚えがあった。昨日、少し『彼女』を待たせてしまっている間に『彼女』に話しかけている所を目撃したのだ。
すぐに追い払おうと隼人が憤怒の形相で向かう前に、彼は立ち去った。そして『彼女』に確認してみると、突然話しかけられ名前も教えた、そうあっけらかんと答えてくれた。
『彼女』――早戸ちぐさの前の席に座り、千種隼人は何やら頬をゆるませて考え事をしている彼女の顔を覗きこむ。
「英語の予習は終わった?」
ちぐさは我に返る。
「ううん、まだ。隼人くん、もう話終わったの? さっき呼び出されてたよね」
「いいや、人違いだった」
飄々と言ってのけた隼人に、ちぐさはきょとんとする。そして合点がいったのか、目を輝かせた。
「わたし達以外にもハヤトさんがいるんだね」
思わず隼人は吹き出した。
本当に彼女は可愛い。少し天然で、雰囲気はやわらかく、彼女がそこにいるだけで場が和む。威圧的な外見で恐れられる自分とは正反対だと隼人は思っていた。
「わたし、ギャップが好きなのかも」
「え?」
唐突な話の運びに隼人は笑うのをやめ、じっとこちらを見ていたちぐさを見返す。
ちぐさはにこりと笑った。
「隼人くん基本的に表情かたくて怖いけど、笑うと可愛いの。そこが好き」
直視できなくて、隼人は顔を背けて手で覆った。真っ赤な耳は隠しようがなかった。
そして、その様子にちぐさが再び可愛いなどと思っていることには気づかない。
一見どこかちぐはぐな、それでも気が合う二人だった。