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雨中

作者: 萩原間九郎

 「金が無い……」

 夕陽の沈みかかった慶梁のまち。城門から続く大通では、仕事を終えた者達が酒や飯、妓を求めてごった返している。

その喧騒から少しばかり離れて、腰に長い剣を帯びた男、李勝は愚痴をこぼした。

 衣服は旅塵に汚れ、後で束ねた髪や、袖から覗く手も煤けている。元は端正な顔立ちなのだが、今は疲労と空腹で憔悴し、近寄りがたい相を浮かべていた。

 慶梁に着いた彼は、宿や飯場では無く、役所や衛兵の詰所などの集まる区画を真っ先に目指した。

 仕事を探すためだ。

 この時勢、どこの邑に行っても、役所の前には広場がある。そこは邑に住む者を集めて領主の布告を読み上げたり、攻められた際、最後の抵抗をするために陣を敷く。それが本来の使い道であるが、そんなことがそうそうあるわけもなく、普段は民衆に開放されている。

 場所や時期によって様々な使われ方をしているが、一番盛況なのは仕事の募集、求人である。

 やり方はこうだ。

 まず、役所の前に仕事を募集する者が、立て札を持って集まる。内容は砕石や伐採と言った重労働から、代筆や子守と言ったもの、日雇いから長期にわたるものまで様々にある。

 立て札を持った者は、それを目印に声を張り上げ、人を募集する。字を読めない者が多いため、立て札は募集する人間が読み上げるための台本と、集合場所を示す看板を兼ねた役割を担う。もしもその場に募集人がいない場合は、代わりに立て札を読むことを生業とする代読人という者があって、幾許かの銭でそれを読み上げてくれる。

 募集する雇い主や内容によって条件は様々だが、人気のある仕事程、定員に達するのが早く、先着順となることも多い。 そのため早朝の広場は老若男女を問わず、大勢の人間で溢れかえり、賑わいは祭りと見紛うほどだ。

 そして、定員が埋まった募集から立て札を撤去して行く。

 また、広場に集まるのは職を求める者たちだけではない。

 代読人のように、そういった者達を相手にした商売をする者も、多く集まるのである。飯屋や金物屋、雑貨屋といった連中が店を出しては、稼ぎ時を逃すまいと汗を流す。朝を寝る者は金を逃がす、という諺が生まれるくらいだ。

 とはいえ、李勝が立て札を眺めている今は、大した募集も残ってはいない。この時間にある募集は、大体が胡散臭いものか、重労働で人気の無いものと相場が決まっている。

 それでも李勝は諦めきれず、一つ一つ、すがるように読んでいった。

(ん……?)

 ふと、幾つかの立て札に隠れて、倒れたものがあることに気がついた。顔を近づけてみると、いくつも足跡がついている。 どうやら朝の喧騒で倒されたまま、誰も気付かず、放置されていたのだろう。

 読んでみると、そこには、私塾の教師を募集する、とあった。どうやら、教師をしている者が一週間ほど空けねばならず、代わりに読み書きを教える人間を探しているらしい。報酬も悪くない。これくらいあれば、次の邑へ行くぐらいは余裕でできるだろう。

(代読人の連中に見つからないのは、運が良かったな)

 人に者を教えるという柄でも無かったが、正体不明の荷物を運んだり、場末の酒場で用心棒をやるよりは余程良い。

 日は完全に沈んでいたが、李勝はこのまま募集人を訪ねることにした。


「これが、私塾…?」

 立て札にある私塾とやらは、塀に囲まれた屋敷であった。邑城を出て少し歩き、小高い丘の上にある。まるで貴族の隠れ住む別宅か、ちょっとした豪族の家のようだ。

 どこぞの名のある学者ならともかく、任せられる高弟のいない、臨時で教師を募集するような教師には、到底似つかわしくない。普通の民家か、それより少し大きいくらいの建物がその辺の相場だろう。

「…何か?」

 声を張り上げて訪いを入れた李勝を迎えたのは、無愛想な、三〇絡みの男だった。

「立て札を見てきた」

 男は李勝の浮浪者のような身なりを見、不審そうに目を細めた。

「私は用心棒ではなく、教師を募集していたはずだが…」

「得意だよ、読み書きは。荒事の方が得意なのも確かだけどな」

 特に出して見せる証拠も無いので、手を宙に舞わせながら説明する。

 男は訝しげな表情のままで、ただ一言、入れ、とだけ言った。

 それ以上は何もいう気がないらしく、背を向けて奥へ歩いていく。片腕がないらしい。空っぽの左袖が、ぱたぱたと舞っていた。

 だが、歩き方から、武芸の腕はかなりのものであることが見て取れる。何気なく歩いているように見えて、いつでも跳躍出来る隙のない歩法。それでいて、身のこなしは自然そのものなのだ。李勝を警戒した様子は全くない。隙のない所作が染み付いているということもあるだろうが、李勝に殺気が無いのを感じ取っているに違いない。

 自分の知った事ではないと思いつつも、少しだけ、男の過去に興味を持った。

「ここが講堂だ」

 馬のいない厩舎の前を通り、広い庭を横切ると、雨戸を開け放った広い部屋が見えた。

 男は草鞋を脱いで講堂へ上がり、灯を入れた。それから棚から紙と筆を取り出して机の上に置き、

「そこに座れ。とりあえず、書いてみろ」

 ぶっきらぼうに促した。

「紙じゃないか。良いのか?」

 紙は、高価である。普通は、公文書でも特に重要なものにしか使われず、専ら木簡や竹簡を使う。それは、これまで見て回ったどこの土地でもそうだった。

「他所では高価だろうが、この国は製紙法が発達しているお陰で、安く買い求められる。木簡や竹簡を使う者の方が少ない」

「他所に持って行って売りゃ…」

「やめておけ。官営だ。周りの国に持っていって紙を売れる商人は決まっているし、遠くに持っていくとかえって赤字になる」

「官営?またどうして」

「木簡や竹簡より記載出来る情報が多い上、携帯出来る量が段違いだ。抹消も容易で、軍事・政治の効率を上げてくれる。周りにこの技術を渡したくないのさ。製造法は勿論、どこで作られているかも秘密だ」

「へぇ…。詳しいな、あんた」

「この国の人間なら誰もが知っていることだ。知りすぎると殺されるがね」

 会話しながら、李勝は紙をすらすらと字で埋めていく。一文字ずつ別れた読みやすい字ではなく、学者のやるように、崩した字を繋げている。鑑賞に値する、とまではいかないが、上手い字ではあった。

「ふむ…兵書に経典…こちらは法か……」

 男が感心したように呟いた。

 何を書いていいかわからなかったので、昔教わったものを、思い出した順に書いていっただけだったのだが。

「本当らしいな。身分を疑いたくなるような学識だが…。まぁ、いい。お前に頼むことにする」

「おお、そいつは助かる」

「一週間、留守にする。その間門人に読み書きを教えてくれ。報酬は後払い、額は立て札の通りだ」

「ああ」

「この家のものは好きに使ってくれて構わん。だが、値打ちのある物はない。盗んで売っても二束三文にしかならんよ」

「こんな立派な屋敷にすんでいるのに、か?」

 李勝が意地悪げな笑みを浮かべて聞いた。

「世を捨てたようなものだからな」

 答えた男の声は、ぞっとするほど空虚だった。

「…なにか質問はあるか」

 李勝の顔に複雑な表情が浮かんだのを見て、男は話題を変えた。

「あんたの名前、聞いてもいいか?」

「…ああ、そうだな。すまない、すっかり忘れていた。私は慶士という」

「俺は李勝だ。よろしく」

「こちらこそ」

 体温の高い右手と、低い右手が握手を交わし、契約成立となった。

 聞けば、慶士の出立は明後日だという。

 門人への面通しは翌日やるということにして、その晩は私塾で行う講義について、存分に語りあった。


 早朝、慶士は徒歩で出立した。

 彼は私塾では金を取らず、書物の複写や、代筆を主な収入源としているらしい。今回は隣の邑まで複写した書物を届けに行くのだと言う。

 前日のうちに、主な門人との面通しは済ませてあった。講義が滞ることはないだろう。尚薄という、門人では古顔の男も色々と手伝ってくれるらしい。

 門人達が集まるのにはまだ時間がある。李勝は講堂の雨戸を開けて軽く掃除を済ませ、朝食の前に少し、体を動かすことにした。

 よく均された庭で上半身裸になり、剣を抜き放った。

 剣は普通の規格よりも剣身・剣把が長く、柄尻には細い鉄鎖を編み込んだ、長い飾り紐が巻かれている。

 長ければそれだけ扱いづらいものだが、彼の師にあたる男はもっと長い剣を使っていた。師はその気になれば熊ですら膾切りにしてしまう。何度かその光景を目にしてきているので、見栄や例え話の類ではないことをよく知っている。流石にそれには及ばないものの、厳しい修行にたえてきたのだ。剣には多少、自信がある。

 片手、両手、順手、逆手…様々な持ち方、振り方で感触を確かめた。

 技術というものは、まず身体が出来ていないと機能しないものだ。痩せすぎや太り過ぎは勿論のこと、筋肉が着きすぎても、振りは鈍る。

 目を閉じて、刃が風を裂く音を聞く。重く厚い剣身にも関わらず、枯れ枝を振ったように短く鋭い音だ。

 (悪くない…)

 しばらく振り続けた後、李勝は満足げに頷いて、剣を鞘に収めた。

 だが、身体は少しばかり汗ばんでいる程度。これでは身体の状態を保つことは出来ない。

剣を塀に立てかけ、庭の端から端へと、何度も全力で駆けた。

 息が切れ、全身が心地よい痺れを感じるにいたって、李勝は鍛錬をやめ、井戸で水を浴びた。熱い鉄に水をかぶせたように、体から湯気が上がる。

 濡れた身体を拭いながら台所へ上がり、衣を羽織って、出立前の慶士と取った朝食の余りを腹に入れた。

 あとの時間は、集合を待ちつつ、慶士の写した本を読むことにする。仕事する傍ら、気に入った本は自分用に一冊写しているらしい。書庫には紙を綴った冊子が、山のように積まれている。

 李勝は適当に選んだ一冊を開き、机に肘をついて、しばらくの間、それに没頭していた。


「お疲れ様でした、先生」

 講義を終えた後、尚薄が椀に水を注いで持ってきてくれた。

 茶がいいな、とは思ったが、この地方ではあまり茶を作っていないらしい。茶よりも、米から作る酒に力を入れているのだそうだ。

「先生って柄でも、無いんだけどな」

「いやいや…とてもお上手でしたよ。人に教えるのがお得意なのでしょう」

「お前、口が達者なんだな」

「これでも、商人の端くれですので。まぁ、まだ小間使いではありますが」

「小間使い、ね」

 謙遜にも程がある。李勝はそう思った。

 尚薄の着衣は派手ではないが、襟元や袖口といった、細かいところに微細な飾りがしつらえられているのだ。それらは嫌味がない程度に、景気の良さを見せている。尚薄自身も、小柄だが血色はよく、動作には弛んだところが一切ない。そもそも、小間使いでは私塾に通う時間的余裕など、あろうはずもないのだ。

「いやぁ、私は商家の跡継ぎなんですよ。兄が早くに他界してしまいまして…。父が知識は無駄にならないと、こうして通うことを許してくれているのです。後妻として入った義母はあまり良い顔をしませんが…。奉公人も何人かずつ、交代で来ておりますよ」

 つまりは余裕があるということだろう。使っている人間の数も多く、主には見どころのある人間に教育を施す度量もある。

「繁盛しているようだが、何を扱っている?」

「主に扱っているのは、紙ですね。最近は酒と食料も少し」

「官営の紙を売れる商人、か。さぞかし儲かっているんだろう」

「慶先生より聞かれましたか。まぁ、競争相手があまりおりませんから。とはいっても、その身分を維持する努力が、また大変なのですよ」

 そう言って、尚薄は抜け目のない、商人の顔で笑って見せた。

 才覚のある商人というのは、近づきすぎると危険だが、かと言って敵にも回さない方がいい部類の人間でもある。

 この男は、今はまだ力不足かもしれないが、いずれそうなるだろう。頭の回転は速いし、なにより、人の心を読む才能を、言葉の端々に見せる。

 話していて面白い相手ではある。相手にとって不足なし、という気分にさせてくれるのだ。

 話し込むうちに、空の色は赤から深い紫へと、移りつつあった。

 館は邑から少しばかり離れた場所にあって、城門が閉まる時間が近づくと、人の気配は絶える。締め出しを食らう城内の民は言うに及ばず、城外に住む農民達も内職に励まねばならず、少しでも多くの銭を稼ぐため、一時足りとも無駄にすることはしない。

 今は人の声もなく、ただ風が庭の草を撫でる音と、静かな虫の鳴き声が響くのみとなっている。

 賑やかな城内の宿も良いが、野宿することも多い李勝にとっては、こういった聞きなれた音のする場所の方が落ち着いて寝られる。

 尚薄が帰り支度をする間、目を閉じて音に聞き入っていた李勝は、ふと、周囲に違和感を感じた。

 長く旅に暮らしてきた李勝は、独特の勘を身につけている。お陰で危険を逃れられた事は、一度や二度ではない。

 その勘によれば、自然のものとは違う、微かな音と空気の揺れが、何かを確かめるように館の周りを動いているらしい。

時折、視線がこちらに向いているような気もした。

少なくとも一人、何かしらの目的を持ってこの屋敷を窺っている。

 誰が、何故?

 慶士は何か、恨みを買ったりはしていないかと、尚薄にそれとなく聞いてみたが、それは有り得ないと言う。

流れ者の自分を怪しんでいるのだろうか、とも思ったが、尚薄が帰り、夜が深くなった頃には、その気配は消えていた。

(俺を見ていたのではないのか…?)

 李勝は首をかしげた。

 

 慶士が帰りついたのは、予定の通り一週間が経った日の夕方、李勝が雨戸の補強を行っている真っ最中だった。

 この日、嵐が来るとのことで、講義は早々に切り上げて、門人たちを帰らせている。

 今頃は李勝と同じように、必死で店や家の補強を行っていることだろう。

 一方の慶士は紐のついた革袋を肩に引っ掛けるようにし、左袖をなびかせながら悠々と歩いて来た。

(いいご身分だ…)

 そう思っても、大事な雇い主で、意気投合したこともあり、流石に口には出さない。

「一週間、しっかりやってくれていたようだな」

「金目の物を持って逃げる、とでも思ってたのか?」

 汗を拭い、皮肉で答える。

「それでも構わない、とは思っていた。なにせ、見ず知らずの流れ者に家を任せるのだから。もっとも、盗めるのは買い手の付かない写本くらいのものだろうが」

「見る奴が見れば価値がある、という類のものだからな、本って奴は」

「必要としている人間にとっては千金の価値があるが、無理にその人間を探し出そうとすれば、万金が必要になるものだ」

「盗んでも邪魔になるだけ、か」

「そういうことだ。まぁ、お前が自棄になって火をつける人間じゃなくてよかったよ。家無しで嵐を凌ぐのは、中々辛い」

 言って、慶士は空を見上げた。分厚いねずみ色の曇がどんよりと空を覆っている。少しずつ、風も出てきているようだ。

「よし、と」

「終わったのか?」

「ああ」

「すまんな、こんなことまでさせて」

「いいさ。嵐が過ぎるまでは、あんたがなんと言おうと世話になる」

 慶士は苦笑した。だが、満更でもなさそうだ。

「ちょっと出かけてくるよ」

「何処へ行く?今にも降り出しかねんぞ」

「酒を切らしちまったんだ。尚薄に頼んで用意しておいてもらってる。すぐ帰るさ」

「金は?」

 李勝は何も言わずににやりと笑い、慶士はやれやれと、首を振るばかりだった。


「先生、やっと来ましたね」

「悪い、待たせた」

 尚薄と落ち合ったのは、酒屋の前。荷車には酒の入った樽が載せられているが、人足はいない。代金をケチり、李勝が自分で引くつもりだった。

「降り出しそうだ。後は俺がやるからお前は帰ったが良い」

 李勝は手を振ったが、

「お気持ちはありがたいですが、そういうわけにもいかず…。さ、急ぎましょう、急ぎましょう」

 尚薄はそう言って荷車の後ろを押してくれた。

 ともすれば嵐が過ぎるまで帰れなくなり、商売にも差し支えが出るだろう。

 ここは固辞して帰らせるべきなのだろうが、李勝がそうしなかったのは、また例の視線を感じていたからだ。視線は、尚薄と落ち合う少し前からあった。

 未だに正体も目的も不明なのだが、薄々、

(見られているのは尚薄なのではないか…)

 と思い始めている。

 害意を持っている可能性もある。

 むしろ、ここまで執拗に視線を向けるというのは、害意あるが故と考える方が自然だろう。そうなれば、自分が一緒にいてやる方が安全かもしれない。

 李勝は警戒した様子など、毛振りにも見せず、冗談を飛ばしながら荷車を引いた。

 城門を出たところで、

「先生、降りだしました!」

 尚薄が叫んだ。

 視線の主はこの時を待っていたと見え、気配を膨らませ、殺気も滲ませている。まだ襲いかかってこないのは、雨足が強くなるのを待ち構えているのだろう。

 雨が強くなれば、音も気配もかき消されてしまう。

 一対一ならそれでも負ける気はしないが、大勢に襲いかかられると、不味いことになりかねない。こちらは尚薄を守りながら戦わなくてはいけないのだ。

 二人は早足で私塾へ向かう。

 距離は中頃、と言ったところか。

 雨脚も大分に強くなり、城からも離れた。

 引き返しておくべきだった、と後悔したのも遅く、じりじりと、十人程の人間が近づいてきている。

(これは…何も無しにたどり着くのは無理だな)

 李勝は一本の大きな老木があるところで立ち止まり、いつになく真面目な顔で、

「尚薄」

 と呼びかけ、荷車を大木の前まで引いて横倒しにしてから、

「少しの間、荷車の影に隠れていろ。俺がいいと言うまで、体を丸めてじっとしているんだ。何があっても、な」

 異論を挟ませない調子で指示をした。酒はこぼれて雨と一緒に流れてしまったが、それを気にする様子もない。

「は、はぁ…」

 状況をわかっていない尚薄は少しばかり戸惑ったが、結局李勝に従って、もぞもぞと、荷車の影に屈み込んだ。一週間程度の交誼ではあったが、李勝が意味もなく、そういうことを言う人間ではないと、わかっていたからだろう。

 一方の李勝は背に負った長剣を持ってゆっくりと引き抜き、鞘を無造作に放り捨てた。

 そして別段構えるでも無く、自然体を保ったまま、無言で立ち尽くしている。

 ゆっくりと、近づく気配はあるが、まだ姿を見せない。

 強くなった大粒の雨が李勝の全身を打ち、ばちばちと音を立てている。

 つ…と、眉のあたりから垂れた水滴が、右目に入った。

 誰かが手を挙げた、気がした。

 そう感じた瞬間には、李勝は緩めた全身の筋肉を引き締めて、短剣を片手に飛びかかった男を両断している。意表をつくべく、その男の背後に隠れて迫った者は、目を驚きに染めて、李勝の真上を通って着地した。

 右目を拭うことすらせず、屈んだ体勢のままで、荷車の周りをまるで這いずり回るかのように駆けた。

たちまち半数を斬って捨てたが、残った半数はちと、質が違うらしい。

 目標を尚薄から李勝に絞った動きは、

(相当に場数を踏んでいる…)

 と李勝に冷や汗をかかせるほどのもので、迂闊に動くことが出来ない。

 捨て身で動きを止める死に役と、相当に腕の立つ殺し役が、入れ替わり立ち代り攻めかけ、尚薄を庇う李勝は散々に苦しめられた。

 表裏一体の攻防を繰り返すうち、ようやく相手の人数が二人まで減った。残るは殺し役の男が二人。大男と、首魁らしい、一番腕の立つ男だ。

(さて、厄介な…)

 李勝は無傷だが、この雨である。体温を奪われ、徐々に剣を握る力も弱ってきている。

 相手も同じ状況、と思いきや、あちらは李勝ほど動きまわってはいないのだった。

 疲れさせるために死に役をけしかけ続け、腕の立つ二人で始末をつける算段だったのかもしれない。

 一人ずつ戦おうとすれば、片方と切り結ぶ間にもう片方が尚薄を殺すだろうし、かといって、この状況で二人を同時に斬るのは難しい。

(さて、どうするか…)

 二人が距離を詰めてくる。

(相手の剣は短いが…)

 小さく一歩、また距離が詰まった。まだ、剣は届かない。

(ええい…!)

 長剣が届く距離になって、李勝は跳んだ。

 読んでいたかのように二人は身をかがめて斬撃をかわし、大男が振り向いて李勝の背中を追う。首魁の男は、尚薄のいる荷車に向かって駆け出した。

 まさに。賭けではあったが、李勝はそう動いてくれるのを待っていた。

振り向きざまに追い縋った大男の膝を、跳ね上げるようにして斬ると、今度は袈裟斬りにするように思いっきり長剣を振って、首魁の男へ投げつけた。

 回転せず、まっすぐに飛んだ長剣は、狙った通りに首魁の頭へと突き刺さり、そのままの勢いで荷車へと、磔にしたのだった。

「尚薄、もういいよ」

「せ、先生…これは…」

 尚薄が、荷車の影より真っ青な顔を出した。

「お前を殺しにきたらしい」

 言いながら、李勝は涼しい顔で片足になった大男に当身を食らわせ、絶息させた。手早く止血してから剣を引き抜き、柄の飾り紐を解いて縛り上げる。

「背負っていくのも億劫だ。荷車に乗せていこう。起こすのを手伝ってくれ」

「つ、連れて行くのですか?」

「怖いか?まぁ、真相は、こいつから聞くのが手っ取り早いだろう」


 慶士の家へ運び込み、多少手荒な方法を使ってまで聞き出そうとしたのだが、結局男は口を割らず、嵐がやんだところで慶梁の兵士に身柄を引き渡した。

 まだまだ、やろうと思えば口を割らせる方法はあったが、男は血を失いすぎて衰弱していたし、目を話すと舌を噛み切ろうとするので、大人しく本職の者に委ねることにしたのだった。

 そちらの“尋問”でも男は相当に粘ったそうだが、一月程経った日、ようやくに口を割ったらしい。

 その頃李勝は既に慶梁を発った後であり、しばらくして後、慶士からの書簡で事件のあらましを知ることとなった。

その書簡の中で、慶士はきな臭い物を感じたと、はっきり書いており、それについては李勝も同感だった。

 事件を簡単に言うなら、後妻として入った尚薄の義理の母が、自分の弟を跡継ぎにしようとして仕組んだもの、ということになる。

 それだけならば、まぁ、普通の跡目争いと言えないこともない。結果的に無傷でもあるし、尚薄も運が悪かった、と苦笑して終わらせることも出来たろう。

 だが、二人が引っ掛かりを覚えたのは、あの日、尚薄を襲った連中の手並みであった。

 ただのごろつきではない。死に役と殺し役に別れ、自らの命を簡単に捨ててみせたのだ。殺しを生業にしているものでもそんなことはやらない。特殊な生まれ、特殊な育ち、特殊な訓練。そういったものをへて、人であることを捨てた、悪霊のような連中だからこそ、やってのけられる。

 この悪霊のような奴は雇うのに法外な金を使うはずだが、それ以前に、渡りをつけることすら難しく、接触しようとしただけで殺されることもあると言う。

 そんな連中をどうして雇いえたのか、それは後妻も語らなかった。と言うよりも、獄中で急死したために、語れなかったのだ。

 誰か仕組んだ人間がいるのは間違いあるまいが、その目的が大層なものであるとも李勝には思えなかった。

 慶士は陰謀がある、などと書いているが、商人の倅を殺して何の陰謀があると言うのか。小金を吸い取るのが精精といったところだろう。

 後味の悪い事件だったが、それだけだ。

 その黒幕とやらと関わることももうなかろうし、また流れに任せた旅に出るだけの事。

 考えるのにも飽き、書簡をたたんで懐にしまうと、間もなく、李勝は大きないびきをかき始めたのだった。



                                    【終】


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[良い点]  単純に面白かったです。歴史小説が好きなこともあり、休憩を挟もうという気が起きることもなく一気に読み終えました。  鷹揚なようでいて思慮深い李勝や、人に歴史ありと影が見え隠れする慶士。二人…
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