第6話 私が先輩とデートをするまでの話①
あれから一ヶ月。
先輩と予定が合う日は、彼女の家で、2人で食事をすることが日常になっていた。
先輩が作った料理を私を食べさせて貰い、私は心ばかりのお礼として食器を洗って片付ける。それが新たな習慣になっていた。
今は、夕食の食器を洗い終え、結城先輩の元に戻ったところ。結城先輩は、ローテーブルに突っ伏してうめき声を上げていた。
「うへぇ……」
分厚い専門書、びっしりと数字が印刷された資料の束、そして一台のノートパソコン。そこから放たれる無機質な光が、顔を上げた先輩の憂鬱そうな顔を照らす。
その姿は、苦手な注射を前にした子供のようだ。
嫌だけど、避けられない。そんな心情が分かりやすく顔に出ている。
「経営学部なのに、なんで経済学のレポートが必修なのかなぁ……。人の心の動きならまだしも、数字の動きなんて分かりたくもないよぉ」
「あはは……。でも、経営と経済は密接に関わってますからね。市場の動向を理解しないと、効果的な経営戦略は立てられませんし」
「うぅ、東雲さんの言うことは正論なんだけどさぁ……」
正論で殴らないで、とでも言いたげに、先輩はうらめしそうな目で私を見る。
その子供っぽい仕草が少しおかしくて、私はつい笑ってしまった。
先輩の隣で、資料の一枚を手に取る。損益計算書に、貸借対照表。びっしりと並んだ数字の羅列。
それは多くの学生にとって、苦手とするものかもしれないけれど、私にとっては見慣れたものだった。
「あ、これ、うちの学部の講義でやったのと似てます」
「そっか、東雲さん経済学部だもんね」
「はい。なるほど……これなら、私にも手伝えそうですね」
私の言葉に、突伏していた結城先輩が、がばりと顔を上げた。その瞳には、一筋の光明を見出したかのような、強い輝きが宿っていた。
「ほんと!? ほんとに!?」
「は、はい。多分ですけど……」
「で、でもまだ一年生なのになんでこんなの分かるの? もしかして、私のレベルが低すぎるだけ……?」
分かりやすく落ち込んだ顔になる結城先輩。彼女のどんな表情も、私の瞳には素敵に見えてしまう。
緩みかけた口元に力を入れて、私は平静を装った。
「一応私、商業高校出身で、簿記とかは結構やってたので。こういう分析は……その、わりと得意なんです」
「す、凄い! 助けて、東雲先生……!」
涙目で私の両手をがしりと握ってくる先輩に苦笑しながらも、私は胸の奥で静かに闘志を燃やしていた。
――遂に! 遂にちゃんと先輩の役に立てる‼
これまで、ご飯のお礼をしようとしても、のらりくらりと躱されていた。どうにか食後の皿洗いだけはさせて貰えるようになったけど、それだけでは到底お返しになっていない。
――今こそ、私から先輩へ恩返しできる絶好の機会‼
私は気合を入れて目の前の課題に向き合った。
「まず、このデータから必要な数値を抜き出して、変動費と固定費を分類しましょう」
ノートパソコンを借りて表計算ツールを開き、キーボードを叩いて関数を打ち込んでいく。カタカタと小気味良いタイピング音が、静かな部屋に響いた。
「え、すご……なにそれ、魔法?」
「いえ、ただの関数です。これで必要な数値を合計して、こっちのシートに自動で転記するように……はい、できました」
「は、はや……」
呆然と呟く結城先輩を横目に、私は資料の山から次の課題を探す。
減価償却の計算、損益分岐点の分析。高校時代に嫌というほど解かされた問題ばかりだ。
あの頃の自分を褒めてあげたい。おかげでこうして先輩の力になれる。
「東雲さんって、もしかして滅茶苦茶頭が良い……?」
「いえ、そんな大したことは……」
先輩からの手放しの称賛に、頬が熱くなる。
でもそれは、恥ずかしさだけではなかった。
自分の得意なことで、やっと先輩の役に立てている。その実感ができて、嬉しくてたまらなかった。
今までずっと貰うだけだった関係が、ほんの少しだけ、対等になれたような気がした。
「この売上高の推移ですけど、単純な棒グラフにするより、移動平均線を入れた折れ線グラフにした方が、傾向が分かりやすいと思います」
「い、いどうへいきんせん……?」
「ええと、こういう線なんですけど……」
先輩に説明するため、私はノートパソコンの画面を指差した。先輩は、「どれどれ?」と言って、自然に顔を寄せてくる。
その瞬間だった――。
ふわり、とシャンプーの甘い香りが、私の鼻腔を強くくすぐった。
私の視界の端には、先輩の綺麗な横顔が映る。先輩と私の肩が密着して距離がなくなる。
気づけば、私の心臓は、ドクン、ドクンと大きく、そして速く脈打ち始めていた。
ち、近い……!
私の内心のパニックなど全く気づいていない様子の先輩は、「へぇ、なるほどね。確かにこっちの方が見やすいかも」なんて、真剣な顔で画面を覗き込んでいる。
その無防備さが、余計に私の心臓に悪い。
思考が、先輩の匂いに溶けてしまいそうだった――。
「……ん? どうしたの、東雲さん。顔、赤いよ?」
不意に、先輩が不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。
「い、いえ! なんでもないです! 」
「あ、もしかして部屋熱い?」
「全然! 全然、ダイジョブです!」
先輩は、私の様子を見て不思議そうに首を傾げる。
「……そう? 無理しないで、熱いなら行ってね? エアコン付けるから」
「はい……ありがとう、ございます」
先輩はけろりとした顔で私から体を離し、元の位置に戻っていく。
先輩にとっては、今の距離は、ごく自然なものだったのだろう。そう思うと、一人で勝手にドキドキしている自分が、なんだか少しだけ馬鹿みたいで、恥ずかしくなった。
でも、一度意識してしまったら、もうダメだった。
さっきまであんなに滑らかに動いていた指が、急にぎこちなくなる。頭の中は、先ほどの至近距離の光景と、先輩の甘いの香りでいっぱいになっていた。
それでもなんとか全ての作業を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「東雲さん、本当に、本当にありがとう! もう、女神様かと思った……! この恩は絶対に返させてもらうから!」
そう言って、先輩は両手を合わせて私を拝んでくる。
「だ、大丈夫ですよ! むしろ、いつも私はお世話になりっぱなしなんですから……今回は、私からのちょっとしたお返しだと思ってください」
「料理の事は気にしなくていいのに。私がやりたくてやってるんだから」
「そういうわけにはいきません!」
「ふふっ……東雲さんは真面目だねぇ」
楽しそうに微笑む結城先輩の顔はいつまでだって見て居たくなるくらい綺麗だった。
でも、そういうわけにはいかないから。私は、後ろ髪を引かれる思いのまま先輩の部屋の玄関へ向かう。
「それじゃあ、今日はありがとね」
帰り際、先輩はそう言って、小さく手を振った。
私も手を振り返して応えると、自分の部屋に戻り、冷たいドアに背中を預ける。
「はぁ…………先輩、無防備すぎるよ……」
まだ、心臓はドキドキと速いリズムを刻んでいた。
先輩と触れ合った方に、まだ彼女の熱が残っているような気がして、私は優しく自分の肩を反対側の手で撫でる。
「もっと先輩に触れたい……」
気付けば、私の口は勝手にそんな言葉を吐き出していた。
そして私は、自分の欲望が、胸の中で強く疼いていることに気が付いてしまった。
「そっか……私、先輩のこと、好きになっちゃったんだ…………」




