第5話 私が後輩を家に招くまでの話
「いらっしゃいませー」
バイト先であるカフェのドアベルが鳴るたび、私は作り慣れた笑顔を顔に貼り付けた。
ランチタイムもそろそろ終わり。もうひと踏ん張りかな。
アンティークな雰囲気の良い店内で、常連客のカップルが楽しそうに談笑している。その光景を横目に、私は空になったグラスを片付けた。
私は結城琴声、二十歳。大学三年生。
ある事をきっかけにサークルを辞めてからというもの、私の生活は、大学の講義とこのカフェでのバイト、そして一人きりのアパートの部屋、その三点を行き来するだけの単調なものになっていた。
別に、それが寂しいわけじゃない。実家では三姉妹の長女として、常に誰かの世話を焼かされていた私にとって、一人暮らしの静けさはむしろ快適なくらいだった。
ただ、時々、ほんの時々、胸のあたりにぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚に襲われることがあるだけ。
「お疲れ様でーす」
朝から始まったバイトがようやく終わり、アパートへの道を一人で歩く。
今日の夕飯は何にしようかな…………何も思いつかない。
なんか、一人で食べるだけだと何食べてもあんまり変わんないんだよね。
そんなことを考えていた時だった。
住んでいるアパートに帰宅すると、隣の101号室のドアが開いているのに気づいた。外では、引越し業者の人たちが忙しなく荷物を運び込んでいる。
あ、お隣さん、越してきたんだ。
どんな人が来るんだろ? 変な人じゃなければいいな。
その時はただ、それくらいにしか思っていなかった。
――その日の夕方。
バイトの疲れでウトウトしていた私は、突然鳴ったインターホンの音で肩を跳ね上げた。
なんだろう? ああ、この間ネットで買った化粧品が届いたかな?
まだボンヤリとした頭で、私は玄関のドアを開けた。
「……ん?」
そこに立っていたのは、私の予想とは異なる様相の人物だった。
ショートカットの黒髪がよく似合う、私より少し背の低い女の子。その手には、何やら紙袋を持っていた。
そして、私の顔を見るなり、ガチガチに固まって、面白いくらいにテンパり始めた。
「本日、隣の101号室に越してまいりました、東雲と申します!」
その、あまりにも真面目で、ガチガチに緊張した自己紹介に、私は思わず吹き出してしまった。
顔を上げた彼女――東雲さんは、きょとんとした顔で私を見ている。その表情が、なんだか捨てられた子犬みたいで、庇護欲をそそられた。
可愛いな、この子。
それが、彼女への第一印象だった。
それから数日。
その日、夕飯にカレーを作り過ぎてしまった私は、その処理に頭を悩まされていた。
「まあ、タッパーに入れて冷凍庫に入れておけば、また別の日に食べれるかな……」
しかし、カレーをタッパーに詰めた所で、ふと、隣に越してきた後輩の顔が浮かんだ。
あの子、ちゃんとご飯、食べてるかな?
おそらく初めての一人暮らし。慣れない環境で、食生活なんて疎かになりがちだ。
おすそ分け、という名目で、少しだけカレーの処理を手伝って貰っちゃおうか……。
そんな軽い気持ちで、私は彼女の部屋のインターホンを鳴らした。
玄関の隙間から見えた、テーブルの上のコンビニ弁当。
それを見た瞬間、私の思い付きは、彼女にとっても悪いものじゃなさそうだと思えた。
「カレー、ちょっと作りすぎちゃって。食べてくれる人を探してたんだ。毎日コンビニ弁当は味気ないでしょ? これ、どう?」
最初はただ作り過ぎたカレーをお裾分けしただけだった。
それでもう終わり。そのはずだったのに。
「カレー、すっごく美味しかったです!」
お礼を良いに来てくれた東雲さんは、目をキラキラさせていた。
数年ぶりに誰かから料理の感想なんて貰った私の胸には、自分でも意外なほど嬉しさが込み上げていた。
「ちょうどさっき、肉じゃがを作ったんだけど。良かったら、食べてみない?」
私は、気が付くと彼女から返って来たタッパーにまた新しい料理を詰め込んでいた。それはバイト終わりの自分用に作った肉じゃが。
当然、2人分なんて作ってなかったから、その日、私はバイト帰りにスーパーで惣菜を買うことになった。我ながらバカだなぁと思いながら、私に後悔は微塵もなかった。
それからは、私が作った料理を東雲さんに届け、彼女からは綺麗に洗われたタッパーと、お礼の手紙が返ってくるサイクルができた。
『昨日の肉じゃが、程よい甘みが癖になって箸が止まらなくなりました。私、肉じゃがって家庭料理の代表みたいに勝手に思っているんです。だから、結城先輩の手料理を食べさせて貰ってるんだなって凄く実感できて、嬉しかったです』
『とっても美味しかったです。鶏の照り焼き、どうやったらあんなに柔らかくできるんですか? 私がやったら絶対にパサパサで固くなってしまうのに……。ちゃんと自炊ができる先輩のことを尊敬しています。今日もありがとうございました!』
いつの間にか、彼女が手紙に綴る言葉の1つ1つが、私の単調な毎日の中で、何よりの喜びになっていた。
だから、あの日――私は、思い切った提案を彼女にしてしまった。
「うちで一緒に食べない?」
効率が悪いからとかなんだとか、私は適当な理由をでっちあげてしまったけど、本当は彼女と一緒に食事をしてみたくなっただけだ。
それから……もっと、この子のことを知りたい。手紙の文字越しじゃなくて、顔を見て、話がしたい。
そう、思ったからだ。
「……お邪魔、します」
戸惑いながらも、私の部屋に足を踏み入れる東雲さん。
誰かと向かい合って食べる、久しぶりの温かい食卓。
私の作った料理を、「美味しいです!」と目を輝かせながら頬張る彼女の顔を見ていると、胸の奥が、きゅっと甘く締め付けられるような感覚がした。
この子といると、なんだか、調子が狂うな。
けれど、一人きりの静かな部屋より、彼女が隣にいるこの空間の方が、ずっと、ずっと居心地がいい。
その事実に気づいてしまった私は、もう、この温かい時間を手放せそうになかった。




