第2話 私が先輩の家に入るまでの話➁
あれから数日。私の新生活は、驚くほど順調に滑り出した。
大学のガイダンスは滞りなく終わり、最低限の家具も揃えた。自炊にも挑戦してみたが、初日に作った野菜炒めは、なぜかべちゃりとした水っぽい物体になり果て、私の心を早々に折った。
結果、ここ数日の私の食生活は、大学の学食と近所のコンビニが交代で支えてくれている。
「……いただきます」
今日も今日とて、コンビニで買ってきた生姜焼き弁当が私の夕食。
シーンと静まり返った部屋で、一人、弁当の蓋を開ける。
実家では、食事中はいつもテレビがついていたし、誰かしらの話し声が聞こえていた。その賑やかさが時には鬱陶しいとさえ感じていたのに、いざ完璧な静寂の中で食事をすると、どうしてあんなに味気ないのだろう。美味しいとか、不味いとかじゃない。ただ、空腹を満たすための作業。そんな感覚だ。
私はどうにも箸を手に取る気持ちにはなれず、蓋を開けた弁当を前にボーッとしていた。
ヤバイ、一人暮らし開始数日でもうホームシックになっている……。
ちょっと、お母さんにメッセージでも送ってみようかな。
そんなことを思っている時だった。
――ピンポーン。
不意に、軽やかな電子音が静寂を破る。
誰だろう? 別にネット通販なんて頼んでないよね……もしかして、怪しい勧誘とか?
どうしよう、居留守しちゃおうかな。でもなぁ……。
悩んだ末、私は息を潜めて次の出方を待つ。
よし、もう一度鳴らなければ、このまま居留守を使おう!
そう決めた、まさにその時だった。
――ピンポーン。
無慈悲にも、インターホンがもう一度鳴った。
どうしよう。一旦、モニターを覗いてみるべきか? でも、もし相手がドアの前に張り付いていたら、目が合っちゃうかも……うわ、何それ怖い!
終いには自分の想像で恐怖心を煽ってしまう。
ぐるぐると悩んでいると、今度はドアの向こうから、聞き覚えのある声がした。
「東雲さーん? お隣の結城ですけどー……いないかな?」
結城先輩⁉
その声に、張り詰めていた緊張が一気に解ける。同時に、『なぜ彼女が?』という疑問が湧き上がってきた。
しかし、今はそれどころではない。私は慌てて立ち上がり、玄関へ向かう。
「は、はい!今、開けます!」
ドアスコープを覗く余裕もなく、私はチェーンを外してドアを開けた。
そこに立っていたのは、先日と同じ、人懐っこい笑顔の結城先輩だった。
今日の彼女は、淡いブルーのカーディガンを羽織っている。
その手には、両手で大事そうに抱えられた、ガラス製の保存容器。タッパーというやつだろう。
「ごめんね、ご飯の最中だった?」
「あ、いえ、そんなことは……」
玄関からでも、テーブルの上に置かれたコンビニ弁当が丸見えなのが、なんだか無性に恥ずかしい。
「ふむふむ、東雲さんちの夕飯はコンビニ弁当かね?」
「はい、そうです……」
なんだか役者めいた喋り方の結城先輩が、ニンマリ笑っていた。
「もしかして、毎日そんな感じ?」
「その通りです……」
私は、年上のお姉さんに生活力の無さを指摘されたような気がして、勝手に落ち込んだ。
けれど、結城先輩はそんな私を本当に叱ったりはしない。
「なら丁度よかった。実はね、カレー、ちょっと作りすぎちゃって。食べてくれる人を探してたんだ。毎日コンビニ弁当は味気ないでしょ? これ、どう?」
そう言って、結城先輩は少し照れくさそうに、手にしたタッパーを私に差し出した。
湯気で少し曇った蓋の向こうに、美味しそうなカレーの姿が見える。ふわりと鼻先をくすぐる、スパイスと出汁の混ざった優しい匂い。それは、私が食べる冷めたコンビニ弁当とは違う、温かい家庭料理の匂いだった。
「え、あ、でも、そんな……悪いですよ!」
「いいのいいの! むしろ、もらってくれないと、明日も明後日も、私がカレーを食べ続ける羽目になるんだから」
そこまで言われて、私に断ることはできない。といか、むしろ私としては有難いことこの上ない話だ。
私は、恐る恐るタッパーを受け取った。まだ、ほんのりと温かいカレーの熱が手に伝わる。
「じゃあ、またね。お邪魔しました」
「あ、ありがとうございます……!」
これで目的は達成したと言わんばかりに、結城先輩は早々に、自分の部屋へと戻ってしまう。
一人、部屋に残された私は、手の中のカレーと、閉まったドアを、しばらく呆然と見比べることしかできなかった。
それから机の上に戻ると、すっかり存在感を失った生姜焼き弁当が、寂しそうに私を見ている。
しかし、目の前のカレーの存在が私を強く誘惑していた。
「お、お前の事も、明日の朝にちゃんと食べるから……今日は許して」
私は手を付けていないコンビニ弁当にそっと蓋をして、冷蔵庫にしまう。そして、代わりに、もらったばかりのカレーの蓋を開けた。
立ち上る湯気と共に、スパイスの香りが部屋いっぱいに広がる。大きくカットされた野菜がゴロゴロと入っていて、見るからに美味しそうだ。
スプーンで一口すくって、ゆっくりと口に運ぶ。
最初に感じたのは、野菜の甘みだった。じっくり煮込まれて、とろとろになった玉ねぎの甘さ。それを追いかけるように、本格的だけど辛すぎない、優しいスパイスの風味が口の中に広がった。
「…………美味しい」
ぽつりと、声が漏れた。
それは、誰に言うでもない、心の底からの呟きだった。
温かいカレーを食べると、身体が冷えていたわけでもないのに、なぜか体の芯までじんわりと熱が染み渡っていった。
二口、三口と食べ進めるうちに、なんだか無性に泣きたくなって、私は慌ててスプーンを置いた。
ひとり暮らしは快適だし、自由で、楽しい。
でも、このカレーの温かさは、私がこの数日間で忘れてしまっていた、誰かの手の温もりを思い出させた。
『近所付き合いは大事なのよ』
母の言葉は、やっぱり正しかったのだと実感させられた。
「引っ越しの挨拶、しといて良かったなぁ」




