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第14話 私が先輩と百合な関係になるまでの話③

 翌朝、私はいつものように『おはようございます』というメッセージを琴声さんに送った。数分もすれば、彼女から『おはよー!』という元気なスタンプと共に返信が来るのが、私たちの日常だった。

 しかし、今朝は違った。なかなかメッセージが既読になることはなかった。

 

『ごめん、今日、体調悪い』

 

 夕方になって、ようやく届いたのは、そんな短いメッセージだった。


 これって……お見舞いに来て欲しいって事ではないよね。

 むしろ、遠ざけられてる?

 

 なんとなく、琴声さんが私と会いたくない気持ちは察することができた。

 とはいえ、私も、今の彼女に会って何を話せば良いのかは分からない。

 

 ――いや、それは嘘だ。何を離せばいいのかは分かっている。

 

 昨日の男たちのこと、それから、琴声さんの過去のこと。

 公園で遭遇した人たちが『恋愛絡みで嫌な思いをした』という琴声さんの過去になんらかの関りがありそうだと予想はしている。

 これまで琴声さんは、昔の事に触れて欲しくなさそうだったし、私もあえて彼女の嫌な思い出を刺激しようとは思わない。だから、これまでは意識的に恋愛絡みの話題を避けていた。

 

 でも……これ以上は見て見ぬふりを続けられないのかな?

 

 夜になっても、彼女からの連絡はない。

 

『お見舞い行っても良いですか?』

 

 その一言を、私はどうしても送ることができなかった。拒絶されるのが、怖かったからだ。

 がらんとした自分の部屋で、私は久しぶりに、コンビニで買ってきた生姜焼き弁当の蓋を開けた。プラスチックの容器、冷え切ったご飯。

 数日前まで、この時間は、琴声さんの温かい手料理と、優しい笑顔に満たされていた。

 

『透は、本当に美味しそうに食べるよね』

 

 そう言って、嬉しそうに目を細める彼女の顔が、脳裏に浮かんで泡のように消える。

 その幸福な記憶との落差が、私の心を容赦なく(えぐ)った。美味しいとか、不味いとかじゃない。ただ、砂を噛むように、味気なかった。胸が詰まって、半分も食べることができなかった。


 どうしたら良いの?


 インターホンを押す勇気もなかった。

 私たちの部屋を隔てる、たった一枚の壁が、今は果てしなく分厚く、大きなものに感じられた。

 夕暮れの部屋で、一人、ベッドに倒れ込んだまま何もできずにいる。

 楽しかった時間の記憶は、目を瞑れば鮮明に思い出せるのに――。

 

 初めて会った日の、緊張した挨拶。

 お裾分けから始まった、奇妙な隣人関係。

 初めて一緒に食事をした瞬間の充足感。

 レポートを手伝った夜に感じたくすぐったい恋の予兆。

 下の名前で呼び合った時の、幸福感。

 

 窓の外は、いつの間にか真っ暗になっていた。部屋の明かりもつけないまま、私はただ、静寂の中で琴声さんのことを想い続けた――。

 

 そして、気が付けば、そのまま朝を迎えていた。

 寂しい。会いたい。声が聞きたい。

 たった一日、彼女と会わなかっただけなのに。私は禁断症状に陥ったように彼女を求めていた。

 

 琴声さんが辛い思いをしてるのが分かっているのに……結局、私はお見舞いにも行く勇気もない。

 今、琴声さんと会ってしまったら、これまでの関係とは何かが大きく変化してしまう気がしてならない。もしかしたら、致命的な傷を作ってしまうかもしれない。

 

 それは嫌だ……そんなの絶対に耐えられない。


 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる――――。

 馬鹿みたいに同じことを考えては、結局、動き出すことができない。


 あの男たちの下劣な言葉。そして、その言葉を浴びた時の、琴声さんの凍りついた表情。まるで時間が止まってしまったかのような、生気のない瞳。その後に見せた、何者も寄せ付けない拒絶の態度。

 あの光景が、何度も何度も、私の脳裏で再生される。


 もし、あんな風に私のことも拒絶されてしまったら……考えただけで吐きそうだ。


 時が経てば、どんな傷も、ある程度は勝手に()えていくという。だから、もしかすると、私がこのまま何もしなくても、琴声さんはある日を境にケロッと依然と同じ態度で私に接してくれるようになるのかもしれない。

 なら、いつか来るかもしれないその未来を期待して、私はただ待っていればいいのだろうか?


 本当に、それでいいの?

 彼女が一人で苦しんでいるのを、ただ傍観しているだけでいいの?

 琴声さんの力になりたいと、心から願っていたはずじゃなかったの?


 ――あれ、そうじゃん。今だよ。私が琴声さんの為に何かをしなきゃいけないのは、今しかないじゃん。

 

 あれだけ悩んでいたのが下らなく思えるほど、突然、私の中で結論が出てしまった。


「行かなきゃ」


 琴声さんの、あの花が綻ぶような笑顔を、もう一度見たい。彼女の隣で、温かいご飯を食べて「美味しいね」って笑い合いたい。

 あの琴声さんの笑顔のためなら、何だってしてあげたい。

 

 たった一枚の壁が、果てしなく分厚く感じる?

 何をアホな事を考えているのか。学生が借りる安アパートの壁がそんなに分厚いもんか。


 ベッドから飛び起きた私は、まっすぐ玄関に向かって部屋を出た。

 その勢いのまま、102号室のチャイムを鳴らす。

 ピンポーン、という電子音が、扉越しに聞こえてくる。

 

 返事は、なかった。

 もう一度、押す。

 しん、とした沈黙が続く。

 それでも、私は諦めなかった。

 

「琴声さん! 私です、透です!」

 

 ドアに向かって、私は叫んだ。

 それでも、中からの反応はない。


 もしかして、出かけている?

 そうだ、何も考えないで勢いだけで来ちゃったけど、本当に部屋に居ないかもしれないのか……。

 

 なんて、そんなことを思った時――ガチャリ、と内側から、微かな金属音がした。

 チェーンがかかったまま、ドアが数センチだけ開かれる。その隙間から、なんだか怯えた様な顔の琴声さんが、私を見ていた。

 

「……どうしたの? 体調、悪いって伝えたよね?」


 その声は、私を拒絶しているというより、やはり怖がっているように感じた。

 こんな態度を取られたことは初めてで、少しだけ緊張がぶり返してくる。

 それでも、私はもう引き返す気なんてなかった。

 

「ごめんなさい。でも、どうしても、話がしたくて」

「今は……1人にして欲しいかな…………」

 

 そう言って、彼女はドアを閉めようとする。その、か細い声が、私の胸を締め付けた。

 

「待ってください!」

 

 私は咄嗟に、ドアの隙間に自分の手を差し入れた。ドアが私の手を挟んで止まる。手の痛みが奔ったけど、なりふり構っていられない。

 

「……っ、何してるの! 危ないでしょ!」

「お願いです! 私の話を、聞いてください!」


 このまま彼女を一人にしてはいけない。本能が、そう叫んでいた。

 

「私とちゃんと話をしてください。じゃないと絶対帰りません!」

 

 私の強情な態度に、琴声さんが息を呑むのが分かった。しばらくの沈黙の後、彼女は諦めたように、深いため息をついた。

 

「透……やっぱり変なとこで頑固だよね」

 

 カチャリ、とチェーンが外される音がして、ドアがゆっくりと開かれた。


「琴声さん!」


 ドアの先には、疲れた顔をした琴声さんが立っている。

 私は思わず抱きしめてしまいたくなる衝動を抑えた。

 

「今、無理にドアを閉めても、一日中外で出待ちされそうだもん」

「そ、そこまでストーカー気質じゃない……と、思いますよ?」


 いや、今ならやっていたかもしれない。


「良いから上がって。朝から部屋の間で騒いでたら、他の部屋に人から変に思われちゃうでしょ」

「す、すみません……お邪魔します」

 

 促されるままに部屋へ入ると、中はシンと静まり返り、ひやりと冷たい空気が漂っていた。カーテンは閉め切られ、テーブルの上には、手付かずのコンビニのパンが置かれている。

 ローテーブルを挟んで、琴声さんの向かい側に座る。いつも通りの席、けれど、いつもとは違う空気。

 暫く、琴声さんは何かを話そうとして、口を閉ざし、また何か言おうとして、俯いてしまう。そんなことを繰り返していた。

 私は何を言うでもなく、琴声さんから話を聞かせてくれるのを待った。

 やがて、琴声さんはぽつり、ぽつりと話し始める。

 

「……あいつらは、私が去年まで所属していた、テニスサークルのメンバーなの」

 

 断片的に、そして苦しげに、過去の出来事を打ち明けてくれた。

 競技性よりも遊びがメインの、緩いサークル。最初は、男女問わず、みんな仲が良くて、楽しかったこと。

 けれど、ある男子からの告白を断ったことをきっかけに、全てが崩れ始めたこと。

 友人だと思っていた他の男子たちからも、まるでゲームのように次々と告白され、その全てを断った結果、気まずさから避けられるようになったこと。

 信じていた女子メンバーからも、「思わせぶりな態度が悪い」と陰口を叩かれ、孤立していったこと。

 そして、決定打になった、事実無根の噂。


「……私が、援助交際してるって……そんな噂が、流れたの」


 琴声さんの声が、微かに震えた。


「みんな、面白がって、噂を広めて……。もう、誰も信じられなくて……怖くなって、サークルを辞めた。それから、ずっと……大学では、一人だった」


 もう他人に振り回されるのはこりごりだ。

 そう思って、ずっと一人で壁を作って大学生活を送っていたのだと、彼女は言った。

 

「……ごめんね。こんな、つまらない話聞かせて」

 

 話し終えた彼女は、憔悴(しょうすい)した顔をしていた。

 私は、口を挟むでもなく、ただ黙って彼女の話を聞き終えた。

 

 愛する人が、どれほど深く、残酷に傷つけられていたのか。その心の叫びが、私の胸をえぐるように突き刺さる。

 込み上げてくるのは、彼女を傷つけた者たちへの、燃えるような怒り。

 けれど、それ以上に強く、私の心を支配したのは、琴声さんへの際限ない愛だった。

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