第13話 私が先輩と百合な関係になるまでの話②
その日は、大学の帰りに駅前の書店へ寄る約束をしていた。私が探している経済学の専門書と、琴声さんが読みたいと言っていたベストセラーの小説。それを探し終え、ずっしりと重くなったトートバッグを肩にかけ直した私たちは、駅前の喧騒を抜けて、少しだけ遠回りになる公園を歩いて帰ることにした。
夕暮れ時の公園は、部活帰りの高校生の賑やかな笑い声や、犬の散歩をする人々の穏やかな話し声で、心地よい活気に満ちている。ベンチに座って缶コーヒーを飲むサラリーマンもいれば、遊具で無邪気に遊ぶ子供たちの姿もあった。
「あ、見て透。猫」
琴声さんが、弾むような声で私の袖をくいと引く。彼女がそっと指差す先では、手入れされた植え込みの影で、ふくふくとした三毛猫が気持ちよさそうに大きな欠伸をしていた。陽だまりの中で丸くなるその姿は、見る者の心を和ませる。
「可愛い……」
「ね。触らせてくれないかなぁ?」
「眠そうだし、あんまり構おうとすると怒られちゃいそうですね」
「ぬ~~……無性に揉み解したくボディをしおってからに…………」
琴声さんは手をワキワキと動かし、捕食者の方な目で三毛猫を見つめる。その視線に気づいたのか、猫はびくりと身を固くすると、慌てて何処かに駆けて行った。
「あ……猫ちゃん…………」
「琴声さんの殺気が強すぎるんですよ」
「殺気とは何か⁉」
むくれる琴声さんがおかしくて、私は声を上げて笑う。すると、琴声さんもつられるように笑い出した。そして、二人で顔を見合わせて、笑い合う。
琴声さんの笑顔は、公園のオレンジ色の光を浴びて、いつも以上にきらきらと輝いて見えた。
――そんな、温かく満たされた空気が破られたのは、本当に、一瞬の出来事だった。
「あれ? 結城先輩じゃん」
背後からかけられた、馴れ馴れしく、そしてどこか粘着質な響きを持つ男の声。
その声が聞こえた瞬間、琴声さんの肩が、ほんのわずかに強張ったのを私は感じ取った。
ゆっくりと振り返ると、そこには三人の男子大学生が立っている。派手なグラフィックのTシャツに、わざとらしくダメージの入ったジーンズ。そのうちの一人は、髪をけばけばしい金色に染めている。彼らは、私たちから数歩離れた場所で立ち止まり、品定めするような無遠慮な視線を、琴声さんと、そして私に向けていた。
「久しぶりっすねぇ! 大学であんまり見かけなくなってたし、辞めたのかと思ってました」
金髪の男が、へらへらと笑いながら言う。その言葉には、明らかに棘があった。
「ああ……久しぶり」
琴声さんの声は、微かに震えているように聞こえた。いつも私の名前を呼んでくれる声とは似ても似つかない、乾いて、色のない声だった。彼女の表情からは、さっきまでの柔らかな光がすっと消え失せ、まるで能面のように感情が抜け落ちていた。
金髪の男の隣にいた、体格のいい男が、特に意地の悪そうな笑みを唇に浮かべて、一歩前に出た。その目は、獲物を見つけた肉食動物のように、いやらしい光をたたえている。
「先輩、サークルも辞めて、最近ぜんぜん見ないと思ったら、こんなとこで会えるなんて。そっちの子は誰っすか?」
その言葉は、ねっとりとした不快な響きを伴って、私の耳に直接流れ込んできた。一瞥だけでも不快になる視線が、私の頭のてっぺんから足の先までを、舐めるように這い回る。ぞわり、と肌に粟が立ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
「……関係ないでしょ」
琴声さんが、吐き捨てるように言った。その声は、私が今まで聞いたこともないほど、低く、冷たい。まるで、言葉そのものが嫌悪感そのものを実体化したような針。
そして、彼女は、私を庇うように、私の半歩前に立っていた。その横顔には、何も寄せ付けない圧のようなものがある。
怖い。本当に私が知ってる琴声さんなの?
「こわっ。まあ、いいけど。相変わらず、男とっかえひっかえ頑張ってくださいよ。あ、今はもしかして女?」
男はわざとらしく肩をすくめると、仲間たちと顔を見合わせて下品に笑った。その笑い声が、静かな公園に不協和音のように響き渡る。彼らは、それ以上私たちに絡むことはなく、まるで道端の石ころでも蹴飛ばすように興味を失うと、だらだらと公園の出口へと歩いて行ってしまった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった彼ら。
後に残されたのは、耐え難いほどの沈黙と、夕暮れの冷たい風だけだった。公園の喧騒は続いているはずなのに、私の耳には、自分の心臓の音と、琴声さんの浅い呼吸の音しか聞こえなかった。
「……琴声さん?」
恐る恐る、隣に立つ彼女の顔色を窺う。
琴声さんは、彼らが去っていった方向を、ただじっと見つめていた。その横顔は、見たこともないほどに青白く、まるで血の気が失せてしまったかのようだ。きゅっと結ばれた唇には色が無く、握りしめられた両手は、小さく、小刻みに震えていた。
そこにいるのに、心がどこか遠い場所へ行ってしまったみたいだった。ガラス細工のように、触れたら壊れてしまいそうなほど、脆く、儚く見えた。
「……帰ろう」
やがて、ぽつりと彼女は呟いた。私の方を見ようともせずに。
その声には、何の感情も乗っていなかった。ただ、空っぽの器から音が漏れ出たかのような、虚ろな響きだけがあった。
私は、何と声をかければいいのか分からなかった。
さっきの……男をとっかえひっかえって……何?
琴声さんがそんなことしてるはずないのに。
でも、琴声さんのこの感じ……どういうこと?
何も分からないよ…………。
さっきの男たちの、あまりにも無礼で、悪意に満ちた言葉。そして、琴声さんの、あまりにも痛々しい姿。私の頭の中は完全に混乱し、「大丈夫ですか」というありきたりな言葉すら、喉に詰まって出てこない。どんな言葉も、今の彼女をさらに傷つけてしまうような気がした。
結局、私は何も言えないまま、彼女の数歩後ろを、黙ってついて歩くことしかできなかった。
アパートまでの帰り道、私たちの間に会話はなかった。いつもなら、今日の出来事や、買った本のことで楽しく会話しているはずの時間が、静かすぎて、長く息苦しく感じられた。
自分の部屋のドアの前で、琴声さんはようやく足を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……ごめん、透。今日は、私、ちょっと疲れてて。夕飯、一緒に食べられない」
そう言って彼女が浮かべたのは、張り付いたような笑顔だった。その笑顔が、無理に作られたものであることは、誰の目にも明らかだった。その痛々しい笑顔が、私との間に壁を作ろうとしているようで、酷く胸が圧迫されるような感覚に襲われた。
「……わかり、ました」
頷くのが精一杯だった。本当は、「どうしたんですか」「私に話してください」と、その腕を掴んで問いただしたかった。けれど、彼女が纏う拒絶の空気が、私にそれを許さなかった。
琴声さんは、「じゃあね」と小さく手を振ると、逃げるように自分の部屋へと入ってしまう。
バタン、と閉まったドアの音が、やけに大きく、そして冷たく廊下に響いた。
一人残された私は、しばらくその場から動くことができなかった。ドアの向こう側にいるはずの彼女が、ひどく遠い存在に感じられた。
ちょっと前までの温かい幸福感が、まるで遠い昔の夢だったかのように、冷たくて暗い不安が、私の心をじわじわと蝕み始めていた。