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第10話 私が先輩を名前で呼ぶまでの話

 月曜日の夕暮れ。

 重たい講義資料の詰まったトートバッグを肩にかけ、私は自分の部屋のドアの前で足を止めた。そして、102号室のドアを、私は盗み見るようにそっと見つめる。

 それから、彼女の部屋の前に立ち、インターホンに指を伸ばしかけて、止める。その動作を、私は何度か繰り返していた。


 ……今日は、やめておいた方がいいかもしれない。

 

 昨日の出来事が頭をよぎり、インターホンを押そうとする指先に鉛のような重みが絡みついてくる。

 曇った先輩の笑顔。遠くを見るような、少しだけ冷たい瞳。

 ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、楽しかった時間を塗りつぶしてしまう程に印象深い出来事として私の記憶にこびりついていた。

 私が、自分で壊してしまったのだ。あの温かくて、優しい時間を。


「今日は……1人で食べようかな……」

 

 その時、ポケットに入れていたスマートフォンが、短く震えた。

 画面に映った通知に、私の心臓が大きく跳ねる。

 

 ――結城先輩からだ。

 

 震える指でロックを解除する。そこに表示されていたのは、いつもと変わらない、短いメッセージだった。

 

『今日、夕飯はシチューでいいかな?』

 

 その短いメッセージが、乾ききっていた私の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。

 先輩の方からメッセージを貰えたことで、胸を締め付けていた万力のような不安が、少しだけ緩む。

 私は慌てて、『先輩のシチュー食べたいです!』と返信を送った。すぐに既読がつき、『OK』というスタンプが返ってくる。

 さっきまでの躊躇いが嘘のように、軽くなった足取りで、私は102号室のインターホンを鳴らした。

 

「はーい」

「こ、こんばんは」

「なんだ、東雲さん家の前に居たんだ」

「……はい、えへへ」


 本当はもう5分以上、先輩の家の間で立つ尽くしていたのだけど、そのことは言わずに笑って誤魔化した。

 ドアを開けてくれた先輩は、「いらっしゃい」と、いつも通りに私を招き入れてくれる。 

 部屋の中には、ふわりとミルクの優しい香りが満ちている。ローテーブルの上には、湯気の立つクリームシチューが二人分、既に用意されていた。


「あれ……もう出来てるんですか?」

「あ、あはは……実は、メッセージ送る前に、無意識に二人分作っちゃってた……」


 照れくさそう笑っている結城先輩が愛らしくて、私は必死に自分を押さえないと抱き着いてしまいそうな衝動に駆られた。


「どうしよう? ちょっと早いけど、もう食べちゃう?」

「はい! こんな良い匂い嗅いだから、私もうお腹すいちゃいましたよ」

 

 私は、可能な限りいつも通りの表情を作って先輩に笑いかけた。

 

「今日の講義、地獄みたいに眠かった……」

「また経済学ですか?」

「うん。なんかも~、よく分かんない公式が出て来てさぁ」

「じゃあ、後で講義資料見せてください。また教えられることもあるかもしれませんから」

「本当? やった! よろしくお願いします、東雲先生!」

 

 交わされる会話も、いつも通り。

 けれど、私はすぐに気づいてしまった。その『いつも通り』が、薄氷一枚を隔てた、壁の先にあることに。

 先輩の笑顔が、ほんの少しだけ、硬い。笑い声が、いつもよりも作り物めいて感じてしまう。

 いつも通りの先輩は、もっと――私の目を、見てくれる。

 

 会話が途切れた瞬間の沈黙が、いつもより少しだけ長い。その気まずさを埋めるように、先輩の指がテーブルの上を所在なげに滑る。

 そして、やっぱり私と視線が合う回数が、いつもよりずっと少ない。

 

 ……昨日のこと、気にしてるんだ。

 

 原因は、間違いなく私にある。

 きっと、私が踏み込んではいけない領域に、土足で踏み込んでしまったからだ。

 でも、今、再び私がその話題に触れたら、かろうじて保たれているこの穏やかな時間は、音を立てて崩れてしまうかもしれない。

 それだけは、絶対に嫌だった。


「先輩、このシチュー、すごく美味しいです! お野菜がとろとろで……!」


 だから私は、気づかないふりをした。それが、この場所を守るための、今の私にできる唯一の方法だと信じて。いつもより少しだけ明るい声で、私は精一杯の笑顔を作った。


「ほんと? よかった」


 そう言って笑う先輩の目が、一瞬だけ、寂しそうに揺れたのを、私は見逃さなかった。


 食事が終わり、二人で食器を片付ける。その間も、私たちの間にはどこかぎこちない空気が漂っていた。

 

「ごちそうさまでした。それじゃあ、私はこれで……」

 

 これ以上ここにいたら、私の嘘の笑顔も、限界を迎えてしまいそうだった。逃げ出すように玄関へ向かい、靴を履く。

 

「うん。お疲れ様」

 

 ドアノブに手をかけた私を、先輩は見送ってくれる。その時だった。

 

「……あのさ、東雲さん」

 

 背後からかけられた声に、私の肩が小さく跳ねた。いつもより、少しだけ低い、真剣な声色。

 振り返ると、先輩は俯きがちに、フローリングの床の一点を見つめていた。

 

「昨日、ごめんね……」

 

 ぽつりと、絞り出すような謝罪の言葉。私は一瞬、何のことか分からずに戸惑った。謝らなければいけないのは、私のほうなのに。

 

「え……?」

「なんか、好きなタイプがどうとかって聞かれた時……私、ちょっと変な態度になっちゃってたよね」

 

 まさか、先輩の口からその話題が出るとは思っていなかった。私の頭は真っ白になり、心臓がどくん、と大きく鳴った。

 

「私があんな感じだったから、東雲さんを困らせたでしょ……? ごめんね」

「そ、そんな……こと……」

 

 そんなことないです、と続くはずだった言葉は、声にならなかった。

 それに、否定したところで、もう自分の顔に本心が出てしまっていることが分かっていた。

 結城先輩もそれを察して、申し訳なさそうな顔で静かに言葉を続けた。

 

「私ね、ちょっと前に恋愛絡みで、すごく嫌なことがあって。だから……つい、それが顔に出ちゃった。東雲さんは、何も関係なのに」

 

 先輩は、そこで初めて顔を上げた。その潤んだ瞳が、真っ直ぐに私を捉える。

 

「そのことを謝りたかったんだけど、なかなか切り出せなくて……今日もギクシャクしちゃった。東雲さんといるこの時間が、私にとってすごく大切だから……もしも、私がまた何か言って、東雲さんに嫌な思いをさせたらどうしようって……」

 

 その言葉が、私の心の最も柔らかい場所に、ゆっくりと、でも確かに届いた。

 張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れたような気がした。

 先輩は、私のことを拒絶したんじゃなかった。私と同じように、この温かい時間を、大切に、守りたいと思ってくれていた。

 その事実が、どうしようもなく嬉しくて、愛おしくて。私の目から、熱い雫がぽろぽろと零れ落ちた。

 

「私の方こそ、すみませんでした……っ!」

 

 しゃくりあげながら、私は自分の本当の気持ちを伝えた。

 

「私、先輩の触れて欲しくない部分に踏み入って、嫌な思いをさせて……!」

「違うよ……東雲さんは悪くない。ごめんね。……ありがとね」


 いつの間にか、先輩も涙を流していた。でもそれは、私と同じ、安堵から出た涙だと分かった。

 どこか張りつめていた部屋の中の空気が、ゆっくりと弛緩(しかん)していく。

 

「でも、私、嬉しかったです。先輩が、この時間を大切に思ってくれてることが分かって……凄く、嬉しかった!」

「当たり前だよ。こんなに安心できる時間、もうずっとなかった……全部、東雲さんのおかげなんだよ」

 

 私たちは、同じだったのだ。この気持ちを、この関係を、同じくらい大切に想っていた。

 私は、それが嬉しくて、幸せで。

 でも、それでもまだ――もう一歩、先へ進めたい。

 

 私は涙をぐいと拭うと、目の前の愛しい人に向き直り、ありったけの勇気を込めて、その名前を呼んだ。


 「私、結城先輩と……琴声(ことこ)さんと、もっと、仲良くなりたいです」

 

 言った瞬間、自分の顔に一気に熱が集まるのを感じた。

 琴声さんは、驚いたように少しだけ目を見開いた。その綺麗な瞳が、緊張する私の目を、正面から見つめている。

 やがて、その表情が、ふにゃりと、力が抜けて緩んだ。

 それは、何とも形容しがたい、けれど、心底嬉しそうな笑顔だった。

 

「……うん。私も、そう思ってたよ、(とおる)

 

 初めて呼ばれた、甘い響き。

 その声が、音が、全身を駆け巡り、私の心を甘く締め付けた。

 

 もう、私たちの間に、ぎこちない空気はどこにもなかった。

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