第1話 私が先輩の家に入るまでの話①
「……よし」
ダンボールの最後の1つを部屋の隅に寄せ、私は小さく呟いた。
フローリングの床にぺたんと座り込む。がらんとした真新しいワンルームには建材と、ダンボールの乾いた匂いが強く満ちていた。
私は東雲 透、十八歳。今日から地元を離れて、人生初めての一人暮らしを始める。
実家を出ることに寂しさがなかったと言えば嘘になるけれど、それ以上に、誰にも干渉されない自由な生活への期待が大きかった。
窓の外を見れば、すっかり傾いた西日がオレンジ色に街を染めている。引越し業者のトラックが帰ってから、もうどのくらいが経っただろうか。
不意に、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。母からだ。
『落ち着きましたか? 忘れずに、お隣さんへのご挨拶は済ませてくださいね』
業務連絡のような短いメッセージ。人によっては、家族の連絡にしては他人行儀に見えるかもしれない。
けれど、私は母らしいメッセージにホッと一息つくことができた。それから、はっと我に返る。
そうだった。引越しの挨拶。すっかり頭から抜け落ちていた。
「はぁ……」
思わず、深いため息が漏れる。
コミュ障には引っ越しの挨拶ってハードル高いんだよなぁ。今どき、引っ越しの挨拶なんてしなくても良いんじゃないかな……。
人の多い場所が苦手で、初対面の人と話すのは、もっと苦手だ。
そんな私の性格を知ってか知らずか、母は丁寧に包装されたタオルまで用意して、私の荷物に忍ばせていたのだ。
『近所付き合いは大事なのよ』
そう言って笑っていた母の顔が浮かぶ。
ここで挨拶をしないという選択肢は、自分の性格が許してくれなかった。
「仕方ない……行くしかない、か」
床に置いたままだった紙袋を、意を決して手に取る。中には、上品な柄のフェイスタオルが入っている。
幸いなのは、私の部屋が角部屋で、隣の部屋が1つだけという事だろう。
玄関のドアを開け、すぐ隣にある同じデザインのドアの前に立つ。102号室、表札は出ていない。
どんな人が住んでるのかな? いかにも大学生っぽい騒がしい人だったらどうしよう。
もしくは、気難しくて怖い人とか……あ~、嫌な想像ばっかりしちゃうよ。
一度、ぎゅっと目を閉じて、息を吸う。
大丈夫。ただの挨拶だ。引越しの、ただの儀礼的な挨拶。すぐに終わる。
そう自分に言い聞かせ、震える指でインターホンのボタンを押した。
ピンポーン、という軽やかな電子音が、静かな廊下に響き渡る。
やがて、ドアの向こうから「はーい」という、少し気の抜けた声が聞こえた。女性の声だ。それに少しだけ安堵していると、ガチャリ、と鍵が開く音がして、ゆっくりとドアが開かれた。
「……ん?」
そこに立っていたのは、私よりも少しだけ背の高い、綺麗な人だった。
ゆったりとした生成り色のパーカーから覗く首筋は白く、緩いウェーブのかかった髪は、夕日を吸い込んでキラキラと輝くブロンドに見える。大きな瞳は、少し眠そうだった。
突然の訪問者に、彼女は不思議そうに小首を傾げた。その仕草に、私の心臓が、また別の意味でドキリと跳ねる。
「あ、あのっ!」
まずい、声が裏返った……ええい! 知るか! このまま言っちゃえ!
「本日、隣の101号室に越してまいりました、東雲と申します! これ、心ばかりの品ですが……! 今後、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、何卒、よろしくお願いいたします!」
覚えた言葉を空で読み上げただけの挨拶。自分でもおかしくなるくらいに堅苦しい口上を早口でまくし立てた。
それから、私は手にした紙袋を両手で突き出し、深々と頭を下げる――沈黙が、痛いほど長く感じた。
ああ、きっと引かれている。変な奴だと思われたに違いない。
これから数年間、壁一枚を隔てて気まずい生活を送るのか。いっそこのまま土に還りたい……。
そんな絶望的な思考が頭をぐるぐると巡り始めた、その時だった。
「ふふっ」
頭の上から、控えめな笑い声が聞こえてきた。
「ご丁寧にどうもありがとう。顔を上げて?」
促されるままに恐る恐る顔を上げると、彼女は悪戯っぽく細められた目で、優しく私を見つめていた。その表情に、強張っていた全身の力が、ふっと抜けていくのを感じる。
「私、102号室の結城琴声。こちらこそ、よろしくね」
差し出された紙袋を、彼女は柔らかい手つきで受け取った。
その時、ふわり、と甘くて清潔な香りが鼻先を掠める。柔軟剤だろうか、それともシャンプーだろうか。彼女の雰囲気によく似た、心を落ち着かせる優しい匂いだった。
「もしかして、白大の新入生だったりする?」
白大というのは、私がこれから通う白崎大学の略称だ。
「は、はい! そうです! 4月からの新入生です!」
「ホント? 私も白大の3年なの。よろしくね、後輩ちゃん」
彼女のへらっとした笑みがやけに魅力的に見えて、私は少しだけ頬が熱くなった。
「引越し、大変だったでしょ。疲れた顔してるよ」
そう言って、結城先輩は私の目を見て、もう一度、花が綻ぶように笑った。
その笑顔を見ていると、ついさっきまで考えていた隣人への恐怖が、嘘みたいに溶けていくようだった。
「これからよろしくね、東雲さん」
「……はい! よろしくお願いします、結城先輩!」
自然と、そう返事ができていた。
自分の部屋に戻り、冷たいドアに背中を預ける。まだ、心臓は少しだけ速い。けれどそれは、冷たい緊張の名残ではなく、温かい胸の高鳴りだった。
初めての一人暮らし。その隣人は、綺麗で、優しくて、とてもいい匂いがした。
完結まで執筆済みです。
四万文字程度の中編作品です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。