008 星志君のお仕事
本日、二度目の更新です
清香は、とりあえず食材を把握するためにキッチンの扉を全部開けて中を確認する。成瀬さんのキッチンには、お鍋やキッチン道具の必要最低限は揃っていた。お皿やカラトリーも一通りあり、料理を作って出すのは問題なさそうだ。
炊飯器とお米も見つけたので、すぐにお米を研いで炊飯器を早焚きにセットする。それが終わったら、シンクの中にあったお皿を綺麗に洗って、飲みかけのペットボトルも中身を捨てたら洗っておいた。
そして自分が持って来た食材の鞄を開けて中を確かめる。味噌や卵や牛乳、そしてお豆腐。食パンに使いかけのいくつかの野菜もある。
「まっ、何とかなるかな?」
まな板と包丁を取り出すと、手早く野菜を切り出した。一通りの作業が終わった清香が手を止めて、時間を確かめると既に八時になっている。恐らく、料理を初めてから三十分以上は経過しているはずだ。
なのに、成瀬さんは二階に上ったっきり下に降りてこない。後は、ご飯が炊けるのを待つのみなのだが……。炊飯器を確認すると、あと5分と表示が出ていた。ご飯が炊けたら、一度呼びに行こうと清香は食器を準備する。
この短時間で用意できたおかずは、四品。残り物野菜のお味噌汁と卵焼き、鰹節をかけただけの冷ややっこ。それとご飯。おかずが足りないと言われたら、最悪、清香が持ってきたふりかけかお茶漬けで我慢してもらおう……。
ピーと炊飯器から音がしたので、蓋を開けて中をさっくりと混ぜる。お味噌汁以外のおかずをお皿に盛りつけて、ダイニングテーブルに運んだ。
ダイニングテーブルの上も、物が散らかっていたので少し片づける。準備ができたので、清香は二階に上っていった。
このテラスハウスは、4棟とも全て同じ間取りの様で二階には三つの扉がある。自室にいるとしたら一番手前の広い部屋だろうか? と清香はアタリを付けて扉をノックした。だけど返事がない。もう一度ノックするも、向こう側から何の応答もなく「失礼します」と断りを入れて扉を開けた。
すると、部屋の隅に置かれた大きなベッドに何もかけずに寝ている成瀬さんがいた。恐らく、ちょっと横になるつもりがそのまま寝てしまったかっこうだ。
いくら夏だと言えど心配になる清香。何か上にかけるものはと探すために、部屋を見回した。成瀬さんの部屋は、青いカーテンがアクセントカラーになっている。多分、綺麗にしていたらおしゃれな男性の部屋という感想になるだろうが……。この部屋もご多分に漏れず散らかっている。凄く疲れた顔をしていたし、仕事が忙しいのだろうと推測する。
気持ちよさそうに、すやすや眠っているのを見て声を掛けるのを戸惑ってしまう。ベッドの傍に寄って、しゃがんで成瀬さんの顔を見た。言うまでもなく、凄く格好良い。誰の咎も受けないならば、ずっと見ていたい。だけど、人様の寝顔を勝手に見るなんて、いけないことだと頭を振る。
「なるせさん……」
清香は、控えめな声で呼んだ。
「ん……うん……」
声を聞いた成瀬さんは、ちょっと身じろぎするも起きてくれない。清香は、起こすことに罪悪感を覚えながらも思い切って声を出した。
「成瀬さんっ」
そしたら突然、成瀬さんがガバッと起きたかと思うと清香を強く抱きしめる。
「ゆいかっ」
清香は一瞬何が起こったのかわからずに面食らう。自分が成瀬さんに抱きしめられていることを理解すると、急激に自分の体の体温が上がった。男の人の逞しい腕にしっかり抱きかかえられ、シャワーを浴びたばかりの体からは石鹸のいい匂いが香る。成瀬さんの体温を感じて、清香はそこでバタついた。
「成瀬さん、違います。清香です」
清香がそう言うと、成瀬はハッとしたようでギュッと抱きしめていた手をほどく。
「ごめん、清香ちゃん……。寝ぼけたみたい……」
成瀬さんが、気まずそうにゆっくりと体を離す。清香は、成瀬さんの手がほどけた瞬間、距離を取ろうと後ろにつんのめる。勢いあまって、床に頭から激突しそうだった。
「清香ちゃん!」
寸でのところで、成瀬さんにもう一度抱きしめられて床との激突は免れる。だけど、またしても成瀬さんの胸の中に逆戻りで清香はジタバタしてしまう。
「ごっごめんなさいっ」
「はぁー良かった。ケガさせちゃうところだった」
成瀬さんが、今度は人間違いではなく清香をギュッとして離してくれない。
「手をほどくけど、また倒れないでね?」
「はっ、はははい」
清香は、もう何が何だかわからずに顔が真っ赤だ。見なくても、自分の顔が発火しているのがわかる。こんな風に男の人に抱きしめられたことなんて一回もないのだ。お互いの体温を、こんなに直に感じるなんて初めて知った。
成瀬さんがゆっくり離してくれたので、今度は清香もゆっくりと後ずさる。
「朝ご飯できたんですが……どうしますか?」
清香は、真っ赤な顔を上げることができずに俯いたまま話す。
「ごめんねー。横になったら寝ちゃって。もちろん食べる」
「では、先に下で準備していますので!」
清香はそれだけ言うと、顔を見られないように急いで部屋を出て行った。キッチンに戻ってきた清香は、シンクの前でしゃがみ込む。
「こげんと、誰だってドキドキするわ」
さっきの成瀬さんのぬくもりを思い出すと、顔の熱は引かないし胸がドキドキと煩い。びっくりし過ぎて、方言まで出てしまう始末。こんなこと初めてで、成瀬さんが降りてきたらどんな顔をすればいいのかさっぱりわからない。清香は自分の胸に手を置いて、ふーっと大きく息を吐く。
「よし。私は仕事に来ているんだから。ご飯ご飯」
胸のドキドキをなんとか締め出して、ご飯とお味噌汁をよそう。ダイニングテーブルに持っていくと、丁度、成瀬さんが上から降りて来たところだった。
「おおー、ちゃんと朝ご飯だ」
嬉しそうにニコニコする成瀬さんは、椅子に座って清香が用意した朝食を前に嬉しそうだ。
「おかずが何もなくてすみません。最悪、ふりかけとお茶漬けがあるので言って下さい」
「充分だよ。原さんが辞めちゃったから、まともなご飯久しぶりだし」
成瀬さんは、手を合わせると「いただきます」と言って食べ始める。
「うん。卵焼き美味しい。甘い卵焼きなんて久しぶりだ」
顔をほころばせながら食べる成瀬さんは、とても美味しそうに食べてくれる。そんな顔を見ていると、清香も嬉しくなる。食べているのをずっと見ているわけにはいかないので、リビングでも少し片づけようと断りを入れた。
「成瀬さん、ちょっとここら辺、片づけても大丈夫ですか?」
「ああ。散らかっていてごめんね」
清香は許可を得て、リビングの床に転がっている洋服やタオル、空のペットボトルなどを拾っていく。
「わっ」
清香が誤って何かを踏んでしまったら、壁に掛けられていた大画面のテレビの電源が入ってしまう。画面には、キラキラの男性アイドルが歌を歌っている場面が映し出される。清香は、昨日に引き続きまたやってしまったと大反省だ。
「ごめんなさい! リモコンふんじゃったみたいです……。えっ? ちょっと待って!」
テレビ画面を見た清香は、驚いて大きな声を出していた。
「ん? どうした?」
成瀬さんが、不思議そうな顔で清香を見ている。だけど、清香は軽いパニックになっていた。
「なっ、成瀬さん! このテレビで歌っている人、星志君に似ていません?」
清香は、テレビを指さして成瀬さんに訊ねる。聞きながらも、テレビ画面に釘付けになってしまう。画面の中には、キラキラの笑顔で歌って踊る星志君らしき男性がいた。
「え? 似ているっていうか、星志君だよ?」
成瀬さんは、清香の慌てぶりを気にすることなく淡々としている。
「え? えええええええええええー」
余りの驚きに清香は、大声を出してしまった。自分でもびっくりする声で、咄嗟に自分の口を手で押さえる。清香はもちろん、芸能人なんて見たことはない。まして、アイドルなんて、テレビの中の世界だけだと思っていた。実在していても、自分には全く関係のない世界だと思っていたのだ。
「清香ちゃん、知らなかったの? 結構有名なグループなのに」
成瀬さんは、ふふっとちょっと笑っている。
「そうなんですか? 私、家にテレビないし芸能人とかに疎くて……。だから、昨日何か言いたげだったのかも……」
昨日の星志君の様子を思い出して、清香の顔は青くなる。何かを言って欲しそうな顔だったけど、清香はわからなくて流してしまった。
「あっはっは。星志君、落ち込んだかもねー。いつもキャーキャー言われているから」
成瀬さんは、よほどおかしかったのか声を出して笑っている。でもまさか、お仕事先に芸能人がいるだなんて思わないじゃない……。いちさん、何も教えてくれないんだから!
清香は、いちさんに対してちょっと腹を立てる。きっといちさんは、わかっていて教えてくれなかったのだ。また、遊ばれてしまったと思うけれどお仕事を紹介してもらった手前、文句なんて言えない。
「ご馳走様でした」
清香があたふたしているうちに、成瀬さんは食べ終わったようでお皿をまとめてくれている。
「あっ、私、片づけますから!」
「美味しかったよ。シンクにくらい持っていくよ」
成瀬さんは、立ち上がってキッチンに食器を持って行ってくれる。
「じゃー僕は、もうひと眠りしてくるから」
「あっ、はい。あの、私、この後は星志君と奏さんのところに行かなくちゃいけなくて」
「そっか、じゃあ、連絡先教えてもらっていい? 清香ちゃんの空いている時間で、掃除とか洗濯とか頼みたいから」
「はい。もちろんです」
清香は、ポケットからスマホを持ち出すとメッセージアプリを起動させる。アカウントの交換を成瀬さんとして、お互いを登録した。
「じゃー、これからよろしくね」
成瀬さんが、清香の頭をポンポンと叩いてくれる。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
清香は、勢いよく頭を下げた。成瀬さんは、にこっと笑顔をくれると二階に上っていく。一人になった清香は、自分の頭にそっと手を当てた。あんな風にやさしくされたのは初めてだ。ちょっとくすぐったくて、嬉しくて、胸がほわっと温かった。
その後、急いで食器を洗って片づけた。残ったお味噌汁は冷蔵庫に入れて、後でメッセージを入れておけばいい。できれば、お部屋の掃除もしたいところだけれど、奏さんのお昼を作るために買い物に行って来なくちゃいけない。清香は、未練を残しつつ成瀬さんの家を後にした。
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