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007 三軒目の住人

 奏さんの家を後にした清香は、103号室に戻って来た。まだ午後の早い時間なので、お隣さんが帰ってくる気配がない。帰宅時間までの間に、掃除をして電気などのライフラインを使用できるように連絡をとった。又、二階の部屋がどんな感じなのか覗いて見ると、想像を超える贅沢な空間が広がっていた。三部屋の内の手前のドアから順に開けていくと、寝室、壁面全部が本棚の部屋、そして一番奥の扉を開けて声が出た。


「うわーなにこれ。ひょっとして映画館? お家の中に映画館? 凄い」


 扉を開けたら、正面に壁一面の白いスクリーンが目に入る。その正面にはシアター席のような立派なソファーが二つ並んでいた。とてもラグジュアリーな空間に目を見張る。


「前に住んでいた人って一体何者なんだろう……。これ全部、置いていっちゃうって……」


 清香はスケールの大きさに驚くばかり。自分とは住む世界が違うと圧倒される。そもそも、都心の一等地でこんな立派な家に住んでいる三人も、きっと一般庶民ではない気がする。

 お客様のプライベートをどこまで聞いていいのやら、悩む。


「こういうのって、いちさんが教えてくれるべきだよね……。今日の夜にでも聞いてみよ」


 清香は、シアタールームの扉をそっと閉めたのだった。

 103号室で時間をつぶしていた清香だったけれど、夜19時を過ぎてもお隣さんは帰って来なかった。だから清香は、自分が住んでいるアパートに一度帰ることにした。

 星志君たちが住んでいる、テラスハウス「アレース」からアパートまでは、電車で一時間の距離だった。そこまで近い訳ではないので、しょっちゅう帰って来ることはできない。


 家にやっと帰ってきた清香だったけれど、休む暇もなく自分のご飯を手早く作って食べ、そのまま続けてお風呂にも入った。

 ようやっと一息入れた清香は、明日からのアレースでの生活の為の準備をしようと旅行鞄を押し入れの奥から出してくる。次にこの鞄を使うのは、実家に帰らなくちゃいけなくなった時だと思っていたけれど……。割と早く、使う機会に恵まれた。

 差し当って一週間分の生活用品を持っていけば足りるだろうと、服や下着などの着替えを詰めていく。他にも洗面用具やタオル、化粧品を詰める。


 清香が持っている化粧品と言っても、プチプラの化粧水と乳液だけ。今日会った、星志君の彼女を思い出してちょっとだけ落ち込んでしまう。彼女は、清香よりもちょっと年上のようだったけれど、しっかりお化粧をしていた。綺麗だったし、いい匂いもしたし、目で追いかけたくなる大人の女性だった。

 だけど鏡の中の自分の顔は、彼女とかけ離れ過ぎていて見ていると辛くなる。清香だって本音は、自分の田舎臭さが抜けないところが嫌だし、可愛くお化粧をしてみたい。だけど、今の自分には余裕が無さ過ぎる。


 そして清香が、自分の容姿に無頓着な最大の理由は、父親だった。清香の父親は、俗にいう昭和初期の頑固おやじ。融通が利かない、女性蔑視、酒癖が悪い、すぐに怒鳴る。あげだしたらキリがない、古き良き時代の父親だ。

 お化粧なんてしようものなら「学生の身分で色気づきやがって」と顔をひっぱたかれていてもおかしくない。そういう父親だった。

 清香には、兄が一人いるのだが長男信仰も強く、妹は兄の迷惑になるなという強い思想の持ち主だ。「将来は兄を助けて生きていけ」と、清香は何をするにも二の次で、息苦しい生活を強いられていた。

 そんな家庭で育った清香は、自分の容姿を磨くことなく化粧の仕方もよくわからないまま今まできてしまったのだ。


「あの人、綺麗だったな……」


 狭い六畳一間のオンボロアパートで、空しい独り言がこぼれる。比べたって仕方がないってわかっているけれど、たまには落ち込みたい時だってある。

 急にしんみりしてしまい、早く寝てしまおうと布団を敷いて横になる。布団の中に入ると、今日の慌ただしい出来事が頭の中で巡り色々と考えてしまう。


 ――――『ティロリロリン、ティロリロリン』


 清香のスマホが鳴った。枕の横に置いていたスマホの待受け画面を見ると、いちさんからだった。


『もしもし、いちさん?』

『今日、どーだったー? 合鍵もらえちゃった?』


 いちさんの、相変わらずの揶揄うような物言いだ。


『いちさん、そんなにすぐに合鍵下さいなんて言えないよ!』

『はぁ―? 言ってもいないのかよ? ワンチャンあるかも知れないじゃん』

『ただでさえ、怪しまれたのに! 初対面でそんなこと言ったら、信用してもらえないよ!』

『つまんねーなー。じゃあ、住人どうだった? お前、ドキドキとかしてないだろうな?』


 いちさんが、なんだか面白そうに聞いてくる。


『お仕事なんだから! ときめいている場合じゃないよ! それに、色々あったんだから!』


 いちさんが、完全に面白がっていて清香はちょっとムッとする。彼が、清香で遊ぶのはいつものことだけれど……。星志君も奏さんも、家政婦として信じてくれたけれど、最初からいきなり打ち解けるなんてできる訳がない。

 少しでも変なことをしたら、すぐにクビになりそうな雰囲気は二人ともある。清香は、結構必死なのだ。


『色々ってなんだよ?』

『色々は色々だよ……』


 素直に全部しゃべるのは面白くないので、言葉を濁す。


『それよりも……。いちさん、今回は本当にありがとう。私、今日は本当にどうすればいいかわからなくて、呆然としちゃったもん』


 清香は、改めていちさんにお礼を言った。どんなことでも乗り越えて来た清香だったけれど、さすがに今回は自分だけではどうにもならなかった。

 最悪、大学を辞めて田舎に帰らないといけなかったかも知れないと思うと、ゾッとする。


『お前はさー本当についてないよな。よく今まで、生きてきたよな』

『自分でも運が悪いって知っている……』

『まっ、あいつら悪い奴じゃないし、きっちり仕事すれば何も言わないから。頑張れよ』

『うん。頑張る』

『で、色々ってなんだよ。教えろよ』

『………………』

『また、寝やがった……。おやすみ清香』


 プツッと通信が切れる。だけど清香はすでに夢の中。さっきまで色々なことを考え出して悶々とし始めてしまったのに……。実際は疲れ果てていて、いちさんの声を聞いたら安心したのかスマホを握りしめたまま眠っていた。

 清香にとって、いちさんとの電話は唯一心を許せる時間。いつも馬鹿にされてばかりだけど、通話途中で寝てしまうことを怒られたことは一度もない。

 他の人から見たら、嫌な奴かもしれないけれど……。清香にとっては良い人なのだ。何をしていて、どんな顔をしているかもわからないけれど……。いつか会えるだろうか? と淡い希望は抱いている。


 翌日、朝早い時間から清香は、アレースの前に立っていた。早く来て、自分が住む103号室を整えたいと思ったし、奏さんのお昼を作るために買い物にも行かなければいけないと思ったからだ。今日も忙しくなりそうだけど、ちゃんと予定があることが嬉しい。

 昨日から使わせてもらっている、103号室の鍵を出して鍵穴に差し込む。今日からここに住めるのだと思うとワクワクする。

 昨日のうちに、電気と水道は開けてもらえるように頼んでおいたので今日から使えるはずだ。玄関の中に入って、持って来た旅行鞄を置き靴を脱ごうとした時だった。


 隣から「ガチャ、ガチャ」と言う音がしたので、玄関から顔を出してお隣を見た。清香が借りた右隣のお隣さんが、部屋の中に入って行くのが見える。帰って来ていると思った清香は、急いで104号室に走って行く。


「すみませーん」


 扉が閉まる寸前だったところで、大きな声で呼び止める。昨日、104号室の人についていちさんに話を聞こうと思っていたのに寝てしまい、朝起きて後悔していたのだ。だけど、丁度良いタイミングで会えて良かった。

 清香の声が聞こえたのか、扉は閉まることなくちょっとだけ空いている。一応、インターホンを鳴らすとバッと勢いよく玄関の扉が開いた。


「ん? 私かな?」


 扉を開けてくれたのは、疲れ切った顔をした男性だった。目にクマを作って疲れた様子だったけれど、眉はきりっとしていて目元のほくろが色気を漂わせている。黒髪で短髪、ぱっと目を引く容姿だ。そして、みるからに優しそうなお兄さんといった様相だった。


「はい! 朝早くから申し訳ありません。私、昨日からこちらで家政婦としてお世話になることになった土田清香と申します。これが、いちさんからの証拠のメールです」


 清香は、昨日の要領で挨拶をしてスマホのメールを見せる。男性は、スマホを覗き込んでくれて文面を読んでくれた。


「あー聞いているよ。君が清香ちゃん? 珍しく、いちから連絡あるから、何かと思ったんだよねー。」

「えっ? 本当ですか?」


 清香は、てっきり最後の一人にもいちさんは何も言ってくれてないと思っていたのに……。ちゃんと連絡してくれたんだ。凄く嬉しくて、心がじわーっと温かい。


「うん。新しい家政婦雇ったから、今日はちゃんと帰れって言われてさー。早速会えてラッキーだね」


 男性は、にこにこして清香に話しかけてくれる。最初の二人とは違う展開に、ちょっと拍子抜けする。今日も、怪しまれるところからだと思っていたので脱力だ。


「星志君と奏にも挨拶した?」

「はい。二人にもご挨拶して、昨日も少し働かせてもらいました」


 清香は、できるだけハキハキと元気よく答える。第一印象は大切だ。


「そっか……。じゃーさっそく、朝ご飯なんて作ってもらうのは駄目だよね?」


 男性は、ためらいがちに聞いてくる。


「私で良ければ、喜んで! 何を作りましょう?」


 清香が前のめりで答えると、男性が笑う。


「元気でいいね。冷蔵庫に何かあったかな……」

「見させてもらってもいいですか? あっ、それとお名前をお聞きしてもいいですか?」

成瀬慎也(なるせしんや)。よろしくね、清香ちゃん」


 成瀬さんは、にこっと笑ってくれて清香を玄関の中に招きいれる。冷蔵庫を見てもいいのだと解釈して「失礼します」と声をかけて中に入る。中に入るとちょっと驚いてしまう。

 今までのお宅と違って、乱雑だ。玄関に何足も靴が散乱しているし、入ってすぐに物を置く棚が設置されているのだけど、その上も鍵や小物が雑然と置かれている。

 成瀬さんは、片づけが苦手なのかもしれない……。


「汚くてごめんね。寝に帰って来るだけだから、こんななんだよね」


 成瀬さんは、苦笑いだ。


「いえ、気にしないで下さい」


 清香は、成瀬さんの後についてリビングへと入って来た。室内も、服が脱いだままだったり、鞄が無造作に置かれていたり散らかっている。これは片づけがいがありそうだ。


「先にシャワー浴びてくるね。冷蔵庫の中の物、適当に使って。何もなかったら、その時はいいや。また今度にする」


 成瀬さんは、部屋の中に入ると疲れもピークなのか、清香の返事も聞かないままバスルームに入ってしまう。


「なんか、物凄くお疲れみたい……」


 清香は、独り言を呟くとさっそくキッチンに入らせてもらう。キッチンの中もかなり汚い。使った食器がそのままシンクに置かれているし、飲みかけのペットボトルがそのままになっている。


「これは……。でも、男性の一人暮らしって感じだよね。これが、多分普通な気がする」


 今までの二人の部屋が綺麗過ぎだったのだ。家政婦として働くのだから、これくらいの方が何をすればいいのか分かるので助かる。

 清香は、やる気満々で冷蔵庫の中を開けた。冷蔵庫の中には、缶ビールとミネラルウォーターのペットボトルが沢山入っているぐらいで、使えそうな食材がない。野菜室も見たが、しなびた野菜が入っているのみ。ちょっとこれは……。


「そうだ!!」


 清香は、いいことを思いつく。実は、自分の家から冷蔵庫の中に入っていた食材を持って来たのだ。そのまま置いておいたら駄目になると思い、保冷剤を入れた鞄に入れて持って来たのだ。その食材を使えばいいと思い立ち、清香は自分の部屋である103号室に戻る。

 食材を入れた鞄だけ持って、ちゃんと鍵をかけて成瀬さんの家に戻る。急いで戻った清香だったけれど、既に成瀬さんはシャワーを浴び終わったらしくリビングに佇んでいた。


「食材あった?」


 清香に気付いた成瀬さんが声をかけてくれたのだけれど……。成瀬さんの姿を見て、清香は慌てふためく。だって成瀬さんは上半身裸で、下はバスタオルを巻いているだけだったのだ。男の人の裸なんて、父親と兄くらいしかみたことがない。清香は、視線を彷徨わせてワタワタしてしまう。

 全く気にしていない成瀬さんは、タオルで自分の髪をガシガシ拭いている。


「えっと、あの……、れ、冷蔵庫にはなかったので自分の部屋から持って来ました」


 清香は、動揺しつつも成瀬さんを見ないようにキッチンに掛け込む。そんな清香の態度を不思議に思ったのか、成瀬さんは自分の姿を見て納得する。


「ああ。ごめんごめん。着替え、用意するの忘れて」


 そう言うと、成瀬さんは二階に上って行ってくれた。清香は、その場でしゃがみ込み顔を覆う。


「びっくりしたー。でも、いちいち動揺していたら駄目だよね……」


 清香は、赤面する顔を仰いで平常心を取り戻す。立ち上がって、頬をパシッと叩くと気合を入れた。


本日、夜にも更新します。

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