022 お化粧
そして清香は、頑張って一日で荷物も片づけてしまった。仮で暮らしている時は、必要な物がなくてちょっと不便さも感じていたけれど、これで心置きなくアレースで生活できる。
今日からは、職場までの通勤時間が全くないのでそれがとても嬉しい。隙間時間を利用して自分の時間も十分持てるし、何よりお給料が今までよりもぐんと増えるので安心感が全然違う。無駄使いしないで生活すれば、貯金もできると思うと気持ちがはしゃぐ。
でも、と我に返る。問題は、自分の見た目をどうやったら田舎者から脱却できるのかということだ。着古した洋服も新しくした方がいいだろうし、髪型も昔から変わらない伸ばしっぱなしの髪を一つにくくっているだけ。
そしてなりより、お化粧がわからない。一応、化粧水と乳液くらいは使っているけれど……。それだって、ドラックストアで売っている安物だ。んーと腕を組んで考えこんでしまう。
自分でも、スマホを使ってメイクについての動画を検索したり、最近流行りの服装を調べてみたのだが……。情報量が多すぎて、自分に何が合うのかわからない。んーとひたすら検索してみるも、どんどんわからなくなっていく。
「もう、いいや。この、基本のメイクって動画を参考にして揃えてみよう。プチプラって書いてあるし、そんなに大きく間違うことはないよね」
清香は、動画で紹介されているメイク道具一式をメモに取って、ドラックストアに向かう。動画で紹介されている通りに全部そろえると、家に戻って鏡に向かった。
動画通りにお化粧を施していく。できあがって鏡の中の自分を見ると、どうしてこうなった? と思わずにはいられない。
「なんでだろう? ただのお化粧が濃い人みたいになっている気が……」
何をどうすれば正解なのかわからなくて、落ち込んでいると室内にインターホンの音が鳴り響く。お客さんが来るなんて思い当たる節がなく、セールスかな? と思いながらカメラの画面を覗く。すると星志くんが写っていた。
『今、出ます』
画面に向かって発言し、急いで玄関に向かった。ガチャっとドアを開けると星志君が立っている。
「何かありました?」
清香が、自分が何かしてしまったかと焦りながら訊ねるとおもむろに星志君が笑い出す。
「お前っ、ちょっと、あっはっはっは。何だよ、その顔」
星志君がお腹を抱えて笑っている。清香は、自分の顔が今どうなっているのかを思い出して、急激に恥ずかしくなって顔を手で覆う。
「みっ、見ないで下さい! こっ、これは練習していただけで……」
清香の顔は、もう真っ赤で恥ずかしすぎて泣き出してしまいそう。自分でもこれがおかしいってことくらいはわかる。
「まじで、ウケんだけど。それはないだろー」
「もう、用がないなら帰って下さい」
清香が玄関のドアを閉めようとすると、星志君が足でドアを止めてくる。
「もう、なんなんですか!」
清香は、星志君に見られたくなくて下を向きつつ声を上げる。
「悪かったよ。それ、俺が何とかするから任せろ」
「え?」
「とりあえず、それは落とす。ちょっと上がるぞ」
そう言って、星志君は清香の返事を待たずに部屋の中にずかずかと上がり込む。清香は、星志君の後についていくしかない。いきなり何なのだろう? と頭の中は混乱していた。
「へー、いちさんの部屋って、こんな感じだったんだー。意外」
星志君が、リビングに入るなり声を漏らす。
「星志君も、いちさんのお知り合いなんですね」
「あー、まーな。ちょっとしたパーティーで知り合ったんだよ」
「あのっ。いちさんってどんな方ですか?」
「何、清香知らないの? どういう経緯があって、ここで働くことになったんだよ」
清香は、逆に質問を返されてしまってたじろぐ。オンラインで知り合った人で、会ったことはないなんて言ってしまったら、不審な人物に思われないだろうかと心配だ。正直に言うべきか言わないべきか迷う。
「まーいいや。とりあえずそのままじゃ、いちさんとは釣り合わないぞ?」
「そっ、そんな! 私、そんなつもりじゃないです!」
「はいはい。わかったわかった」
清香は、完全に誤解されてしまったことに慌てふためくも、星志君は全然取り合ってくれない。それどころか、ちょっと可哀そうな子をみる目で見てくる。
「本当に、そんなんじゃないですから!」
「わかったって。とりあえず、そこに座れ」
星志くんが指し示したのは、リビングに置いてある立派なソファーの手前。オフホワイトの夏用のカーペットの上だった。
清香は、全然わかってくれない星志君にもやもやしながらも大人しくカーペットの上に座る。すると、星志君も清香の隣に同じように腰を下ろした。
「よし。まずは、クレンジングからだな」
星志君は、右手に下げていた黒くて四角い鞄を開けた。何が入っているのかと、清香が覗き込むと中にはメイク道具がぎっしり詰まっていた。
「えっ? お化粧品?」
「仕方がないから、俺様自らが清香にメイクを教えてやるよ」
「星志君が?!」
まさか星志君がお化粧を教えてくれるなんて、予想だにせず清香は目を見開いて驚いてしまう。
「俺、実は結構こういうの好きでさ。大っぴらにはしてないけど、身内のメイクとかやってあげたりするんだよね」
喋りながらも、コットンを取り出してオイルのようなものをそのうえに垂らしている。
「ほら、化粧落とすから動くなよ」
星志君と真向いで向かい合い、その距離は近い。端正な星志君に見つめられて、清香は場違いにもドキドキしてしまう。こんなのどうしたって意識しちゃうに決まっている。清香は見つめられているのに耐えられなくて、目を泳がせてしまい落ち着きがない。
清香の動揺をよそに、星志くんは全然気にすることなく顔に手を添えなが化粧を落としていく。顔に添えられた手の扱いがとても丁寧で、より一層恥ずかしい。清香は、耐えられなくて目をギュッとつぶった。
「よし。これで落とせたと思うから、ちょっと洗面所で洗って来て」
星志君から動いてもいい指示が出たので、清香は「はい」と返事をして足早に洗面所の方に走る。洗面台についた清香は、台の淵に手を付きへなへなと座り混む。
「いきなりすぎて心臓に悪か……」
お化粧を教えてくれるのは嬉しいけれども……。あんなに綺麗な顔が、自分の顔に急接近してくるなんてそんなの聞いていない。いくらなんでも、心の準備が必要だ。
清香は、勢いよく立ち上がると水道の蛇口をひねり水を出す。バシャバシャと思いっきり顔を洗って、鏡を見る。
「せっかくの好意で、星志君が教えてくれるんだ。しっかりしろ自分!」
清香は、パシンッと頬を両手で叩いて気合を入れる。よしっと、鏡の中の自分と目を合わせて自分の気持ちを整えた。
洗面所から戻ってきた清香は、もう一度星志君の横に座って向かい合う。
「よろしくお願いします」
今度は、きちんと挨拶をして星志君と目を合わせた。
「おう。まー、俺がやれば、それなりに見えるようにはなるから安心しろ」
星志君が自信満々にそう言うので、清香も「はい」と元気よく返事をして全てを任せる。化粧下地の説明から始まり、丁寧に清香にお化粧の仕方を教えてくれた。
途中で、情報量が多すぎて覚えきれなくなったので、メモを取りに行かせてもらう。そこからは、星志君の話を聞き漏らすまいとこまめにメモを取りながら進んだ。
最後に、口紅を塗ってもらって完成だ。
「よし、できた。いい感じなんじゃね?」
星志くんが、誇らしげに清香の顔を見ている。星志君との至近距離にドキドキはするけれど、最初の頃よりは落ち着いていて耐性ができたみたいだ。
「鏡見せるぞ?」
「はい」
星志君が、メイクカバンの中から大きな手鏡を出して清香の顔の前に置いた。
「うわぁー、なにこれー。全然違うー」
清香は、鏡に映る自分の顔に驚いてもっと近くで見ようと、無意識に星志君が持っていた鏡を奪い取って自分に引き寄せる。
「俺、凄いだろ?」
「うん。凄い。星志君、本当に凄い」
清香は、鏡に映る自分の顔を見て歓声を上げる。地味で田舎臭い顔が、いつもよりも明るくて華やかになっている。東京の街中を歩いていても、きっと今なら浮くことなく溶け込めるような気がする。
「星志君、ありがとう」
清香は、興奮のあまり彼の手を取って感謝の言葉を言う。
「そんなに喜ぶようなことかよ……」
清香の興奮した態度に引いているのか、顔を逸らされてしまった。
「だって、こんなにちゃんとお化粧したのって初めてなの。すごい嬉しい」
清香は、満面の笑みで星志君を見る。心なしか、星志君が照れているような気がするけれど、自分の嬉しい気持ちが強すぎて気にすることなく流してしまう。
「だったら、良かったよ」
顔を逸らした星志君の耳が、ちょっと赤くなっていたことに気付かない清香。いつまでも喜んでいる清香に、仕方がないなと怒りもせずに見守ってくれていた。




