021 引っ越し
数日後、清香は一日お休みをもらって引っ越しをすることになった。見積もりをとってもらったところ、丁度キャンセルが出たのでそこに入れてもらったのだ。
すぐに行動に移したかったから、都合が良く即決だった。その場で、営業さんが引っ越し用の段ボールを置いて行ってくれたでの、すぐに準備も始められた。
荷物が多くなかったこともあり、三時間ほど集中したら大体のものは梱包できた。冷蔵庫と洗濯機だけどうしようかと考えたけれど、引っ越し屋さんに相談すると要らなければ引き取りもやってくれるということだったので、洗濯機だけお願いすることにした。
買ってからまだそんなに経っていないけれど、アレースの部屋に置いてあった洗濯機の方が容量も性能も良かったので泣く泣くお別れすることにした。
洗濯機が二台あっても仕方がないし……。でも冷蔵庫は、そんなに大きなものではないので、リビングの隅にセカンドとして置いておくことに決めた。
引っ越し当日は、前日からアパートに戻っていたので部屋の掃除もきちんとすることができ、準備は万端だった。朝九時に、予定通り引っ越し屋さんが到着して荷物の詰め込みが始まった。
単身世帯の引っ越しなので、小さめのトラックで二人の作業員さんが来てくれた。若い男性と、四十代くらいの男性がどんどん荷物を運んでくれる。清香はただ、邪魔にならないようにと部屋の隅っこで作業を見ていただけだった。
アパートから段々と荷物が無くなっていくのを見ていると、ちょっとだけ寂しさが押し寄せてくる。一人だけでやっていけるか不安だった自分が、初めて暮らした家。何もかもが初めてで、最初は心細さもあったけれど、慣れてしまえば自分の家として落ち着く空間になった。
すっかり物がなくなってガランとした部屋を、清香は丁寧に箒とちりとりで掃除をする。
「すみませーん」
引っ越し業者のお兄さんが、玄関から清香を呼んでいる。
「はーい」
清香が、玄関に向かうとお兄さんはぺこりと頭を下げた。
「全部、荷物を運び終わったでの、引っ越し先に出発しますが大丈夫ですか?」
「あっ、じゃあ、この箒とちりとりもいいですか? これで最後です」
「では、お預かりしていきます。また、引っ越し先で」
お兄さんは、元気一杯の笑顔で去っていく。
「さっ。じゃあ、私も行かないと引っ越し屋さんが先に着いちゃう」
清香は、何も無くなったアパートの部屋を見てつぶやく。本当に何もなく部屋は空っぽだ。六畳一間のワンルーム。外見もぼろいけれど、室内も築年数を感じる造りだ。
哀愁漂う室内を見ていると寂しい。それと同時に、こうなるまでのいきさつを振り返ると変な気分だった。
パン屋が倒産してから、目まぐるしく変わった自分の生活に今でも夢の中みたいな気分になる。倒産してから、パン屋の店長から一度連絡があって、今月の給料はどうやら難しいだろうという話だった。それも仕方がないかと諦められるのは、本当にいちさんのお陰。
アパートの室内を最後に点検して、忘れ物がないことを確認する。おんぼろアパートだったけれど、やっぱり別れは寂しいものだ。そう思ったら、奏さんの曲を思い出した。
「寂しくて悲しい別れだけど、それが嬉しい。これは、明日に繋がる悲しさなんだ」って歌詞が頭に浮かんで、本当にその通りだって思う。
よしっと清香は、拳を握りしめて気合を入れる。次の目標は、大学卒業まではアレースでのお仕事を続けさせてもらって、お金も貯めて東京での地盤を築くこと。
「一年とちょっと、お世話になりました」
初めて一人暮らしをしたアパートの部屋に挨拶をして、その場を後にした。
急いでアレースに戻って来た清香は、無事に引っ越しトラックよりも早く着くことができた。荷物は、普段使うものだけをリビングに置いて、それ以外は二階の書斎に段ボールのまま置いておこうと思っている。
いつまで、ここにいられるかわからないので、この家に重複して置いてある物を捨てきれなかったのだ。本当は、洗濯機も処分せずに取って置きたかったけれど……。流石に、置く場所に困るのであれだけは本当に辛い処分だった。
少し部屋で休憩していると、インターホンが鳴った。画像をチェックすると、先ほどのお兄さんの顔が映っている。
「はい」
「先ほどの引っ越し業者です。到着致しました」
「すぐ、行きます」
清香は、リビングを出て玄関に向かう。扉を開けると、元気の良いお兄さんの笑顔が目に入る。
「お部屋の確認させてもらってもいいですか?」
「はい。よろしくお願いします」
清香は、部屋の中を案内して荷物を置く場所を指定する。
「了解です。では、始めさせてさせて頂きますね」
お兄さんは、一度家を出てトラックに戻っていく。しばらくすると、段ボールを抱えて戻ってきて荷物の運び込みが始まった。アレースでも、邪魔にならないように清香は端っこで作業を見守っていた。
時折、質問に答えるくらいで手を出すこともなくスムーズに作業が進んでいく。仕事を進める二人は、とても手際がよく鍛えているのか段ボールは常に二箱持ち。冷蔵庫などの少し大きい荷物は二人で協力して運び、全部の作業が終了するまで一時間もかからなかった。
「以上になります。一応、荷物の確認のためトラックの中を確認して頂けますか?」
お兄さんに尋ねられた清香は、大人しくトラックの場所まで一緒に確認に行く。扉を開けたままにしてあったトラックの荷台には、引き取りをお願いした洗濯機のみが乗せられていて後は何も見当たらない。
「大丈夫です。ありがとうございました」
清香が、お兄さんに向かってそう言うと、彼は一つ頷いて言葉を返す。
「では、清算の書類を用意してきますのでお部屋でお待ち下さい」
清香は、言われた通り部屋に戻ってリビングに置かれたいくつかの段ボールを眺める。今度は、これを開いて片づけなくてはいけない。ふーと息を吐いたところで、インターホンが鳴ったので玄関に走っていく。
「お待たせいたしました。では、二万五千円になります」
清香は、お財布からお金を取り出し金額を払う。お金を受け取ったお兄さんは、領収書とアンケート用紙を清香に渡してきた。
今回の作業内容に関するアンケートを書いて、投函して欲しいとのことだった。それが、自分たちの査定に響くんですよーと笑っている。
「わかりました。しっかり書いて送っておきますね」
「ありがとうございます。では、これで全ての作業は終了となります。何か、変更等あれば遠慮なく言って下さい」
ちょっと考えるも、特に問題が浮かばなかったので「大丈夫です」と答える。
「では、これで失礼させて頂きます」
「はい。ありがとうございました」
清香が頭を下げてお礼を言うと、お兄さんはにこっと嬉しそうに笑顔を零し静かに扉を閉めて去って行く。最後まで、爽やかで笑顔が素敵なお兄さんだった。
引っ越し代金も、思っていたよりもずっと安く終わってホッとする。無事に引っ越しすることができて、本当に良かった。
後は、向こうで使った分の水道光熱費と半月分の家賃を払って、鍵を不動産屋さんに返せば終了だ。
「本当に、こんなに素敵なお家で暮らせるんだ! これからよろしくね」
清香は、部屋に向かってしゃべる。ホッとする気持ちが強いけれど、それと同時に素敵な家で暮らせるワクワク感もある。
何と言っても、今までよりも安全面に関しては大きく飛躍した。隣や下の階を気にして生活する必要がなくなるのは大きい。アレーヌでもお隣さんはいるけれど、作りがしっかりしていて壁も分厚いので相当なことがなければ大丈夫だ。
「よしっ。もうひと頑張りだ!」と気合を入れたところで、『ティロリロリン。ティロリロリン』と清香のスマホが鳴った。
『もしもし?』
『どう? 引っ越し終わった?』
『うん。いちさんのお陰で、無事に終った。本当にありがとう』
『でっ、ちゃんと高級住宅専用家政婦っぽくなった?』
清香は、いちさんの質問に黙り込んでしまう。そっちの課題はまだ手を付けていなかったから。
『えっと……そっちはまだなんだけど……。でも多分、星志君が手伝ってくれるようなこと言っていたから大丈夫かなーなんて』
『なんで、不確定なんだよ』
『約束してくれたような、してないような。その場のノリみたいな感じだったから……』
『ふーん。ってか、星志とそんなに仲良くなったのかよ? あいつ、基本冷たいだろ?』
電話越しに、またいちさんが煙草を吸っているのがわかる。いちさんからの電話が、ちょっと久しぶりだったから実は声が聞けて嬉しい。
『冷たいと言うか、言葉に遠慮がないと言うか……。でも、最近は結構ちゃんと話してくれるかな』
『へー。なんか楽しそうじゃん』
『そうかな? でも、私、この仕事楽しいかも。家政婦なんて考えたこともなかったけど。――いちさんって、不動産業をしている人なの?』
清香は、思い切ってちょっとだけ突っ込んだことを聞いてみる。今まで、いちさんのことは余り聞いたことがなかった。聞いて嫌がられるのが怖かったから。
『あーまあ、事業の一部だな。アレースは個人的な理由が強いけど』
『そうなんだ。いつか、いちさんが住むの?』
『いや、最近まで住んでたんだよ。そこ、都心で駅も近いし住み心地も悪くないだろ? 基本ファミリー向けだけど、そこまで広くないから単身に丁度いいし。知らない奴が隣なの嫌だから、一棟まるまる買ったわけ』
『えっ!? そうなの?』
いちさんが住んでいたと聞いて、清香は驚いてしまう。既にあった家具は、遠慮なく使わせてもらっていたけれど……。まさか、いちさんが買い揃えたものだったなんて……。
『なんで、そんなに驚くんだよ。俺の持ち物なんだし、住んでいたっておかしくないだろ』
『そう言われたら、そうだけど……』
『まあ、それはいいや。とにかく、清香はちゃんと自分を磨けよ。好きに準備金は使っていいから。ちゃんと住人に家政婦としてOKか聞くからな。じゃーな、また電話する』
プツっと電話が切れてしまう。いつものことだけれど、勝手に切らないで欲しい……。でも、今いる部屋を見回して、ここにいちさんが住んでいたんだって改めて考える。
とらえどころのない人だけど、少しだけいちさんを知れた気がして嬉しくなった。




