第六話 第一被害者
最初に、その底抜けに怪しい人物の遭遇したのは女性だった。
結婚二十年目を目前にし、夫ともやや倦怠感気味になっていた中年の女性。
子もおらず、夫も会社に行っているため一人きりとなっていた彼女は、家の中でエアロビクスを行っていた。
ふと、その中で今まで無駄な人生を送ってきたものだなと考える。
一流とも二流とも言えない普通の大学を卒業し、普通にOLとして会社で勤め、予定調和のように職場で会った男性と結婚して寿退職。あとは、もう専業主婦としての毎日を送っていた。
けど、今になって思うのだ。どうして、あの時自分が仕事を辞めなければならなかったのかと。
何故、当時の世間の風潮に流されて優秀であったはずの自分が、辞めなければならなかったのかと。
その時、リビングの机の上に置かれていた携帯電話が鳴った。画面に書かれている名前は夫だ。
嫌々それを取ると、どうやら重要な書類を家に置き忘れたからそれを会社に持ってきてもらいたいという。ただ、それだけ言うと電話は一方的に切れた。自分の都合くらい考えてもらいたものである。
女性は、汗まみれの体で行くのもそれはそれで嫌がらせにはなるのかもしれないと思ったのだが、やはり本能的なものがあるのか風呂場に向かい、シャワーを浴びた。
そして、少しばかりのおしゃれをしてから家を出て、向かう。自分がかつて仕事をしていたあの会社に。彼女は思い返す。あの、自分が一番輝いていたであろうあの時を。
営業成績は夫よりも自分の方が上。上司からの、同僚からの信頼も自分の方が上だった。それだというのに、結婚したら女性は家にいろという昔ながらの夫の言葉に押されて自分は家の中に幽閉されてしまって、全く味気のない人生を送ってしまったものだ。
もっと良い、有意義な人生があったはずなのに、自分はそれをみすみす取り逃がしてしまった。
今更そんなことを悔やんでも仕方がないというのはわかる。だが、それでも思うのだ。
自分には、もっと木の根っこのように多種多様な人生があったはずなのではないかと。
今からでもまだ遅くはない。
今夜にでも夫に三下り半を叩きつけて、家を出て行ってやろう。そして、自分のことを誰も知らない土地にでも行って、そこでまた新たな人生を始めよう。そこで改めて出会った人に恋をして、できれば再婚もして、今の夫といるのでは味わうことのできなかったきらびやかな人生を堪能させてもらおう。
そんな妄想をする権利くらい自分にはあるはずだ。これまでたくさんの制限を、麻縄で括りつけられたかのような人生を送ってきた自分には、それくらいの権利があっていいはずなのだ。
彼女は本気だった。
その時だった
「……」
「え?」
昼間の住宅街、人通りなんて全くないはずだった。左右を一軒家で囲まれた道路。その真ん中を歩いている彼女に、『前の方』から声をかけてきたおかしな人間が一人。
今はもう九月。真夏の直後であり、さらにはここ最近の気象変動の結果から起こる気温の上昇によって四十度を超えていてもおかしくはないほどの暑さ。
で、あるのに対して、長袖の薄汚い茶色いコートを着て、目元まで隠れるくらいのバケットハットをかぶる。さらには、帽子の影から見えたその皮膚はやや青ざめており、とても不気味で、気色悪い。どこからどう見て、不審者。
「あ、あのすみません。私急いでいるので……」
なるべくかかわらない方がいい。女性は、そう当たり前のように判断して不審者の横を通り抜け、その後ろに出ようとした。
次の瞬間だった。男は、コートのポケットの中に深々と入れていたその手を抜いた。横目にその姿を見てた女性は驚愕した。その、彼が持っていた物に対して。
「ッ!」
小型のナイフだ。不審者どころじゃない。間違いなくやばい人間だった。
女性は、悲鳴を上げようとした。助けを乞おうとした。だがーーー。
「た……」
女性のその声は、出ることはなかった。
「か、は……」
背中に走った激痛。まるで、皮でもはぎとられたかのようだ。女性の体は、その痛みに集中するためなのか、それとも痛みで身体の感覚を忘れてしまったためなのか、勢いよく地面に叩きつけられる。顔の痛みを気にしている暇なんてなかった。
とたんに、彼女が考えたこと。それは、逃避だった。何からだ。そんなの、決まっている。自分にこんなことをしでかした人間からだ。
どうしてこんなに痛いのか、そんな理由も全く理解できない。いや、違う。わかっているはずだ。自分は、今、『刺されてしまった』のだと。
おそらく先ほどちらりと見えたあの小型のナイフで。
でも、それを理解するのが怖かった。もし知ってしまえば、この自分の逃げたいと言う本能を無くしてしまうような気がして。
彼女の中に残った本能は告げる。早く、早く逃げろ。このままだと、殺されてしまう。夫と離婚して、新たな人生を思い描いていた自分が、なすすべなく殺されてしまう。きらめいていた未来予想図だったはずなのに、それが真っ赤に染め上げられた古い海図のようになってしまうのが、頭によぎった。
動け、動け、動け。
しかし、彼女の手も、足も、体も、まるで一トンの重りを乗せられているかのように鈍重で、動く気配なんて全くない。
いやだ、死にたくない。自分は、まだ、死にたくない。
彼女の脳裏に、これまでの人生のくだらない場面が一つずつ、一つずつ流れ始める。これは、走馬灯か。
こんな、こんなみすぼらしい人生が、自分の人生だったというのか。こんなものが、死の間際に思い出せるものであるというのか。
そんなの、嫌だ。
いやだ。いやだ。いやだ。
女性は、震える手を必死に上げた。まるで、何かに縋りつくように、何を手にしたいのかわかるはずもない。そんなものない。そんなこと、理解していたはずなのに、それでも手を伸ばした。
その時、夫の姿が見えた気がした。
≪え?≫
瞬間、身体から痛みが消えた。それに、身体がさっきまでとは打って変わって、羽のように軽くなった。今ならばどこにでも行ける。なんにでもなれる。そう、幻視してしまうほどに。
それに、おかしなことがまだある。
≪暑く……ない?≫
先も言った通り、つい先ほどまではうだるような暑さで、歩いているのもだるかったほど。だというのに、今ではその暑さは全くと言っていいほど感じない。かといって、涼やかさも感じない。
いうなれば、無だった。
まるで、自分が暑さも寒さもない国の中に一人ぼっちで置かれてしまったかのように何も感じない。
風だってそうだ。地球が止まったかというほどに、一切の風を感じることができない。でも、近くにある木はかすかに揺らいでいるから、少しでも風が吹いているはずなのだ。
なのに、どうして自分には風が当たらない。まるで、自分一人別の次元の中から世界を見ているかのよう。
≪どうし……ッ!≫
恐る恐る軽くなったその体を持ち上げ、震える両手を見た彼女。そして、彼女は戦慄した。
自分の手が、透けているということに。薄ピンク色をしていたはずの手は、その色を半分失い、その向こうには、太陽の光を映した黒々とした道路が見えていた。
≪う、うそ……≫
信じられない事実が、彼女の脳裏に映り込んだ。まさか、そんなことはないはずだ。だって、だって。
その時、女性は背後から音がしたのに気が付く。
ジュク、ジュクという、トマトをつぶしているかのように気持ちの悪い音だ。まさか、まさか、まさか。
認めたくはないし、見たくもない。きっと、見なかったら自分の中でそれは真実とはならないはずだから。そんな、現実逃避とも似た思いを持った女性。
でも、彼女は負けてしまった。好奇心という名の怪物に。彼女は見ようとしてしまった。その妄想を、肯定するために。
そして、自分でも驚くほどに、その瞬間が来るのは突然だった。さっきまでスローペースで動いていたその体は、まるで自分の可動域を間違えたかのように、そして油をぶちまけた床をすべるように一瞬にして後ろを振り向いた。
そして―――。
≪≫
言葉は、出なかった。
目の前にいたのは、血だまりに沈む自分の『身体』。そして、その身体に一心不乱にナイフを刺し続ける男の姿だけ。
先ほどまでは、目深にかぶった帽子のおかげでよく見えなかった男の表情。
しかし、今ならわかる。今の、自分になってしまったから、わかってしまった。
男は、その凶行をなしている男は、まず、紛れもなく。
「血だ、血だ……血だ……血ィィィ!!!」
笑っていた。
女性の『幽体』は、わなわなと震える手で、自分の口を覆った。そして―――。
≪イヤぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!≫
その叫び声が、住宅街にい響き渡ることはなかったのだった。
『ついに、犠牲者がでてしまったでしゅ……』
天使、ダーツェはそんな二人の姿を遠くから見守っているだけだった。罪人が、何の罪もない女性を背後から刺し、さらに倒れた後からも次々とそのナイフを突き立てている姿。それを、ただ見ているだけ。
あの騒動の後、上司に連絡を取ることに成功した彼女。
上司からは、現世でのことに関しては一切の手出しは無用との達しが出ていた。しかし、こと今回の場合は話が違う。間違いなく、今魂の抜けた女性の身体を刺し続けている人間は、地獄から抜け出した百八の罪人の一人だ。で、あるのならばもしかしたら、助けた方がよかったのかもしれない。
けど、結局自分が出て行ったとしても彼女を助けることは無理だっただろう。先輩である上級天使ならともかく、下級見習い天使に過ぎない自分が罪人と戦っても、きっと。
ともかく、今できることは自分の亡骸をうつろな目で見ている女性を天に昇らせることだけだ。
『こちら下級天使ピルム・ツアイル・ダーツェ。送迎班を要請しましゅ』
彼女は、現世で死んだ魂を天に送るための送迎班を寄こすようにと天に願い出る。しかし、天からの答えはNOであった。
『やっぱり、そうでしゅよね……』
想像出てきたことだから仕方がない。
今自分が刺されている姿を見ているしかない彼女の魂が、天に送られるのは十年か、あるいは二十年か、それ以上か。ともかく、それまでの間彼女の魂は浮遊霊として漂ってもらうしかならない。残念なことだが。
ふと、ダーツェは、懐から二つの、彼女の大きさと同じくらいの長細い宝石を取り出し、女性に向けた。
『……違いましゅか』
なんの反応もしない。はずれだったようだ。
ともかく、早く見つけなければ、この凶行を止めることのできる人間を。ダーツェは、今も悲鳴を上げ続けている女性に興味を失ったかのように、天高く飛び立った。
それから間もなく、女性は通りかかった車の運転手に見つかった。もう、その凶行をなした人物はその場にはいなかった。
これが、地獄から抜け出した罪人たる≪トガニン≫が成した、最初の殺人であったことは言うまでもない。