第一話 助けて
恐らく、今日は人生において最も不運な日であると断言しても過言ではあるまい。
けど、仕方のないことと受け入れれば、もっと言えば、諦めさえすればこれほど楽になれる道がハッキリと見える苦難も、そうはないだろう。
元はといえば、自分の不注意と、己の慢心と、自らの不幸が招いた事実なのだ。
そう、これは自分に科せられた罰である。
「や、やめてください。私、学校が……」
「えぇ、いいじゃん。学校なんてバックレてさぁ、俺たちとイイコトしようぜぇ」
壁際まで迫られた少女、≪城道楽楽≫は、見知らぬ三人の男たちの一人から、いわゆる壁ドンという物を受けていた。しかし、この時のソレは少女漫画などで見るような乙女チックな物とはわけが違う、屈強な体を盾にして女の子に恐怖と絶望を与える、戦慄の壁ドンだ。
この恐怖から逃れるためには、彼らの誘いに乗るというのが、一番手っ取り早いのだろう。
とはいえ、そのような誘いに乗れば自分の人生に暗い影を落とすであろうことは想像に難くない。
一刻も早くその場から立ち去りたいと彼ら三人の誘いを断って、走って逃げようとした。そしたら、このありさまである。自分の運動神経のなさが恨めしい。
間違いない脅迫。それが明確な事実だった。
「あ、貴方達こんなことして……け、警察を呼びますよ!」
「警察? 呼べるのかなぁ?」
「ッ!」
といって、男の一人がアニメキャラクターのストラップが付いたかわいらしいスマホをブラブラと見せつけてくる。
無論、ソレが男の持ち物であるとは思えない。彼が持っているスマホは、自分の物。ドジをして落っことしてしまったのが運の尽きだった。いや、もし持っていたとしても男たちが睨みを利かす状態でそのような行為を許すわけがなかっただろう。
助けを呼ぼうにも、このような場所でいくら叫んでも誰も来てくれない。
そもそも、男たちに囲まれるという恐怖に負けて大声なんて出すことが出来ない。胸が締め付けられる思いというのはこういう物を言うのだろう。
もしくは、蛇ににらまれた蛙、どちらでもいい。
全く、どうしてこんなことになってしまったのか。こんなことなら、事前に通学路の下見をしていればよかったと、後悔ばかりを繰り返す。
彼女は、母親の仕事の都合により遠くの県からつい一週間前に引っ越してきたばかりで、今日は転校初日であった。
夏休み終了間近という絶妙なタイミングで転校したという事、学校への手続きの不備もあったりしたこと等、色々あったゆえの転校初日。
時間に余裕を持って家を出て、一番近い道を通ってこれから自分が通うこととなる学校を目指そうとした。けど、思えばその時点から不幸が始まっていたのかもしれない。
その道を通ろうとすると必ず目にすることになるのは朝からたむろしている不良たち。
後から聞いた話なのだが、その場所は建てられたのはいいものの、誰も使う人間がいなかったために廃墟として存在しているビル群。であり、不良のたまり場だったのだ。
経済成長期だったりバブルだったり、その波によって利用価値の無くなったビルの墓場。誰も使わなくなってボロボロになったビルの悲しげな表情はそのためだったのかと、どこかで納得をした少女。
そんな場所を通ればどうなることか、今考えてみると不良たちが目に見えた時には容易に想像することが出来ていたはずだ。しかし、自分のように凡庸な背格好の女の子を襲う物好きなんていないハズと高を括ったことが間違い。
彼女自身は、極々平凡な容姿だと思っていたが、事実は全く違う。むしろ、彼女は自分のことを卑下に見すぎだった。
長い黒髪に真珠のネックレスのように連なった統合性のある三つ編み。
緩やかな流線型を描く端麗な鼻。
小粒のような目に、それを包む柔らかな瞼。
胸は、確かに平均よりも下なのかもしれないが、しかしモデル並みの身長とウエストは、そのデメリットを認識させない程のプロポーションと素質を兼ね備えていた。
そんな見目麗しい女の子が不良たちの溜まり場に足を踏み入れてしまったのだ。それこそ、食物に群がるゴキブリのように一斉に襲い掛かられてもなんら不思議はない。
こんなことなら、母親から言われたとおりに最初は車で送ってもらったほうが良かったのかもしれない。夜勤から帰ってきたばかりの母の提案に乗るのも忍びない。なんていわずに、甘えておけばよかった。
そもそも、引っ越し当日から今日に至るまで、荷下ろしや荷物整理を理由にして、下見を全くしていなかった自分にも責任が―――。
いや、もう言い訳はいい。今は、この状況をどう打開するかだ。
力づくで逃げる。
か弱い自分にできるわけがない。
助けを呼ぶ。
助けてくれそうな人間なんていないと言ったばかりだし大声も出そうにない。
男たちに従う。
これが、最低で、最悪、だが下手に動いて怪我を負わない最良の手段となってしまう。非常に口惜しいが。
だが、これだけは決める。
これから、どれだけ辛いことがあっても、どれだけ心が壊れそうな事をされても、絶対にこの男たちには屈しない。
決して、心を渡さない。
「……」
彼女の選択は無言。もし、ここで分かった等と言えばその瞬間自分が彼らのソレに同意してしまう事になる。
そんなのは、嫌だ。
だから、彼女の選択は無感情。
彼らのことだ、恐らくこの後自分は無理やり何処かに連れて行かれる。それまで、何の感情も示さない。口を紡ぎ、鞄を抱きしめてただただじっとしていること。
でも、身体がこれから自分の身に降りかかることを考えるだけで震得てきてしまう。それまで自分が経験したことのないことをされるのだから、党是のことだ。けど、怖いとか、悲しいとか、そんな感情は表に出さない。
それが、彼女にできる唯一の反抗。
弱い自分の罪。そして、罰。
自分が強かったのならば、よかったのに。そんなことを考えると泣きたくなってくる。でも、泣かない。きっと、泣いたら彼らを刺激してしまうであろうから。
だから、泣かない。
決して。
だから。
≪助けて≫
口には出さない。出ることはない。だけれど、無意識に近い形で、無音で口の形が変化した。
それは、彼女の心が写しだした本心だったのかもしれない。
例え誰も助けてくれない。そんなことが分かりきっていたとしても、それでも彼女の精一杯の身体での抵抗を、心が拒否した。
助けてもらいたいのならそう言えばいい。
嫌なら、そう叫べばいい。
逃げ出したいなら、逃げればいい。
怖いのだろう。
苦しいのだろう。
辛いのだろう。
だったら逃げろ。
逃げて、どこかに立ち去れ。
男たちから逃げ出すチャンスは今だけしかないのだ。
だから逃げろ。逃げろ。逃げろ。
声に出せ、叫べ。言え。
心からの脅迫が彼女の脳内に響く。
そうだよ。嫌だよ。怖いよ。
恐ろしくて、今にも漏らしてしまいそうだ。
でも、自分にできることなんて、できることなんて。
「い……」
「あぁ?」
「いや、だ……」
出来ることなんて、これしか、これっぽっちしかない。悲しいけど、でも、これしか自分に残されている抵抗はなかった。
でもそれでいい。正解だ。
自分の心を曝け出して何が悪い。
心の叫びに耳を傾けて何が悪い。
今の状況を嘆くことの何が悪い。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌。
「嫌! 私は嫌!」
「ッ、テメぇ!」
ララは手に持っていた鞄を不良に投げつけると、自分が来た道を逆走する。
その行動に意味はない。ただ、そっちの方に誰もいなかったから走っただけだ。
もしかしたら、この後捕まった自分は彼らにくみ伏せられているときにこう考えることだろう。こんなことなら、寝坊なんてするんじゃなかった。こんなことなら、逃げようとしなければよかったと。
でも、それでも嫌だった。自分で、自分の人生を終わらせるような真似はしたくなかった。
もしかしたら、それだけで満足だったのかもしれない。最後まで彼らに屈しなかった、という最悪の自己満足のためだけに、こんなことをしていたのかもしれない。
けど、彼女はなにも間違っていない。この先に待っていたのが、自分にとって最悪の未来であったから。だから、逃げたんだ。それの何が悪い。
逃げることを良しとしない人間が多くいるこの世の中。何故にげた。何故立ち向かわなかった。そう言われてしまうことが度々ある。
しかし、彼女は立ち向かったのだ。立ち向かい、そして考えた結果浮かび上がった最善の答え。それが、逃げることだった。そして、それは最良の選択であった。ひ弱な女の子にできる、最高の抵抗だ。
何より、希望を失わないということは、最も難しく、そして強い心がないと選択することのできない、いや、選択肢にすら浮かぶことがない最強の武器だ。
それを失わないから、彼女は逃げるという勇気をだすことができたのだ。
絶対に屈しないという勇気を持つことができたのだ。
彼女は決して愚かではない。勇者でもない。ただただ自分が出来うる最善をやっていただけ。
例え、それが無駄に終わるとしても。
「この、ガキッ!!」
「!」
男たちの手は、すぐ背後にまで迫っている。捕まるのも時間の問題だ。
けど、彼女の中に後悔は全くなかった。自分は精一杯の抵抗をした。彼らに決して屈しなかった。
それを、誇りと、したかった。
けど。
それを、『彼女たち』は、許さなかった。
背後から迫るバイクのエンジン音。それは、最初は紛れもなくただの通りすがりのバイクにすぎなかった。
だが、この時ララは知らなかった。それが、彼女を救い出す。救世主の惨状を知らせるファンファーレであるということを。
「ハァァァァァ!!!」
「グボァ!?」
「な、何ぃぃぃぃ!?」
「あ、あぁ……」
通りすがりのバイクの後ろに乗っていたヘルメットを被った女性は、四人とすれ違う直前にシートの上に立ち、勢いよくジャンプした。
すると、その身体は慣性の法則によってバイクの走っていた方向とほぼ同じ速度で進み、ララを掴もうとした手の持ち主の背中に飛び蹴りをくらわしたのだ。
瞬間、男の肺から一瞬にして空気が抜け落ちた。背後からの急襲という予想もしなかった攻撃になんの対処もできなかった男は、前方に受身を取ることなく倒れ込み、気絶。
飛び蹴りを食らわした女性は、その男の前に着地。スピードもあったために数メートルほど靴底が地面に擦られ、薄い煙が上がる。
気が付くと、女性はララと男たちの間にいて、ララを守るように立っていた。
「大丈夫?」
「あ、はい!」
女性は、そうララに確認すると。すぐさま男たちの方を向き直る。
その時、ララは見た。その右腕の袖に付けられた校章を。ソレは、自分と同じ物、つまりこれから自分が通うことになる高校の生徒なのだ。
「な、何だテメェは!?」
「私? ただの……」
言いながら、女性はメットを取る。すると、中からは黒い短髪の目の鋭い綺麗な女性が現れ、そして言った。
「風紀委員よ」
と。この時、彼女の不幸は一旦の終わりを迎えることになる。それから数時間後の、さらなる不幸に備えるかのように、最上の幸運が、もたらされたのだった。