第十五話 そして、鼓動は静かに消えゆく
「あ……れ……」
ホコリは、違和感に戸惑いを隠すことができなかった。視界には、正方形の造形が幾重にもつらなかったような天井。そのところどころに最新式の細長いLEDライトが取り付けられているのを見ると、ここは多分学校の中なのだろう。
おかしい。確か、自分は先ほどまでバイクにまたがっていたはず。バイクで、グラウンドで、ライクの身体があるはずの場所に、そしてあの怪物の懐に向かっていたはず。
なのに、なんでこんなところにいるのだろう。どうして、室内に。
「わ、たし……ッ」
その時、彼女は気が付いた。体中に刺さっている鉄パイプに。いや違う。これは、この学校で使われているテーブルとイスの足部分だ。それが、体中いたるところに突き刺さっている。そして、その身体を背から腹に、右腹から左腹にと貫通しているのだ。
それに気が付いたとたんに、痛みが遅れてやってくる。
「う゛ぅ……」
しかし、その痛みを声に出すことはできず、口から出てくるのはただのうめき声だけだ。再度問う、一体、自分に何が起こったのだと。
破裂しそうなほど痛む頭で考える。
でも、思い出せない。他の景色という物を見れば、何か思い出すのだろうか。彼女は、かろうじて動く首を起こして前を見た。
すると、見つけた。先ほど自分が向かって行ったはずの怪物を、崩壊した壁の向こうに。
どうやら、その穴はできてすぐのようで、こうしてみている間にもパラパラと小石の破片となって崩れ落ちている。
あぁ、そうか。思い出した。自分に何があったのかを。
なんてことはない。ただ、無様な様をさらしただけだったのだ。
「ライク……」
怪物を目の前にしたとき、彼女は心中穏やかじゃなかった。当然だろう。自分にとって、いや全人類にとって人外の敵と戦うのは、おそらくこれが初めての事。
自分の武器と言ったら、競技用で、さほど殺傷能力のない矢、それから何かの役に立つかもしれないと持ってきたガラス片くらい。それでどうやって戦えと言うのだ。
ライクのバイクのサイドバックの中に入っている武器を使用することも考えた。だが、彼女のことだ。きっと人間を気絶させるまでは言っても殺傷できるほどの威力を持った武器を持っていないだろう。
やはり、自分は今持つ武器で戦わなければならないのだ。
これほど怖いことがあるか。この先、絶対にないと断言できるほどの恐怖だ。学校と怪物の間で急停止した彼女は、一度深呼吸をした。
「私だって死にたくない……でも……」
本当は、今すぐにも逃げ出したい。ライクが、そうさせてくれたように。でも、それじゃだめだ。自分一人逃げて、神高の生徒を守れないで何が風紀委員だ。
彼女を突き動かしているのは使命感だった。逆に言えば、使命感で自分のことを鼓舞しなければこの震えている足も、手も、止めることができなかった。
彼女は、怒りを奥底に隠しているような目で左手を見つめてから、クッと目を閉じると右手でその震えを止めようとする。息も荒く、まるで獣のようだと、自分の今の姿を見た人間は思うのかも知れない。
やれる、戦える。そうしないと、二人に申し訳がないじゃないか。何のために自分があんなことをしたと思っている。誰かの魂を救うためだろう。落ち着け。落ち着け。落ち着け。
でも、決して彼女は冷静になることはできなかった。当然の反応だ。怪物を相手に冷静でいられる人間なんていやしない。もしいたとしたらそれもまた怪物。恐怖こそが、人間を人間たらしめている証拠なのだ。
だから。彼女は何も間違っていない。
故に。
「ッ!」
彼女は、なすすべなく死んでいくのだ。
そうか、自分は吹き飛ばされたのだ。薄暗い教室。多分、四階にあった空き教室なのだろう。そこまで、自分は吹き飛ばされていたのだ。
一瞬の間に、自分の中の恐怖と戦っている間に。何もなすことがないままに。
身体が原型をとどめているところを見ると、直接殴られたり蹴られたりしたわけじゃないようだ。とすると、風圧、なのだろうか。あの怪物が持っていた包丁の攻撃、いや攻撃をするために振り上げた時の風なのかもしれない。今となってはどっちでも構わない。ともかくハッキリとしていることは、自分が無様に吹き飛ばされ、そして今まさに死のうとしているという事。それだけだ。
分かるのだ。ハッキリと、意識を失うという事が。
血が抜け落ち、痛みが徐々に遠くのかなたに抜けようとして、そして何も考えられなくなってくる。
「ハッ……ハッ……」
息も絶え絶えで、全く肺に空気が入っていく気配がない。よく見ると、鉄パイプの一つが肺を貫いているように見える。もしもソレが死因であるとするのなら、何と苦しい死に方であろうか。
指先はもう、動かすことができなかった。まるで、人形の指になってしまったかのように硬く、平べったく床に這いつくばる指と手。
足、いや下半身も重力に負けてしまったようで、先に筋肉が死んでしまったかのように感じる。
けど、まだ感覚が死んでいないというのはつらい。床に広がっていく暖かい水の羞恥まで感じてしまうのだから。もう少し時間が経てば前だけじゃなく後ろからも出てきてしまうのかも。まぁ、その辱めを受けるまで自分の命が持っていればいいのだが。
あぁ、死ぬのか。自分は。
もともと最期はろくな死に方にならないと思っていた。でも、だからといってまさか怪物に負けて死ぬなんて、想像もしていなかった。
こんなことになるのなら、最近話題になっているデパートの巨大イチゴパフェ、食べればよかったかな。そんな後悔がよぎる。でも、そんな後悔をしてももう後の祭り。後悔のない生き方をしてこなかった自分が悪いのだ。
でも、それでも。山のように後悔が浮かんでは諦めで消え、浮かんではまた泡のように消えいく。悲しい人間の性ともいうのだろう。後悔にすらならないという小さい出来事まで、後悔に浮かぶのだから。
でも、その中でも一番の後悔といったら、やっぱりアレなのだろう。
彼女は、将来警察官を志していた。過去にとある事件によって両親を奪われた彼女は、いつかその犯人を捕まえる、いや場合によっては≪殺して≫やるとまで意気込んでいた。小学校高学年の時から始めた柔道や剣道、それからプロレスだって、その一端。
彼女の殺意は並大抵の物じゃなく、威圧感だけで相手を恐怖に陥れるほどだったという。
絶対に犯人を見つける。ただ、それだけが彼女の生きがいだった。けど、中学生の時に彼女は知るのだ。もう、両親の仇はこの世にいないのだと。
彼女は絶望した。目標を、たった一つの生きる目的を失った彼女は、抜け殻のようになった。
自分が、何故両親の代わりに生き残ったのか。その意味も分からずに虚無の毎日を過ごす。そんな日々が何日も、何か月も続いた。
その時、彼女を救ってくれた女の子がいた。それが―――。
『ほこりん!』
『ライク……』
かすれていく意識のなか、もう彼女の目に映る物は現実じゃなかった。あぁ、そうか。これが、走馬灯というやつなのか。
よかった。自分が最期に見る夢が、親友の、友達の物で。
よかった。辛い記憶を呼び起こさないで。
死ぬのは確かに嫌だ。でも、それ以上に辛い記憶を呼び起こされるのがもっと嫌だ。
そうか、もうこれで辛い過去を捨て去ることができるのか。もう、あの日の悪夢に、両親があの男に殺される夢を見ずに済むのか。
だったら、それは、幸せなことなのかもしれない。
ようやく終わったんだ。人生という物語が。
完成したんだ。自分という存在が。
逃げることができるんだ。あのトラウマ、そして地獄から。
ゆっくりと目を閉じた彼女。その瞼が開くことは永遠になかった。
ここに、彼女の心音があった。命をつなぎとめるための血液を体中に送る音だ。
トクン
トクン
トクン
それは、もっと長く、彼女が老婆になるその時まで続くはずだった命の音色。
トクン
トクン
トクン
子を宿したとき、子守歌となってくれるかもしれなかった最初の音楽。
トクン……
トクン……
トクン……
でも。
トク……
ト……
……
彼女だけの音色は、二度と鳴ることはない。命の源が、永遠にその役目を終えたのであった。
奇妙なことに、その時ホコリの顔には笑顔が浮かんでいた。
偽善者という仮面をかぶった、微笑みが、永遠に残り続ける。そのことも、知らない。
彼女は、幸せ者だった。
愚かなことに。




