第十二話 殿、ライクへの頼み
コトは、あっけなく終わってしまった。
ライクが投げた球を取りに行ったララ。随分と遠くに飛んだものだと感心しながらソレを拾おうとした彼女の目の前には黒い人影が立っていた。
彼女は二つの不信感を抱いた。
一つ目にこんなにも暑い中でコートを着ているということ。
まだ八月が終わって間もないころ、猛暑といっても差し支えのない暑さの中で、普通の人間がそんなものを着るだろうか。
少なくとも、自分は着ない。汗だくになって熱中症になって倒れるのがオチだから。
でも、影は見たところ、汗一つかいていなかった。それが、より一層うす気味悪さを増大させていたと言える。
そして、もう一つの不審な点。それは、何故学校の中にそんな人物がいるのか、だ。
生徒、のわけがない。こんなドス黒い人間が高校、それも女子校の生徒のわけがない。
なら、先生。いや、この学校の先生はみんな女性だと聞いている。唯一の例外は理事長だけ。
なら、なんなんだこの人物は。誰なんだ、この影は。
答えは、一つしかない。
学校の中に入り込んだ、いわゆる不法侵入者。犯罪者だ。
そう考えたララは咄嗟に、ライク達の方に逃げようとした。きっと誰だってそうすることだろう。
けど、この時の彼女は二つ大きな勘違いをしていた。
一つが、その影をただの人間だと思っていたということ。
そして、その影から逃げることができると思い込んでいたこと。
逃げる、という選択肢を、残念ながら影は彼女には与えなかった。
なぜなら、影はすでにコトを終えていたから。
「え?」
最初に彼女に飛来した感情は痛みじゃなかった。
違和感、のような物。言葉にできないムズムズとした感触に、彼女は気色悪さを覚えた。最初は、そんなものなのだ。
胸を見ると、先ほど一瞬だけ見えた包丁の先が左胸の中に入っていた。
キラキラとした刃の腹が見えることから、おそらく包丁の刃を横にして突き刺したのだろう。
恐ろしいことだ。何が、と聞かれればそのことを冷静に俯瞰で見ている自分がいるという事。
もしかしたら、この時点で彼女は半死半生の状態だったのかもしれない。あるいは、自分の終わりを知るためのロスタイムか。
どちらにしても自分が今までに経験したことのない惨状を目の前にして、彼女は恐ろしいほどに、そして不自然なほど冷静だった。
おそらく、その刃を体内に受け入れて、力を一瞬のうちに無くした身体を支えるので手一杯で、それ以外に何も考える余裕なんてなかったのだ。
胸からちょっとずつ流れ落ちている血に、下半身を伝っている黄色い液に、気にかける気力も時間もわかない。
ここまでのことをされてるのにも関わらず、彼女が影と出会い、胸を刺されてからまだ十秒もたっていない。
むしろそんなわずかな時間で、これだけのことを考えていたこと自体、奇跡か幻か。
もしかしたら、これが俗にいう、死を前にした人間に訪れるというスローモーション現象なのか。
けど、その真相なんてもはや、どうでもよかった。
だって、すぐにそんなもの関係なくなるから。
「ぁ……」
遺言でも残そうとしたのか。それとも、ようやく自分に訪れた痛みに耐えるために叫びたかったのか。どちらかはもうわからない。
もう、彼女の命は尽きようとしていたから。
「ッ!」
シャボン玉が飛んだように噴出した自分の血を見ながら、彼女は天を仰いだ。とても、綺麗な青だった。
透き通るような海の色をした空。いつか、この空を飛んでみたいと、幼いころに夢見た空。
そうしたら、どれだけ気持ちのいいことだろうか。そう考えるきっかけを与えてくれた青い空。
でも、今はもう灰色にしか見えない。色を失った世界に、痛みだけが残る。
そんな世界、嫌だな。そう考えながら、彼女の世界は、原型を失ったのだった。
まるで、自分の理想の空を、心にとどめておきたかったかのように。
「ララ!」
ララの胸元から血が出た瞬間。ライクは走り出した。あの黒い影が何者であるのか。どこから現れたのか。そんなもの関係なかった。
少なくとも、今はララを助けなければ。あの包丁が刺された場所は通常心臓が置かれている箇所だ。
本来であればその前にある肋骨がナイフなどの凶器から心臓を守ってくれるはずなのだ。
が、影はナイフを真横にして彼女に刺していた。その刺し方だと、ナイフは肋骨と肋骨の間をすり抜けて心臓に突き刺ささる。
人間は、心臓から血液を送ることによってその命が保たれている生き物の一種だ。故、その心臓に少しでも傷がついたら命にかかわることになる。
なら今から助けても間に合わない。
分かっている。そんなこと。でも、それでも動かなければならなかった。
助けられない命だからといって、見捨てていいはずがなかったから。
「ッ!」
ライクは、制服の内側からララに投げたボールと同じものを取り出した。そして、その側面にノリで簡単に引っ付けてある紐を取ると、ポケットから取り出したライターで火をつける。
瞬間、その紐はただの紐としての役割を失い、導火線というこの世で最も危険な紐の一つに生まれ代わった。
導火線に塗ってあった油を伝い、火はみるみるうちにボールのくぼみの方に進んでいく。
ライクもまた、ララと同じくたった数秒の間に様々な思惑が頭の中を駆け巡った。しかし、彼女の場合はララのソレとは違う。単純な頭の回転の良さが功を奏し、一瞬にしてララ救出プランを創造する。
ライクは投げる。ララに向け、そしてその向こうにいる人影に向けて。
古来の忍者がよく使用していたという道具。≪煙玉≫を。
「ッ!」
煙玉は、見事に≪二人≫を通り越した先に飛んでいった。
そして、流線型の軌道を描きながら、人影の腰付近まで落ちた。
その瞬間、火がボールの中の火薬にたどり着き小さい爆発を起こす。
彼女は武器を作るときには人を傷つけないような武器しか作らないという事を信条としている。故に、そのボールの中に入っていた火薬は微量、それこそ爆竹のそれよりもさらに少ない量だった。
だが、それで十分。煙玉という名前の通りこれは攻撃用の玉ではない。煙幕をその場に張る物だ。
しかし、ただの煙幕と侮るなかれ。
中には、唐辛子やらコショウ、それから小麦粉などの物質を練りこんである。それが煙として辺りに充満すれば、目や鼻から体の中に様々な物質が入って最低十分は身動きが取れなくなるはずだ。
これは、近くに味方が―今回の場合は倒れているララであるが―いる場合は同じ被害を与えてしまうために使用してはならない武器。けど、こと今回の場合はそんなことも言ってられない。
ライクは、煙玉の発動と同時にさらにそのスピードを上げ、煙が目に入らないように目をつぶり、そして吸い込まないように呼吸を封じながら飛び蹴りを人影に向けてはなった。
「ッ!」
が、手ごたえがない。あのスピードなら普通の人間は避けられないはずなのにどうして。
ともかく、今はララを何とかしなければ。ライクは、手探りでララがいたであろう場所を探り、その身体を掴んだ。
そして、その身体を地面に引きずって急いで後退する。煙がまだ続いている間に。
ララが刺され、ライクが後退するまで一分にも満たない。そんなわずかな時間で行われた一連の行動に、ホコリとリリはただただ見ているしかなかった。
いや、というよりも突然のことで何かをする暇がなかったのだろう。気が付いたら、目の前からライクが消えて、ララに向かって走り出していたのだから。
彼女が煙玉を持っていたこと自体は随分前から知っていた両者。でも、実際にソレを使用するところを見るのは初めてだった。
これまでは、そんなものを使わなくても済むような相手ばかりだったから。
主に、スタンガンや催涙スプレー、あるいは眼力でなんとかできる、≪人間≫ばかり相手にしてきたから。
でも、今回彼女は迷うことなく煙玉という手段を用いた。ソレ程の緊急事態が、目の前で起こったのだ。そう、二人が理解できたのは胸にナイフの傷跡をつけたララを見た時だった。
「大丈夫!?」
「けほっ、けほッ、私のことはいい! ララちゃんは!?」
どうやら少し煙を吸ってしまったようだ。咳き込むライクはしかし、己よりもまずララのことを気に掛けている。いつも通りに、他人優先の子だ。
とにかく、ホコリは、そんな彼女が連れて来たララの姿を見ると、唇を噛み占めるしかなかった。
「……」
見ただけでわかる傷の深さ。徐々にその量を減らしていく、命の水とも評される血。そして徐々に青ざめていくてララの肌色。
もう、だめかもしれない。
そんな考えが、頭によぎった瞬間、ホコリは頭を横に振るとリリとライクに言った。
「リリ、学校のみんなに伝えて! 不審者が学校に侵入したって! ライク、十分、いえ五分でもいい! この場を持たせて!」
「ホコリは!?」
「私は、ララちゃんの≪身体≫を安全な場所に連れて行くわ」
と言いながら、ホコリはララの身体を背負う。
その瞬間、背中に伝わる気持ちの悪い暖かさ。けど、そんなことも言ってられない。
これがいま、彼女から抜け落ちてる命の源なのだ。だから、せめて祈らなければならないのだ。
お願い、これ以上流れ出て行かないでと。
「分かった。ホコリ、お願い!」
「もちろんよ!」
ララを背負ったホコリは、ライクに背を向けて走り出した。
リリもまた同じく。生徒たちに不審者の、いや殺人鬼が学校に侵入したのだと伝えるために駆け出した。
そして、唯一残ったライクは、ただただ見つめているだけであった。
「……」
何事もなかったかのように煙の中から現れた人影を。
その手に、銀色にちらつかせている包丁の柄を握りしめて、ただただ冷酷なまでにライクのことを見つめるだけの人影。
いつ以来だろう。ここまで背筋が凍って、胸が躍るのは。




