プロローグ 始まりは地獄から
この世に希望なんてものはない。あるのは、永久の罰に苦しむ結末と、たった一つの魂の行き場のみ。それが、この世界における真理。
地獄の収容所の一つを、業火が包みこむ。その瞬間、あふれ出したのは亡者。許されざる罪を、永遠の罰によって償わされている者たちの魂。
その魂は、人間が地獄の鬼と評している空虚な魂が管理している。その、空虚な魂たちはなにも感じない。巨大な爆炎にのまれたソレに対し、どこかで虫が一匹死んだ瞬間であるかのように興味なく、ただただ罪人たちに罰を押し付けるのみ。
ある人間の幻想によって生まれた地獄の世界。
ここに希望はない。あるのは、叫び、嘆き、もがき、憂鬱、慄き、怨嗟、憎悪、そして、憤怒。
そんな負の感情にまみれた中で聞こえるのは軟らかい肉を執拗に叩いている鞭の音。
皮をそぎ、中にある肉を、そして骨を裂いてもなお止まらない。しなり続けるそれを、ただただその身に受けながら、咎人は永遠に終わることのない作業を続けるだけ。
いったい、その作業がどんなことにつながっているのか。そんなこと、彼らには関係なかった。
無駄に浪費していく時間。やりたくもない労働。しかし、そのなかでもなお痛めつけるためだけに振るわれる暴力の嵐。嫌だ、もう許してくれ。どれだけ懇願しても止めてくれるはずもない。
周囲にいる咎人たちは、その姿を見ながら作業を続けるのみ。誰も助けようとも、咎めることもしない。当然の事。彼らは同じ穴のムジナなのだから。
この咎人たちの中に彼のように鞭で叩かれなかったものなど一人もいない。きっと、もうしばらくしたら自分たちも叩かれることだろう。
わかりきっていたとだ。しかし、鞭であるのならまだ運がいい。
ある時は、鋭くとがった針山に落とされることもある。
またある時は、金棒で殴られ、すりつぶさる時だってある。
ある時は穴の中に入れられ、音も光も届かない場所で何年、何十年、何百年、何千、何万もの間孤独の裁きを受け続ける。
共通しているのは、この世界では元人間は眠ることができないという事。受けた傷の痛みは、精神的苦痛は、永遠に抜けることがないという事。
一体いつになったらこの痛みは終わるのか。一体いつになったら自分たちは救われるのか。それを考える咎人も何人かは存在した。
そんなもの、ただの都合のいい妄想であるとも知らないで。
この罰に刑期なんてものはない。半永久的に続けさせられることを、多くの咎人たちは知っていた。
次に自分たちにどのような罰が待っているのか、そんな恐怖を抱く余裕もない。あるのは、ただただこの罰を受け続けなければならないというあきらめだけ。
あるのは、無だけだった。
無意味に流れる時。
無意味に痛めつけられる身体。
無意味に続く労働。
そして、その無意味に心が持たなくなった時、彼らの魂は消滅する。罪を働く魂の淘汰が、行われるのだ。彼らは、その時まで待たなければならない。いつ来るかわからない程の、永遠の安らぎの時を。
それが、その土地の本来の姿のはずだった。しかし、その事件は突如として発生した。地獄の片隅にある、現世で決して許されることのない罪を犯してきた咎人が収容されていた区画。
そこで、巨大な爆発が起こり、空間に裂け目が生まれた。
渦巻のようにも、ブラックホールのようにも見えるソレに、咎人たちは、我先にとその空間に飛び込んでいく。
その場所から逃れるすべを探し続けてきた罪人たちは、その渦が何であるのかも考えることなく、自由を得るために遁走する。
逃げて逃げてまた逃げて。ついに、その区画にいたはずのすべての咎人が消え去った。
その数、≪百八≫。
「な、なんてことでしゅ……」
その様子を、外側から見ていた、一体の天使がいた。
この世界には性別なんてものは存在しないし、意味も持たない。でも、その外見的特徴から、差し当たって≪彼女≫、と呼ぶことにしよう。
彼女は、下級天使と呼ばれている存在。普段であれば地獄の長である閻魔大王に仕えている天使の末端中の末端。
しかも、ついこの間無から生まれたばかりのまだ仕事のシの字も知らないような見習いだった。
そんな彼女が、地獄のすぐ真上にある天使たちの住処を掃除していた時に起こった事件。
突然真下に浮かんでいたブドウの房のようになっていた咎人たちの収容所で、爆発が起こった。当然のように、彼女は急行した。
しかし、見習い天使である彼女にできることは何もない。ただただ、咎人たちが逃げている姿を見守るだけだった。
「せ、先輩たちに連絡しないと!」
彼女は、このことを早く先輩の天使や閻魔大王に伝えなければ。そう考えた。だが、そんな時間はない。
「あ、さ、裂け目が!」
見ると、おそらく爆発によって生まれた空間の裂け目が、その場にいた咎人の魂をすべて吸い込み、寿命を終えたクジラかのように徐々にその国が狭まってきている。
裂け目が、一体どこにつながっているのか分かった物じゃない。ここで咎人たちを逃がしてしまったら、そのつながっている世界で何かされてもすぐに対処できる物じゃない。瞬時に彼女の脳裏に浮かんできたのは、心底青臭い正義感だった。それが、身を滅ぼすという事も知らない程に幼い、初心な天使。
「間に合え!!」
彼女は、無我夢中でその裂け目に飛び込んだ。
ないはずの魂が吸い込まれるような感覚。自分が自分じゃなくなるような恐怖を感じながら吸収される天使としての自分。このまま、バラバラにされてしまうんじゃないかという恐ろしさを感じたまま、見習い天使≪ダーツェ≫はついに降り立つことになる。
彼女たちが、≪現世≫と呼んでいる世界へと。
「ん?」
バイクにまたがった、長髪で桃色の髪の少女は、不意に空を見上げた。でも、そこにあったのはいつも通りの空だけ。
青い空に白い雲。そして、身体を燃やすかのように暑い日差し。
もう夏休みも終わったというのになんて猛暑なのだろうか。でも、先ほどの感覚は、そんな暑さとは真逆に位置するひどい寒気だった。
背筋を何か気色の悪いものが通ったあの感触。まるで、得体のしれない獣に襲われるときのようだった。アレは、一体何だったのだろう。
「どうしたの?」
と、少女の親友でもある黒い短髪の少女が心配そうに話しかけてきた。桃色の髪の少女は、その少女をじっと見た後。
「ううん、別に」
といって、笑うだけだった。
「じゃぁ、いいけど……早く学校に入りましょう? 風紀委員として、遅刻をするなんて……」
「分かってるって!」
といって、桃色の髪の少女はバイクをふかして、すぐ近くにある学校の門へと向かった。
が、その時だった。
「ッ!」
「……」
二人は聞いた。今まさに、自分たちのすぐそばで起ころうとしていたある事件の話を。
動き出したばかりのバイクを停車させた桃色の髪の少女は、後ろで彼女にしがみついている少女に目を合わせる。
「聞いた?」
「えぇ、確かに」
どうやら、二人ともその声を聞いたようだ。何者かからの、無言の訴えを。
決して、誰も言葉を交わしていないというのに、その言葉を確かに聞いた。そう考えた二人は、互いに不敵な笑みをこぼす。そして、背後にいる方の少女が言った。
「遅刻確定ね」
「いくよ!!」
こうして、二人を乗せたバイクは学校のある方へと向かずに全くの別方向に向けて走り出した。
声なき声を、助けるために。そして、声を届けてくれたモノたちの思いに報いるために。
それができるのは、今を必死になって生きている、自分たちだけだと信じて。
たとえ、それが偽善であると、知っていたとしても。